届くはずが、ない




「あーあ、降ってきやがったな……」
 賭場からの帰宅途中、いつもの道を歩いていた悟浄の頬にぽつぽつと水滴が当たったかと思うと、それはすぐに結構な降りへと変わった。もちろん、当然のように傘を持ち合わせていない悟浄は、突然降りだした雨にもあわてることなく、濡れたまま家路を歩く。
 悟浄自身は、どれだけ雨に降られようが、どれだけ雨に濡れようが、別段どうということはない。ただ、雨というと、いつも悟浄の脳裏に、特別雨が苦手らしい同居人の顔が浮かぶ。
 さすがに同居を始めて二シーズンを越したからかもしれないが、最近の彼――猪八戒という名の同居人が雨の日に壊れる姿をそういえば見ていないと、悟浄は思った。少しは今の生活に八戒も慣れて落ち着いたのもあるだろうし、実際のところ見た目はいたって落ち着いているように、見える。
 だが、それはあくまでも"見た目"であって、悟浄の見える範囲でという話だ。だから、悟浄の知らないところ、――例えば今のように、八戒をひとり家に残して賭場に出掛けているとき、彼がどんな状態であるかまでは悟浄には窺い知ることはできない。特に、最近の八戒は、悟浄の前ではいたって落ち着いている姿しか見せないからこそ、余計に気になるのだ。
 それもあって、このところ八戒が落ち着いているのをいいことに、悟浄も雨が降ったからといって、同居を始めた直後のように家にとんで帰ったりすることはなかった。だが、今悟浄の目に映る姿だけが真実ではないのではないかと、不意にそう思った途端、悟浄のなかでその疑問はどんどん膨らんでいった。だから、今晩は雨が降りそうだと認識した段階で、早めに勝負を切り上げ、賭場を後にしたのだった。
 ……妙な胸騒ぎもすることだし。
 悟浄はそう一人こぢると、濡れて額に貼り付く真紅の髪の毛をうっとうしげにかきあげた。
 最近、気がつけば、こうして八戒のことを考えている。それがどうしてなのか、悟浄自身よく判らない。そして、この感情やこの気持ちを何と言うかも、悟浄には判らない。判らないから目をそらしたいのに、それでも彼のことが脳裏から離れない現状に、悟浄はどうしたらいいのかすら判らなかった。
 ただ、八戒が苦しむさまや、彼が壊れるさまを見ていたくはなかった。自分がどうにかできるのなら、どうにかしてやりたいと思うくらいには。ただ、それだけ。
 悟浄は短く嘆息すると、今度は頬に貼り付く髪の毛を荒々しくかきあげた。多分、八戒は悟浄がこんなに早く帰宅するとは思っていないだろうから、体面を取り繕ってはいないはずだ。突然の悟浄の帰宅を、いつもと変わりない姿で出迎えてくれればいいが、実際のところいかがなものだろうか。
(アイツ――壊れてなきゃいいけど、)
 わざと不意打ちを狙うあたりが俺って姑息、と自嘲気味に口の端を上げつつ、それでも悟浄は家路を急いだ。誰にともなく、祈るような気持ちで。




