いつも通りに真昼をとうに過ぎてから起き出した悟浄が、シャワーを浴びて居間に顔を出すと、食卓に向かって座っている八戒の背中がまず目に入った。
 前を向いて食事をしている雰囲気ではない。ということは、読書にでも耽っているのか。同居人の気配にまったく気づかず、目の前の何かに没頭している八戒がなぜか気にいらなくて、悟浄はわずかに口端をゆがめた。
 肩にかけたタオルで、まだ濡れたままの紅髪をがしがしと拭きながら、忍び足で彼の背後まで足をのばす。
「ナニしてんの?」
「――うわあっ」
 わざと、銀のカフスが並ぶ左側の耳許に唇を寄せて、ぬるい息を吹きかけながら問いかける。敏感な場所にふいうちで仕掛けられた戯れに、痩躯がわかりやすく跳ね上がった。
「もう! いきなり何をするんですか貴方はっ」
 悟浄の息がかかって瞬時に真っ赤に染まった耳朶を手で押さえながら、八戒は不埒なふるまいをした男を仰ぎ見た。
 悟浄はというと、まるで悪戯が成功した子供のように満足げな笑みを浮かべている。してやったりとばかりに、にんまりと笑みながら。
 普段は悟浄の前でもほとんど格好を崩さない八戒がめずらしくあわてる姿に、爽快感すら覚えた。
「ナニって……俺の趣味と実益を兼ねた質問の仕方をしたダケ」
「……馬鹿でしょう貴方」
 八戒はうろんな目付きで悟浄を見やると、上気した肌をすぐさま白皙に戻してしまった。
 残念、と悟浄は小さく肩をすくめて、食卓の上に置きっ放しにしていた開封済のハイライトに手をのばす。使いかけのパッケージをつかもうとしたその時、突如伸びてきた八戒の手にはばまれた。
「ナンだよ」
「ちゃんと髪の毛を拭いてからにしてください」
 水滴が落ちまくっています、と小言まじりに言われては、悟浄に返す言葉はなかった。下手に口ごたえをして勝てる相手ではないことは、短くもなければ長くもない同居生活で学習済である。悟浄は軽く舌打ちをすると、しぶしぶといった態でのばした手を引っこめた。そのまま肩にあるタオルに手をかけて、荒っぽい仕種で紅髪をぬぐう。
 その動作を続けながら、悟浄はふたたび、八戒の手許へと視線を落とした。よく見れば、食卓の上に広げてあったのは本というよりも雑誌サイズで、そこにはいくつものマス目と文字が描かれていた。
 つまりは、クロスワードパズルなるものをしていたらしい。なるほどねと、悟浄は心中で大きく相槌を打った。
 八戒は時間があるとき、よくこういった手合いのパズルやクイズにいそしんでいることも多い。悟浄はまったく興味がないので、彼と出会うまでこうしたものにお目にかかる機会もほぼなければ、それらがどういったものかさえよく知らなかった。いま眼下にあるものが“クロスワードパズル”と呼ばれる名称であることも、八戒から教えられて初めて知ったのだ。
 しかもわざわざ買うのではなく、行きつけの店に置いてある雑誌で、不要になったからともらってきては有効活用している辺りが実に彼らしいというかなんというか。
 そうやって手に入れるものだから、必ずしもいつも同じタイプの雑誌を広げているわけではないのだが、このようなパズルやクイズの雑誌を八戒が見ている確率が高いことには気がついていた。その中でもよく見かけるのがクロスワードパズルで、興味がない悟浄でもさすがに覚えてしまっているくらいにはよく挑戦している。
「お前、こーゆーの好きだよな。ワリとよくやってるだろ?」
 そう思ったままを口に出せば、八戒はほんのわずかだけ肩を揺らした。それは間近で見ていたからこそ気づけた程度のかすかなぶれ。微妙な反応に、悟浄はちらりと、うすい肩越しに、彼の表情をうかがい見た。正面を向いたままだから、そのわずかに見える頬の方からは何の感情も読み取れない。
「――ええ、こういうパズルとか謎々とか、時間つぶしにちょうどいいし、嫌いじゃないです」
 先ほどの小さなぶれに気づかなければおそらく流していたであろういらえが、どうにも微妙な言い回しに感じる。悟浄はわずかに眉宇をしかめると、ため息まじりにつぶやいた。
