precious




「あー、ヒマ……」
 気だるげに呟かれた悟浄のそれに、それまでベッド端に腰を下ろして黙々と読書していた八戒は、ふと面を上げた。
 見れば、窓際の壁に背をついて、床にだらしない姿勢で腰をおとしたまま、悟浄はいかにも時間を持て余しているさまもあらわに煙草をふかしていた。
 狭い宿部屋に簡易ベッドを四つ無理やり押し込んだ状況で、わずかな床の空きスペースに長身の彼が窮屈そうに直に腰をおろしているのもまた、なんだか滑稽に見える。
 そのささいな感情も、どうやら八戒の顔に如実に出ていたらしい。
 知らず口許が自然に緩むのを抑え切れないでいると、眼前の彼の表情があからさまに拗ねたものに変化した。
「……ナンだよ」
 煙草を咥えたまま唇を尖らすさまが子供じみていて微笑ましい、などと言おうものなら、ますます拗ねるに決まっている。
 賢明にも咽喉まで出掛かった言葉を飲み込み、八戒はおもむろに、それまで開いていた手元の文庫本を閉じた。
「いえ……本当に暇そうだなあ、と」
「こんな辺鄙な村、外に出てくトコもねえじゃん。――奴らも帰ってこねーし」
 そういえば、珍しく悟空と三蔵が買い出しに出掛けたのだが、そろそろ帰ってきてもおかしくはない時間なのに、いまだに戻ってこない。三蔵が買い出しに行く羽目になったきっかけというのが八戒との口論だったため、出来ればすぐには四人部屋には戻りたくはないのが本音かもしれなかった。
「そうですね、遅いですねぇふたりとも」
 しれっと八戒が口にすれば、状況を知る悟浄はあからさまに嘆息した。
「お前が言うなって、ソレ」
「どうしてですか? 僕、何かおかしな事言いました?」
「マジ怖ぇよ、お前……」
 悟浄は深々と紫煙を吐き出した。ゆらゆらと立ち昇る煙の軌跡をゆっくりと目で追いながら、八戒はくすりと、意味深な笑みを刻む。
 確かに、先ほどの三蔵との遣り取りの後から、気分がすっきりしない心地を抱えていた。ひとの感情の機微に敏い悟浄のこと、八戒の苛立ちなど、最初からお見通しだったに違いない。
 こういう時、八戒の感情は内に篭る方向へとむかうから、より他者を遮断する結果となる。つまり、こんな状態の八戒と一緒にいても、楽しい時間を過ごせるはずがないと、悟浄ならよくよく判っているだろうに。
 だから、つい八戒の口調も棘を含んだものとなる。
「そんなに暇なら、悟浄も三蔵たちと一緒に行けばよかったんですよ。少なくとも、僕といるよりは暇潰しになると思いますけど」
 これでは、ただの八つ当たりだ。さすがの八戒でも、一瞬だけ後悔が胸裏をよぎる。だが、ひとたび口にした言葉は、元には戻せない。
 ちらりと、相手を窺うように視線を向ける。ふいに、正面から悟浄と目があった。すると、ほんのわずかだけ、切れ長の紅瞳を眇めた。
「……お前ねえ」
 いかにも、呆れたと云わんばかりの声音。
 悟浄は短くなった煙草の先を、床に直置きした灰皿に押し付けた。ハイライト特有の濃厚な燻る香が、八戒の鼻腔をくすぐる。
 思わず八戒は口許に苦笑を浮かべた。
 悟浄がここに残った真意は定かではないが、少なくとも彼には思うところがあったのだろう。それを自分の都合のいいように考えても、決して八戒の自惚れではあるまい。
 八戒は手にしたままだった文庫本を、ベッド脇に追いやった。改めて眼前の彼を見つめる。
「ねえ、悟浄」
「……ナンだよ」
「そんなに退屈でしたら――キスでも、してみます?」
「…………は?」
 悟浄の紅の双眸が、これでもかと云わんばかりに見開かれた。鳩が豆鉄砲を食らった顔、とは、まさしく今の悟浄のような表情を指すのだろう。
 判りやすい彼の表情の変化に、たまらず八戒はくすくすと笑み零した。
「――そんなにおかしな事、言いましたか?」
「……この状況で、お前が言ったから驚いてンだろーが」
 確かに、今日のように四人部屋で、三蔵たちがいつ帰ってくるのか知れたものではない状況下では、常ならば八戒のほうがあからさまに悟浄とそういった意味での接触を避けようとするのだが。
 己の狼狽ぶりを取り繕うように、悟浄は長い前髪を乱雑な仕種で掻き上げた。そのさまに、八戒の微笑も深まるばかりだ。
「……ンな、笑うなよっ」
 照れたように微かに顔を赤らめる悟浄を、いとおしげに見つめつつ、八戒も今まで抱えていた苛立ちがいつの間にか静まっていたことに気づく。
 ――まったく。
 悟浄には敵わない、と思う。
 おそらく何もかも判ったうえで、八戒の傍にいたのだ。この男は。
 結局は悟浄の思惑通りになってしまっているであろう状況に、負けず嫌いの虫が疼いて、ほんの少し悔しいとは思うのだけど。
 けれど、この――悟浄に甘えるという、八戒にだけ許された特権を今、行使するのも悪くはないと思うから。
 八戒はゆっくりとベッドから立ち上がった。そして、いまだ大股開きの男臭い姿勢で床に腰をおろしたままの悟浄の前に、自らも腰を落とす。
 正面で、悟浄と向かい合わせの姿勢である。
 ほほ同じ目線の高さになったところで、八戒はさらに笑みを深めた。
「もしかして、僕とキスするの嫌です?」
「イヤ」
 即答だった。
 八戒が軽く目を瞠ると、してやったり、と悟浄は人の悪い笑みを浮かべる。
「……退屈だからお前とキス、ってのはイヤ。ケド、八戒が俺としたいってゆーキスならオッケーだけど?」
 ふたりきりの時間を有意義に過ごすためなら、話はベツだけどな。
 そう言い切って、悟浄はにやりと口の端を上げた。
 今度こそ、八戒は大きく瞠目した。
 ……参った、と素直に思う。
 本当に――悟浄には敵わないと、心から実感するのは、まさにこんな瞬間だった。
 八戒はふいに微苦笑を浮かべた。一瞬でも、悟浄に対し、おざなりにキスを求めてしまったことを胸中でひっそりと反省する。
 いくら退屈だからと言っても、誰でもいいわけではないのだ。
 そう――悟浄だから、キスしたいのだ。
 悟浄だから、キスして欲しいのだ。
 すべては、悟浄だからこそ。
 八戒は右手をあげて、悟浄の頬にそっと触れた。
 指先で感じる彼のぬくもりに、ひどく安堵を覚える。
「ええ、……悟浄と、キスしたいんです」
 ――僕が。
 眼前のいとしい紅を見つめながら、八戒ははっきりとそう言った。
 途端、悟浄の面に喜色が浮かぶ。紅眼を細めて、正面から八戒を見つめ返してくる。
「――よく出来マシタ」
 そして、互いに満足げに微笑みあって。
 そっと顔を寄せ合い、どちらからともなく唇を重ねあわせた。
 ちゅ……と、軽く触れあうだけの戯れのようなキスのくり返しに、じれったくなったのははたしてどちらが先なのか。互いに相手の頭を抱え込むようにして引き寄せれば、唇同士が重なる角度が変わる。
 その口づけが、より深いものとなるのに時間はかからなかった。





 ふたりだけのささやかな時間を過ごすための、大切なキスを。
 ――あなたと。







FIN

『スキトキメキトキス』参加作品。

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