re-birth




「――もしも、さ」
 ふいに悟浄から声をかけられた。
 八戒はそろりと、声のした方へと視線を向ける。
 すっかり日の落ちた室内に、部屋の明かりも灯さないまま。
 カーテンのないガラスの窓からわずかに差し込む外灯の明かりだけが、ほのかにうっすらと室内を照らし出しているだけだ。
 昨晩の激しい雨と襲撃が嘘のように、外は夜の静寂を取り戻している。
 先刻の無茶のしすぎでいまだ体力が回復しきっていない八戒は、ベッドにぐったりと横たわったまま、窓際に立ち煙草を吸いながら外を眺めている悟浄を一瞥した。
 悟浄はひどく神妙な面持ちで紫煙を吐き出している。
 いつもの彼らしい笑みはすっかり為りをひそめ、何か思うところを胸に抱えているような悟浄の精悍な面をただ静かに見つめる。
 八戒の視線にいたたまれなくなったのか、悟浄はわずかに顔を伏せた。ふぅ、と、やるせなさげに息を吐き出す。
「今、――あの男が、生き返らせてくれるっつったら、どうする?」
「……何を、です?」
 本当は。
 悟浄が何を言いたいのか、敏い八戒はすぐに解ってしまったのだけど。
 解ったのだが、あえて彼の口から聞き出したくて。わざと訊ね返す。
「……っ」
 悟浄はぎくりと身を強張らせた。
 ほんの一瞬、逡巡するように紅眸が揺れたのを、窓ガラスにうつった彼の表情から窺うことができた。
 八戒は彼に気づかれないよう、くすりと、ほんの少し口許を歪めた。
 こういう時。
 本当に悟浄はやさしい、と思う。
 自分から口にしておきながら、けれどもはっきりとその名を言葉にのせれば八戒が気にする――もしくは、傷つくと思っているのだろう。
 それなのに。判っていて、彼に言わせる自分はなんて――ひどい男なのだろう。
 今度ははっきりと、八戒は嗤った。くつくつと、喉を震わせながら嗤った。
「言ってくれないと判りません」
「……八戒」
 悟浄はようやく八戒へと向き直った。窓を背にたたずむ彼の表情は、逆光のせいで黒く浮かび上がってみえる上に、ひどく硬い。
 さらに逡巡するよう、視線を八戒にあわせることなく泳がせた。
「そりゃあ、……お前のねーちゃん、を」
 ひどく言いにくそうに、奥歯に物が挟まったような物言いで、悟浄はようようそれだけを口にした。ばつが悪げに、八戒と目をあわさないまま。
「あぁ……花喃を、ですか」
 八戒はその名を一言一言噛み締めるようにつぶやいた。
 かつて、己のすべてをもって愛した。そして今も愛している。そのいとしい女性(ひと)の面影を脳裏に反芻し、八戒はふと唇をほころばせる。
 すると、悟浄がわずかに息を呑む気配が伝わってきた。
 八戒は小さく瞠目すると、表情を改めた。八戒の方を見ようとはしない彼を、横臥したまま見据える。
「そんなの、……無理に、決まってるじゃないですか」
 八戒の言葉に弾かれたように、悟浄はやっと八戒へと顔を向けた。何か言いたげに口を開きかけ、だがすぐに苛立たしそうに長い緋色の前髪を掻きあげる。
「判んねぇじゃん。やってみねーと。もしかしたら、あの男ならデキちゃうかもよ?」
 短くなった煙草を灰皿に押し付け、悟浄はわざとくだけた口調で言う。八戒は静かに、悟浄の動きをつぶさに凝視していた。
 ――悟浄の危惧、は。
 もしも、今、目の前に花喃が甦ったのなら。
 間違いなく、八戒が花喃を選ぶことを示唆してのことなのだろうか。
 そして、そうなった場合、悟浄は身を引くとでも言いたいのか。


