かわいいひと。




 悟浄の朝――とはいえ世間的には昼前――の日課のひとつは、新聞をひろげることである。
 悟浄はかなり遅めの朝食、八戒は早めの昼食をいっしょに食べて、八戒が慣れた手つきで食事の片付けをしている間、まだ覚醒しきれない頭をかかえつつ、ダイニングの椅子に座ってこれまた慣れた手つきで、悟浄は新聞をぱらぱらとめくった。
 日課とはいえ、悟浄は新聞のなかみをすべて読んでいるわけではない。こんな政治だか経済といった小難しいことなど判りもしないし、興味もない。だから、新聞のメインともいうべき記事はものの見事にすっとばかして、悟浄が毎日必ず目を通すものといえば。
「――悟浄」
 不意に、食後のコーヒーを手に、八戒がおずおずと声をかけてくる。それに、悟浄は「んー?」と生返事を返した。八戒がため息まじりに、ことりと悟浄の前のテーブルにコーヒーの入ったマグカップを置く。
「実はずっと気になっていたんですけど。……貴方が毎日かかさずチェックしているのって、“本日の運勢”とか……だったりします?」
「おうよ」
「おうよ、って」
 悟浄がはっきりきっぱり肯定したのに、八戒から胡乱げな声音があがる。悟浄はようやく新聞から顔をあげて、愉快そうに口の端を軽くつり上げた。
「気分だよ、気分。さそり座は今日はゼッコーチョーなんだよなー。あ、お前、何座だったっけ」
「……ごじょう……」
 心底呆れたと云わんばかりに、八戒はこれみよがしに深く嘆息した。彼のあからさまに失礼な態度に、悟浄はむっと顔をしかめた。見れば、八戒は本当に呆れかえった表情を浮かべていたが、その双眸に宿る光はどこかやさしい。その、相反する表情と感情に、悟浄も目元をゆるめる。
「いいじゃんか。結構当たるのよコレが」
「まさか、この運勢を元に賭け事をしているとか……」
「んなわけねぇだろ。さりげにシツレーな奴だな、お前」
 悟浄は見るものは見たと、さっさと新聞を折りたたんで、すぐ隣の椅子の上に軽く投げ置いた。八戒と同居を始めた当初はところかまわず読み終わった新聞を放り投げて、八戒からお小言をくらいまくっていたのだが、この辺りは八戒の努力の甲斐があって悟浄はいつの間にかうまくしつけられてしまっていた。
「でも、僕、貴方のそーゆう見た目を裏切るところ、すごく好きですよ」
 八戒は悟浄の斜め前に立ったまま、悟浄を見下ろしながら苦笑まじりにつぶやく。そんな彼を上目遣いに見て、悟浄はニッと口元に笑みを刻んだ。
「好きなのはソコだけ?」
「そこだけです」
「ちぇっ」
 悟浄はそろりと八戒に手を伸ばして、彼の痩躯を自分のほうへと引き寄せつつ、その腰元を両腕で抱きこんだ。そして、明らかに明確な意図をもって八戒の腰をゆるゆると撫でつつ、下から見上げるかたちで八戒を見つめ返した。
「なら、他のところも好きになりたくねぇ?」
「うーん、出来ればご遠慮願いたいんですけど」
 八戒の腰から尻の辺りを行き来する悟浄の悪戯な手を抓りあげつつ、八戒はにっこり笑顔で却下した。あいかわらず容赦がない。
「あ、そーゆーかわいくねーコト言う」
「僕は男だし、かわいくなくて結構です。あ、でも悟浄のそーゆートコはかわいいですよね」
「……」
(こいつは……)
 八戒の口から繰り出される毒舌に、悟浄は嫌そうに眉をひそめた。こういう時、口で八戒に勝てないことは、短くはない同居生活でそれこそ嫌というほど思い知らされている。だから。
 要は、かわいくない言葉を繰り出す口を塞いでしまえばいいのだ。
 悟浄は、にやりと笑みを刷いて、座ったままの姿勢で八戒の腕を取り、強引に自分のほうへと引き寄せた。突然の悟浄の行動に対処しきれなかったのか、そのいきおいのまま八戒の躯が悟浄の胸のなかに倒れこむかたちになる。悟浄は八戒の細い顎に手をかけて、深く口づけた。