 まだ日付が変わる前に家にたどり着いたからか、悟浄の予想通り、室内には明かりがついていた。ということは、一応八戒はまだ起きているということだ。
 悟浄はいつものように玄関の鍵を開け、そのまま家のなかへと身を滑り込ませる。途端、鼻についたすえた鉄臭い匂いに、悟浄は思わず顔をしかめた。
 明らかに、血の、匂いだった。
 そう認識した途端、悟浄はまっすぐに八戒の姿を求めて、まずはより匂いが漂ってくるほう――台所へと向かった。これだけはっきり匂いがするということは、それなりに出血している可能性が高い。
「――っ」
 眼前の状況に、悟浄は思わず息を呑んだ。
 確かに、台所に八戒はいた。ただし、左腕、それもかなりに手首に近いところから真紅の血を流しながら、茫然とその血が滴り落ちるさまを、ただ見ていた。その腕から流れ落ちた血が、床に血溜りを作っているのに、いったい八戒はどれくらいそうしていたのか想像に容易くて、悟浄の面から表情が消える。
 そこでようやく悟浄の存在に気がついたのか、それまで紅く染まった自分の腕を凝視していた八戒が、ふと顔を上げて悟浄を見た。そして、悟浄に向かい血の気のうすい貌に笑みを貼り付けた。
「ああ、悟浄……おかえりなさい。今日は早かったですね」
「……ニ、やってんだよ、お前」
 こんなときですら、いつものように帰宅後の挨拶を口にする八戒に、悟浄は思い切り顔をしかめて喉奥からしぼり出すような声を漏らした。
(――ナンで)
 こんな状況で、そんなふうに何事もなかったかのような笑みを浮かべていられるのか、彼は。そんな八戒が、今は無性に腹立たしかった。だが、彼の腕から流れ落ちる真紅を目にとらえ、悟浄も我に返る。とりあえず、止血をしないとまずい。
 悟浄は口を引き結んだまま八戒に近づくと、ぐいと彼の左腕をとった。そして、とりあえず止血のための処置を施し始める。
「あの、悟浄……?」
 ただ黙々と処置し続ける悟浄に、八戒が困惑ぎみに声をかける。悟浄はそれを無視して、とにかく八戒の腕の傷の手当てをした。きっちり包帯も巻き終わってから、ようやく深々とため息を漏らす。
 当たってほしくはなかった、胸騒ぎが的中したことに、悟浄はさらに眉間に皺を寄せた。こんなふうに、雨の日におかしくなっている八戒を見たのは本当に久しぶりで、――だからこそ余計に苛立ちが募る。
 多分、八戒は判っていて巧妙に隠していたに違いないのだ。悟浄にいらぬ気遣いを持たせまいとして。
 表面上は落ち着いたように見せかけて、その実、悟浄の知らないところでこうして壊れ続けていたのだろうか。そう思うと、ますます腹立たしかった。
 わざと、その姿を悟浄に見せまいとしていた八戒に。そして、今の今まで、そのことを見抜けなかった自分自身に。
 あえて感情をおもてに出さず、目を眇めてただ八戒を無言で見つめ続ける悟浄に痺れを切らしたのか、それまでそろりと悟浄を窺うように見ていた八戒も、すっと伏せ目がちに視線をそらした。これみよがしにため息をつく。
「……もしかして、悟浄怒ってます?」
「……ナンで、こんなことになったんだ?」
 悟浄の問いかけに、八戒は一瞬だけ大きく目を見開いた。だが、すぐに悟浄から視線をそらしぎみに苦笑を漏らす。
「ここで夕食後の片付けをしていただけなんですけどね。……ただ、雨の匂いがするなあとそう思ったとき、流し台の横に置いたままだった包丁が、こう、腕にぶつかっちゃって、そのいきおいで跳ね上がった包丁が左腕をざっくりと。――そしたら、悟浄が帰ってきたんですよ」
 八戒の言葉に、悟浄はくしゃりと濡れたままの紅い髪の毛をかきあげた。なんともいいがたい表情のまま、床に広がる血溜りに視線を落とす。
 八戒の言っていることに嘘はないだろうが、不意に腕を切ってから悟浄が帰宅するまでの間それなりに時間がたっていたであろうことは、この血溜りを見ればなんとなく想像はつく。その間、いったい八戒は何を思って、自分の体から流れ落ちる血を眺めていたのだろう。
(どうせ、自虐的なコト、考えてたんだろーな……)
 流れる血。八戒が屠ったひとびとから流れ出した大量の血。雨の日の惨劇と、失われた何よりも大切なひと。残酷な結末。――八戒の罪を象徴するキーワードを脳裏に浮かべ、悟浄は皮肉げに嗤った。
 そして、その罪を掘り起こすような、悟浄の纏う色。こうして、雨に濡れて肌にまとわりつく髪の毛は、それこそ流れる血のようだと悟浄は思った。
 ――だから、届かないのだろうか?
「で、どれくらいそーしてたの、お前」
「さあ、……そんなに時間はたっていないと、思ったんですけどねえ……。雨の音を気にしていたら、気がついたら悟浄がいて、」
 そう言いながらもうっすらと笑みを浮かべる八戒に、悟浄の焦燥感はさらに募る。目の前にいるのに、彼の目は悟浄を見ていない。悟浄を擦り抜けて、別の何かを見ている。
 こんなにも、自分だけが八戒を思っている、――その事実を突きつけられたように、悟浄には思えた。それは、まるで自分を拒絶し続けたかの人の姿と重なる。不意に悟浄の脳裏をよぎった、幼い頃、悟浄が求め続け、最期までその想いが届くことはなかったひとの姿に、悟浄は思わず奥歯を噛みしめた。