「それって、“スキでもない”って聞こえる」
「悟浄って容赦ないですよねえ」
 八戒は目線をパズルに落としたまま、くすくすと笑った。あまりよい感じには受け取れない笑みに、悟浄はますます顔をしかめる。もしかして自分は知らず彼の地雷をふんでしまったのかと身構えた。
「どういう意味よ、ソレ?」
「好きと言い切るには確かに語弊がありますが、謎解きそのものは好きかもしれません。そう――達成感というか、満足感が得られるじゃないですか。まあ自己満足といったらそれまでですが」
「はあ」
 悟浄にはまったく理解できない感覚だった。
 髪の毛の水分をしっかり吸って湿ったタオルを肩にかけ直し、悟浄はふたたび煙草のパッケージへと左腕をのばした。今度は八戒からの妨害もなくそれを手に取り、慣れた仕種で煙草を取り出し口に銜える。
 八戒はおもむろに椅子から立ち上がると、ハイライトのパッケージとともに食卓に置かれていたライターを手にし、悟浄へと手渡した。口許になんともいえない笑みを浮かべたまま、椅子を引いて戻す。
「お昼食べますよね。何か作りましょうか」
 悟浄と目をあわそうとはしない八戒に、なんとも言いがたいかすかな苛立ちを覚える。悟浄は煙草の火をともさずに、手にしたライターを食卓の上に置いた。おのれの前をすり抜けようとする彼の細い手首をつかむ。
「悟浄?」
「で、意味わかんねえんだけど?」
 結局明確な返事にはなっていなかったと、わざと先刻の話題を蒸し返せば、ここでようやく八戒が悟浄を正面から見つめ返してきた。あいかわらず感情の読めない笑みを白皙に貼りつかせて、悟浄を凝視する。すると、ふいに八戒をとりまいていた空気が和らいだ。同時に、それまで浮かべていた笑みが柔らかなものになる。
 ふいうちのその変化に、悟浄は怪訝そうに目を細めた。つい構えてしまうのは、今まで何度も痛い目にあっているからなのだが。彼の笑みの真意が見えなくて、悟浄は八戒に気づかれないよう小さく息を呑んだ。
「……この世はすべての事に原因があって、その結果で成り立っているのだそうです。そこを解明できれば、この世の謎はすべて解けるはずですよね」
「…………はぁ」
「僕はさまざまな謎を解明することは好きですが、その結果を知ることが好きかと言われたらどうだろうと思います。知らなければよかったことだって、現実にはたくさんあるわけですし。謎解き自体は嫌いじゃない、とはそういう意味です。――で、わかりましたか?」
「ぜんっぜんわかんねー」
 頭のいい奴はどうしてこうも難しく考えるのか。理由を訊いても意味不明すぎて、悟浄の理解の範疇を超えている。八戒はくすりと翠瞳を細めながら微笑むと、悟浄につかまれていた手首をやんわりと解こうとする。だが、悟浄はそれを許さず、とらえた手でふたたび彼の手首を拘束する力をこめた。
 よくわからないけれど、どうも“謎解き”というキーワードに八戒がなんらかの引っかかりを覚えていることは薄々感じ取れた。その理由(わけ)を知りたくて聞き出そうとしたものの、こういう時、八戒が悟浄にわかりやすく解答を示すはずがないのだ。その謎こそがいま悟浄が解きたい答えそのものなのに、八戒は上手にかわしてしまう。
 こうした気持ちもすべて謎解きできるのなら、いっそ解明してほしいくらいだ。自分では抑えきれない胸奥にくすぶる苛立ちのままに、悟浄は正面から八戒を見据えた。
「悟浄」
「じゃあさ、こういう謎々はどうよ?」
 そう言って、悟浄はそれまで銜えていた火のついていない煙草を器用に床に落とし、眼前の彼の唇におのれのそれを重ねる。互いに瞳を閉じることなく触れあった口づけはすぐに離れた。
「――キスが謎々ですか?」
「そ。ナンで俺がいまキスしたのかとか?」
 にやりと挑発的な笑みを唇に刷けば、八戒は小さく瞠目した。思案げにゆっくりとまばたきをしてから、すぅと翠の双眸をすがめる。