 最初から容赦なく、情欲を煽るような、きつくて甘いキスを八戒に仕掛ける。息苦しさから八戒の唇がゆるんだ隙を逃さず、悟浄は舌を差し込んで彼のものをきつく吸い上げた。腕のなかの八戒が、びくりと震えたのが伝わってくる。それに満足げに笑って、悟浄は少しだけ口づけをゆるめた。それにあわせて、八戒が上がった息を整えようと、一旦唇を離した。そして、悟浄をきつく睨みつける。
「もうっ、……キスさえすれば、僕が誤魔化せるとか思ってるんでしょう……!」
「んなこと、思ってないない」
 そんな潤んだ瞳で睨まれても、かえって悟浄を煽るだけである。ここまできて引き返せるかっつーの、と内心つぶやいて、悟浄は再び目の前の恋人の唇を己のそれで塞いだ。
「……悟浄……っ!」
 真昼間から、しかもダイニングで、明らかにキス以上のものを感じさせる口づけをつづける悟浄に、八戒はそれでも抵抗を試みる。だが、それを封じるように悟浄はますます八戒の腰を引き寄せて、もっと深く唇をあわせた。八戒がすがるものを求めて、悟浄のシャツの胸元をぎゅっと握り締めた。
 八戒の躯が甘く溶けていくのが判る。
 完全に、八戒を自分の膝の上に抱きこむようなかたちになったところで、ようやく悟浄はキスを解いた。八戒の頬はすっかり朱に染まっていて、その様がますます悟浄をうれしくさせる。
「はーっかい」
 悟浄は、にやにや笑いを浮かべつつ、ちょんと軽く八戒の唇へとキスを落とした。八戒は、それでも悔しそうに悟浄を睨んでくる。ここまできて引き返せないのは、多分八戒も同じはずと、悟浄は確信犯の笑みを洩らした。
「他のトコも好きになってよ」
 八戒の耳朶にささやくように吐息を落とすと、目に見えて八戒のしなやかな肢体がはね上がった。八戒のこういうところはつくづくかわいいと、悟浄は思う。よもや、自分がこうして同い年の男に、こういう感情を抱く日がこようとは夢にも思わなかったが。
「……ここでは絶対にヤです……っ!」
「じゃ、ベッド行く?」
 間髪入れずに返した悟浄の言葉に、八戒は一瞬固まる。けれど、苦笑ぎみに微笑んで、悟浄の肩に両腕をまわした。
「もう、……仕方ないですねぇ」
 八戒の返事に、悟浄は心底うれしげに笑みくずれた。こんなふうに悟浄の我侭をきいてくれて、こんなふうに悟浄を受け入れてくれる八戒がとてもいとおしい。そして、悟浄にこんなにあたたかい感情を教えてくれた目の前の稀有な存在を、悟浄はぎゅっと抱きしめた。
「んじゃ、いっぱいかわいくなってもらおうかなー」
「悟浄」
「ナニ?」
 悟浄の寝室に向かおうと、八戒の躯を抱えながら立ち上がりかけた時、八戒からいやに冷静な声で呼びかけられた。悟浄は眼前の八戒を見やる。
「今日は、僕が貴方を「かわいく」してあげます。だから、覚悟していて下さいね」
 にっこり。
 そう、笑顔で言い切られ、悟浄はぽかんと八戒を凝視した。だが、その言葉の意味を正しく理解した途端、悟浄はにやりと人の悪い笑みを口元に浮かべた。そして、かわいくない言葉を吐く八戒の唇に、すばやく了解のキスを落とす。
「期待してマス」
 多分、八戒からしてもらえるであろうアレコレを楽しげに想像しつつ、悟浄は八戒とともに寝室へと向かう。
 積極的な八戒もかわいいよなあと、思い切り腐れたことを思いながら。








 結局のところ、どちらにとってもお互いが「かわいいひと」なのだから。







FIN

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