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「ナンで、猿がココにいんだよ!」
 八戒に頼まれていた買い物を済ませて、漸うたどり着いた我が家の玄関扉を開けた途端、普段ならいるはずのない知己の少年の姿を紅瞳にとらえ、悟浄は思わず声をあげた。
 なんだって、よりにもよって“今日”という日にこの全身胃袋ではないかと思われる少年――悟空が家にいるのか。悟浄は思い切り嫌そうに顔をしかめて悟空を見据える。
「猿ってゆーなって言ってんだろ!? エロ河童!」
「お前、ここは誰ン家だと思ってんだ、ああっ!?」
「はいはい、二人とも、その辺にしといて下さいね」
 一気に険悪になりかけた雰囲気に割って入ったのは、八戒ののんびりとした穏やかな声音だった。しかし、その柔らかな口調に隠された、何やら剣呑な含みを敏感に感じ取って、悟浄も悟空もぴたりと動きを止める。そして、二人そろって、そろりと八戒のほうを見た。
 ――目が全然笑っていない。
 まさしく「武器笑顔」を発動させてにこにこと微笑んでいる八戒に薄ら寒いものを感じて、悟浄は内心深々と嘆息した。
 ここ連日、八戒は年末の大掃除とばかりにいつも以上に働いていたから、疲れも溜まっているだろう。そんな中、八戒の苛立ちを増幅させるような言動は慎んだほうが身のためだった。
 悟浄はばつが悪い表情を浮かべると、くしゃりと顔にかかる前髪をかきあげ、手にしたままだった酒瓶一本を食卓の上へと置いた。
「コレ、頼まれてたヤツ。で、いいんだろ?」
「ありがとうございました。おかげで、家のほうの片付けも全部終わりましたしね」
 正月用の酒を買ってきてほしい、が、正月準備で手が離せなかった八戒からの頼まれ事で。それを済ませて、後はのんびり八戒と年越しを、と思っていたところに何故悟空がちゃっかり悟浄宅の食卓に座ってがつがつと飯を食べているのか。この予想外の光景に、悟浄はただため息をつくしかなかった。
「で。ナンで猿が家にいんの?」
 じとりと胡乱げな視線を八戒に向ければ、彼はそれこそ仕方がなさそうに肩をすくめた。そして、口許に苦笑を浮かべる。
「さっき三蔵といっしょに来まして。どうしても一人で出向かないといけない年始の行事に出席するため、悟空は連れては行けないからと言い置いて出掛けちゃいました。明後日には迎えに来るらしいですけどね」
「ナンだよ、それ。こっちの都合もおかまいなく、猿置いてくんじゃねーっつの」
「いいじゃないですか。悟空一人でお正月なんて寂しいでしょう。それに、悟空がいたら何か都合が悪いことでも、あるんですか?」
 にっこりと、八戒の微笑みが意味ありげに深まる。その笑みに嫌な含みを感じて、悟浄はますます顔をしかめた。
 互いが特別だと、ちゃんと想いを通じ合わせてから過ごす、初めての正月。
 年末年始を二人きりでのんびりまったりべったり過ごすことを、悟浄は非常に楽しみにしていたのだ。
 年が移り変わるその瞬間を、――初めて悟浄が“大切”だと思えたひとと二人きりで静かに過ごそうと、そう思っていた。
 もちろん、下心大有りで。
 その下心部分を思い切り見透かされた笑顔を向けられ、悟浄は一瞬返す言葉に詰まる。だが、びしっと悟空を指差すと、きつく八戒を睨めつけた。
「だいたいコイツがいたら、食いモン食い尽くされちまうだろうがっ。明日から三日間、店、開いてねぇんだぞ!」
「ああ、それなら大丈夫ですよ。さすがに、今回は三蔵、ちゃんと餌と称して食料も置いていってくれましたから」
 ……あンの、生臭坊主、用意周到すぎ。
 「猿の餌やりを頼む」と八戒に言い置いて行った姿が目に浮かぶようで、悟浄は眉間に皺をきつく寄せて悟空を見やった。悟空はというと、早速八戒に作ってもらったらしい餃子皿二山分を幸せそうに平らげている。
「というわけで、悟浄の許可なしに悟空を預かったことを怒っているのなら謝ります。すみません」
 殊勝にも非常に申し訳なさそうな表情を浮かべて、八戒が悟浄に詫びを入れた。それに、悟浄は短く瞠目して再度八戒を見つめ返す。
「イヤ、それはいーんだけどよ……。急だったから驚いたダケ」
「そうですか? なら、いいんですけど…」
 あからさまにほっとした笑みを佩いた八戒を、悟浄はなんとも言えない心境で見やる。
 八戒に要らぬ気遣いはさせたくなかった。だから、この程度のことなら、悟浄が折れることくらい、ナンてことない。
 悟浄は短くなった煙草を食卓上の灰皿に押し付けた。そして、ニッと口の端を上げる。
「ま、三人と一匹で楽しく年越しすんのもイイんじゃね?」
「そうですね」
「え、何かあんの?」
 それまで必死で食べていた悟空が、悟浄の言葉に反応して顔を上げて二人を見る。八戒はそんな悟空に向かい、のほんと穏やかな笑みを浮かべた。
「せっかくの大晦日ですし、年越しそばでも食べましょう。悟空が何杯食べられるのか、僕楽しみです」
「わーい、何杯でも食べていいんだっ?」
 それはわんこそばだろう、八戒。
 と、悟浄は思ったが、賢明にも口には出さないでおく。完全に面白がっている風の八戒と、食べたいだけそばが食べられると心底嬉しげな悟空を尻目に、悟浄は内心で深く吐息した。
 完全に当初予定と違ってしまったことを、ほんの少しだけ残念に思いながら。