「したかったから、じゃないんですか?」
「じゃあ、ナンでキスしたかったんだろーな?」
「――」
 意味深に口端をあげて、珍しくたたみかけるように言いつのる悟浄を、八戒はうろんげに見やった。露骨な視線を向ける彼に、悟浄はくつくつと笑みを深めた。たまにはこうして八戒に口で勝てるのは実に気持ちがいい。
「な? なんでもかんでも解ける謎々なんてナイんだから、深く考えンのはヤメヤメ」
「……なんだか貴方に負けた気がして、いま、すっごく悔しいんですけど」
 八戒は深々と嘆息しながら、自らの手首をとらえている悟浄の手を強引に振りはらって逃れた。振りはらわれた勢いで、悟浄の上体がわずかに揺れる。バランスをとろうと悟浄が少し離れたところを、今度は八戒のほうから両手をのばしてその頬を挟みこんだ。その勢いのまま、八戒の唇が悟浄へと重ねられる。
 ふいうちのキスを、悟浄は眼を見開いたまま受け止めた。先刻よりはしっかりと触れた柔らかな彼の唇の感触に、思わず胸が甘く高鳴る。
 重ねただけでキスを深めることなく、八戒はゆっくりと離れた。それでも悟浄の両頬を掌でしっかりと包みこんだまま、ゆったりと微笑む。
「確かに、その謎を学術的に説明することは可能ですが、」
「……あんま聞きたくないかも……」
 八戒がこの手の事柄を“学術的に”謎解きでもしたら、それこそ悟浄にはまったく理解できない言葉のオンパレードだろう。わかりやすく顔をしかめると、八戒はあでやかに笑みを深めた。
「そういう無粋なことはしないで、謎は謎のままのほうがいいときもあるというのが答えかな、と」
 ――例えばいま、こうして貴方とキスをしていること自体、僕の人生にとって大いなる謎ですから。
 触れるだけのささやかなキスをくり返しながら、八戒は至近距離でそっとささやく。息がかかるほどに唇を寄せあって、互いの腰に腕をまわして、立ったままより密着して。
「ま、それは俺もおんなじだし?」
 そもそも八戒と出会い、こうして深く特別な想いを寄せあうようになったこと自体、悟浄にとっても謎と言ってしまえばそれまでだ。何より、悟浄にとっても八戒そのものが最大の謎と言っても過言ではなかった。
 けれど、それもきっと相手が彼――八戒だからなのだろう。それは八戒にとっても、きっと同じことのはずで。
 それならなおさら、この謎はいつまでも解けないままのほうがよいのかもしれない。
 相手のことがすべてわかってしまったならば、それはそれでつまらないと思うから。
 悟浄は意味深に唇端をあげると、細腰にまわしていた双腕に力をこめて、さらにおのれのほうへと引き寄せた。そして、眼前の彼のこめかみにやさしいキスをひとつ贈る。
「それでも、少しくらいは謎解きとかしたくね?」
「……あまりわかりたくないですけど、もっとその先もしたいとか、そういう意味なんですかねぇ?」
「そうそう。キスの謎を解くには、もっとたくさんしたら少しはわかるんじゃねえ?」
「お約束ですねえ……」
 八戒は苦笑まじりにまなじりを下げると、悟浄の首にしなやかな両腕をゆったりとまわした。その動作で悟浄の肩にかかっていたタオルがはらりと床に落ちる。八戒の仕方なさげな仕種のわりに、互いの距離はさらに縮まるばかりで。
「――でも、それで“貴方の謎”が少しでも解けるのなら願ったりかな」
 そう言って微笑んだ八戒の表情は、悟浄が見惚れるほどにひどく甘やかだった。その意味深な笑みと言葉の意味を悟浄が気に留める間もなく、八戒から仕掛けられた深い接吻に意識がさらわれる。
 ひとたび唇を深く重ねあわせたら、あとはもう謎とか答えとか関係なく、ただ互いを求めあう行為に没頭するだけ。


 ――こんな謎解きならいつでも大歓迎だと、胸中でこっそりとつぶやきながら。







FIN

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