 だとすれば。なんて馬鹿なのだろう。
 なんて馬鹿で――なんていとおしいのだろう。


 胸奥からわき上がる、痛みにも似た切ない想いに絶え入るよう、八戒はゆっくりと瞳を閉じた。
 どうしようもなく心の底から込み上げてくる、言いようのないやるせなさに、眦が震えるほどだ。目の奥があつくて、滲むようで。
「……くくっ……まったく、貴方ってひとは……」
 八戒は小刻みに痩躯を震わせながら、含み嗤いをくり返した。
 込み上げてくる嘲笑を隠しもしないで、口許だけを右手で覆う。
「……ナンだよ」
 悟浄の声音がますます硬いものに変化した。それでも、八戒は止まらない嫌な笑みをこぼし続けた。眦にかすかに光るものが滲む。
「だって……本当に酷いひとだなぁ、って」
「八戒」
「今でも僕は彼女を愛しています。それはもう、僕の中で永遠に揺るぎないものです」
 けれど。
 八戒はあえて一旦言葉を区切った。悟浄がぎゅっと、何かを堪えるように自らの唇を噛む。
「もしも、今、彼女が甦ったところで――『猪悟能』はもう何処にもいないのに?」
 泣き笑いにも似た表情を浮かべて。
 八戒は悟浄を凝視しながら、はっきりとそう口にした。
 実際に口にすると、一瞬だけ大きく胸が軋んだ。
 ――絶対にありえないと、判ってはいる。
 けれど、万一、彼女がこの現し世に戻ってきたところで、失われたものすべてが取り戻せるわけでは決してないのだ。
 彼女を亡くしてから過ごした刻の流れの中で、きずきあげてきたもの。
 猪八戒としての自分。
 己を取りまく環境と人間関係。抱えているものの大きさ、重さ。何もかもがあの頃とは違う。違いすぎる。
 彼女だけを盲目的に愛していた猪悟能は、もうこの世界のどこにも存在しないのだ。
 だから。
 その仮定は仮定のままでいたほうがいい。
 ――彼女のためにも。きっと。
 どこまでも勝手な自分に、八戒はさらに嘲り笑いを深めた。
 結局は、その言い分にしても、ただ目の前の男を失いたくないだけの詭弁にしか過ぎないのに。
 この眼前のどこまでもやさしい紅を纏う男は、自分が口にした言葉をひどく後悔して、胸を痛めているに違いなかった。
 ……まったく。本当にどうしようもない。
 そんな悟浄がどうしようもなくいとおしくて。そんな自分自身がどうしようもなくあさましくて。疎ましさすら覚えるほどに。
 かつて、こんな男に愛された彼女は、あんな最期を迎えたけれど。
 今、こんな男に愛された彼は――どうなるのだろう?
 けれど、もう、はなしてなんてやれない。
 たとえ、今、本当に彼女が戻ってきたとしてもきっと――はなしてなんてやれない、から。
 八戒はゆっくりと上体を起こした。寝台に腰掛け、再び悟浄を見つめ直す。
 悟浄は痛ましげに眉宇をひそめたまま、そろりと八戒に近づいてきた。そっと、壊れ物を扱うような手付きで、八戒の頬の輪郭をたどる。
「悪ぃ……」
 指先から伝わる彼の体温に身をゆだねるよう、八戒はうっすらと瞳を細めた。そして、目の前に立つ悟浄を見上げる。
「悪いと思うなら、」
 己の頬に掛かる彼の掌を、八戒は自ら手を伸ばして握り締めた。悟浄が大きく紅眼を瞠った。びくりと、彼の長躯が目に見えて震える。
「――八戒」
「責任、……取ってくれますよね?」
 ふわりと緩やかに唇をつり上げ、誘いをかけるように微笑んでみせた。
 途端、ものすごい力で肩を掴まれたかと思うと、息もできないほどにきつくきつく、悟浄の胸の中に抱き込まれた。
 身動ぎも侭ならないほどきつく抱き締めてくる悟浄の背に、八戒もまたそろりと細い双腕を絡ませる。
 口許にしあわせそうな――それでいて自嘲めいた笑みを刻んで。
 このやさしいひとを傷つけてまで縛り付けたいと思う己のあさましさに、ただ嗤うしかなかった。







FIN

リロード4巻後半がモチーフ。

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