「お疲れ様でした、悟浄」
 コトリと、悟浄の前に今日買ってきた酒の入ったグラスが置かれる。
 それまで悟空と、いつも以上に激しくどつき合いながら、騒がしく食卓を囲んでいた。その横で、八戒とジープはのんびりと年越しそばをすすりつつ、悟浄と悟空のスキンシップを楽しげに眺めていて。
 さすがに、食べるだけ食べて暴れるだけ暴れて疲れたのか、悟空は眠いと言って、たった今八戒の部屋に引っ込んだところだった。その悟空の世話を焼き、台所を片付けてから、八戒は酒を手に悟浄の元へとやって来た。
 やれやれと肩で深くため息をつきながら、八戒は悟浄の隣の席に腰掛ける。もちろん、その手には自分用の酒を持って。
「いーや。お前のほうこそお疲れサン。で、これは乾杯っつーコト?」
 悟浄はにやりと口許に笑みを浮かべて、自分の前に置かれたグラスを掲げてみせた。それへ、八戒はくすりと微笑む。
「もうすぐ日付も変わるでしょう? だから、悟浄といっしょに呑みたいな、と思って」
「そりゃイイな。じゃ、まずは、お疲れっつーことで乾杯しねぇ?」
「そうですねぇ……お疲れ様です」
 チン、と、グラスの当たる音が静かになった室内に響く。そのまま二人は黙ってその酒に口つけた。一口呑んで、ゆっくりと互いにグラスを卓上に置く。
「楽しかったですね」
「あー、もう、あんな騒がしい年末は初めてだぜ、ったく」
 悟浄のぼやきは、だが八戒のくすくす笑いにかき消される。そんな八戒の様子に、悟浄は気にいらないとむっと口を尖らせた。
「ナンだよ、その笑いは」
「いえ、……悟空が寂しくないようにと、貴方わざとあんな風にふるまっていたでしょう?」
 八戒の、そのお見通しと云わんばかりの口調がなんとなく悔しい。
 それには答えず、悟浄は黙って酒をあおった。
 確かに悟空に対して、わざといつもよりは構いつけはしたが、何よりそれを楽しげに眺める八戒の笑顔が嬉しかったのだ。その笑顔が見れただけで、予定外ではあるが、悟空がいる大晦日も悪くはないと。けれど、そんなことを簡単には口に出来ず。
 八戒からわざと視線を外して、悟浄はちらりと食器棚の上に置かれた時計を見た。
 ――あと、少しで。
 今年も、終わる。
 悟浄は不意にグラスを机の上に置いて、すぐ横の席に座る八戒の腕を取った。突然の悟浄の行動に小さく目を見開く彼の顔が眼に入ったが、気にせず悟浄はそのまま自分のそれを彼の唇に重ね合わせた。
 ぴくりと、八戒の躯が揺れた。それを押さえ込むように、悟浄は口づけを深める。
「――あけましておめでとうございます、悟浄」
 悟浄のほうから唇を離した刹那、ひっそりと八戒が囁いた。ちゃんと悟浄のキスの意味を判っていたらしい彼に、悟浄も嬉しげに笑みを刻む。
「今年もヨロシク、な」
 そう言いつつ、また軽く口づけを落とす。八戒はふわりと、悟浄にしか見せることのない満面の笑みを浮かべて、お返しとばかりに悟浄の首に腕を回した。それに合わせて、悟浄もその痩身を自分の懐へと引き寄せるように抱き込む。八戒の躯は椅子に腰掛けたままの悟浄の膝の上に、横抱きに乗り上げるかたちとなった。
 ぐっと躯ごと互いの距離を縮めて。再び、どちらからともなく、キスを仕掛ける。
 その口づけが熱を帯びた深いものに変わるのは、あっという間だった。