 ――似ている二人。
 八戒と同じように、悟浄の髪の色を"血の色"だと言ったひと。かの人には悟浄の声も、想いも、何もかもが届かなかった。ならば、八戒にも、届くはずがないのだ。
 悟浄は自嘲ぎみに口元を歪め、八戒を凝視した。
 どうしたら、いいのだろう。
 どうしたら、八戒はちゃんと悟浄を見てくれる?
 そう思った瞬間、悟浄は胸奥からつき上がる衝動のまま、不意に八戒の右腕を掴むと強引に自分のほうへと引き寄せた。
 彼が自分を見ないのなら、見るようにすればいい。――こうして。
 悟浄は自分の胸のなかに倒れ込むかたちになった八戒の顎を軽く掴み、強引に口づけた。視界の端に、驚いた表情を浮かべた八戒の顔がちらりと映ったが、気にせず唇をあわせた。
 八戒は特に抵抗することもなく、ただ茫然と悟浄が仕掛けたキスを受け止めていた。その姿に、悟浄はさらにいたたまれなくなって、軽く唇を触れ合わせただけですぐにキスを解いた。
 ふと、互いの視線が交錯する。
「……どうして僕に、こんなことを」
 思い切り困ったふうな表情を浮かべて、八戒は悟浄に尋ねた。悟浄は口元を歪め、嗤いながら目を細めて、八戒を見た。
「ベツに。したかったから、した。それだけ」
「じゃあ、どうして僕に……キス、したかったんですか……?」
「――」
 八戒の問いかけにすぐには答えられず、悟浄はちいさく目を見開いて八戒を見つめ返した。
 そんな悟浄の態度に、八戒は微苦笑を浮かべつつ、そっと瞳を伏せた。
「だって、僕、男ですよ……?」
 つまりは、決して男好きではないはずの悟浄が同性に口づけるとなると、それなりに何か意味があるのだろうと、そう言いたいのだろうか、八戒は。――しかし。
「したいからっつったろ。……他に、ナンか理由、いるのか?」
 したいから、キスをした。
 だが、この"したい"という感情はどこからきたのだろう。
 今までこんな感情を抱いたことのなかった悟浄には、この感情をちゃんと言葉にすることが出来なかった。だから、八戒に訊かれても、答えるすべがないのだ。
 ただ、八戒の意識を自分のほうへと向けさせたかった。悟浄を見ていないその瞳を、自分のほうへと。そう思ったら、あとは衝動的にキスしていた。でも、確かにそこでどうして自分は八戒にキスしたいと、思ったのだろう。しかも、女たちとたわむれにするのとはまったく違う意味のキスを。
 自分の感情がまとまらないことに、悟浄はいらいらと半渇きの髪の毛を手で掬うようにかきあげ、深紅の双眸を眇めて八戒を見つめる。すると、不意に八戒のほうが目をそらした。
 ほら。
 やっぱり、届かない。
 悟浄の言葉も、悟浄の真意も。本当に欲しいと思った相手には、何ひとつ――。
 そこまで考えて、悟浄はようやく、はたと思いたった。
(――欲しい、のか)
 そういう意味で、八戒を。目の前の存在が欲しいと、――そういうことなのか。
 それまで輪郭のなかった想いが、ようやくはっきりとかたちになった感覚に、悟浄は思わず瞠目し、ちいさく息を呑んだ。
「なあ、八戒」
 ――届くはずなんかない。この、悟浄が欲しいとようやく自覚した目の前の男は、こんなふうに無意識に壊れてしまうくらい、今でも最愛のひとを想っているに違いないのだ。
 それでも。
 それでも、悟浄は八戒に対して、問わずにはいられなかった。
「したいから、した。……それは、お前だからだっつったら、どうする?」
 悟浄の問いかけに、八戒ははじかれたように目を瞠った。どこか呆然と、どこか縋るような視線を向けてくる八戒の頬に、悟浄はそっと手を伸ばした。
「いいんですか……?」
「八戒?」
「僕なんかで、いいんですか。悟浄……?」
 思いがけない八戒の返事に、今度は悟浄が目を瞠った。それはつまり、八戒も同じ気持ちだと、そう思ってもいいのだろうか。
 八戒はふわり微笑むと、悟浄がおそるおそる八戒の頬に触れた手に、自分のそれを重ね合わせてきた。その微笑に、悟浄の胸中を何と表現したらいいのか判らない、あたたかな感情が浮かび上がってくる。
 こうして、――望んでもいいのだろうか。彼が欲しいと。悟浄のこの想いが届いていると、――信じてもいいのだろうか?
 嬉しそうに重ねた悟浄の手をそっと握ってくれた八戒に引き寄せられるように、悟浄はそろりと八戒の体を抱きしめた。そして、彼の耳元でささやく。
「お前じゃなきゃ、ダメだっつーの……」
 すると、八戒が悟浄の肩口にこつんと顔を落とした。そして、消え入りそうな声でつぶやく。
「……僕も。貴方じゃなきゃ駄目なんです……」
 届くはずなどないと、思っていた。悟浄が本当に欲しいと思ったひとには。
 けれど、今、こうして悟浄の腕のなかにいる彼を見ていると、信じてもいいのかと思ってしまう。
 いつか。
 この胸のなかにある、今はまだ言葉にならない想い全部が、八戒に届けばいいと。





 ――今度こそ、届けばいい、と。








FIN

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