 ようやく長い長いキスを解くと、八戒の躯がくたりと悟浄の肩へもたれかかってきた。口づけだけですっかり息が上がってしまったらしい八戒が、額を悟浄の肩口に押し当ててあまやかな吐息を漏らす。それに、悟浄は色悪な笑みをその口許に刻んだ。
「キス始め、っつーコトで」
「……貴方らしくて返す言葉もありませんよ、まったく……」
 目元を朱に染めながら、八戒が上目使いに悟浄を軽く睨んだ。けれど、少し潤みかけた色っぽい目付きでそんな風に見上げられては、ますます悟浄の身の内の熱も上がる一方なだけだ。
「なあ、このまま……」
「イヤです」
 悟浄の誘いの言葉を、八戒は実にはっきりとした口調で却下した。
「即答かよっ」
「……悟空がいるんですよ? 今日くらい我慢して下さい」
「大丈夫。猿に気づかれないようにスルから。な?」
 ここまでソノ気にさせておいてお預けはないだろうと、悟浄も真剣な面持ちで言い募る。そんな悟浄の態度に、八戒は困ったように微笑んで軽く肩をすくめた。そして、短く嘆息する。
「ズルイですよね、貴方」
「あ?」
 八戒はくすり、と笑みを零して、そっと悟浄の頬を掬い取るような仕種で掌を這わせた。その掌から伝わる彼の想いを感じて、悟浄は眼前の八戒をじっと見つめる。
「僕がその表情(かお)に弱いと判っていて、それで追いつめるんだから……ズルイ」
 そう言って、嬌笑を浮かべる彼を、悟浄はただ見つめ返す。
(――まったく、ズルイのはどっちだっての)
 こんな表情で、こんな笑みで、悟浄を追いつめるのは八戒のほうだというのに。
 悟浄は己の頬に置かれた八戒の両手をぎゅっと握り締めると、にっと唇の端を意味ありげにつり上げた。視線を八戒へと合わせたまま、その翠瞳の奥まで捉えるかのごとく、笑みを深めた。
「俺は、新しい年の最初を、お前といっしょに過ごしたいの」
「……やっぱりズルイですよ」
 八戒は悟浄の視線を避けるように瞳を伏せ、そっと呟いた。
「そう言えば、僕がイヤとは言えないと、判っていて……」
 八戒の言葉尻を奪うように、悟浄は彼の顎を手に取り、いきなり口づけた。
 皆まで言わなくても、八戒の気持ちはちゃんと伝わったから。
 後はもう、躯で判り合えばいいこと。
 最初は驚いて一瞬身を固くした八戒も、すぐに悟浄の動きに合わせて、キスを深める。
 今年最初のキスと、そして今年最初の二人だけの時間を、二人で感じ合うために。



 まずは、キスから、始めよう。



 一番最初は、あなたとともに。
 誰よりも大切なあなたと。最初の時間を過ごすことができるよろこびを。







A Happy New Year!







FIN

記念すべき初書き58。

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