Moments




 手をのばしてもかなわないのならば、――せめて。





 めずらしく、白竜の襲撃前に目が覚めた。
 常よりも早く覚醒した自分に微妙な居心地の悪さを覚えつつも、沙悟浄はベッドに横たわったままの姿勢でぼんやりと宙を仰いだ。
 煙草の脂で薄汚れた自室の天井が視界に入る。
 そのまま目線を横に向けて、斜め前方の棚の上に置かれた時計を見やれば、まだ朝と言っても過言ではない時刻を示していた。昨晩も午前様で帰宅したのに、こんな早い時間に目覚めるなど、普段の悟浄からすればありえないことだ。
 けれども。そのありえなさが、普段とは違うことを如実に物語っていた。
 悟浄は天井を見つめたまま、深々と嘆息する。
 先日来、『今日』のことを思い、落ち着かない日々をすごしてきたからだ。
 問題の今日は9月21日――すなわち、同居人たる八戒の誕生日当日である。
 猪八戒という同い年の青年とやんごとなき出会いから同居生活に到り、約一年強。知り合って最初の彼の誕生日はまだ同居を始めたばかりの頃で、知らずにすぎてしまった。
 それから一年が経過し、彼と出会ってからめぐってきた二度目の誕生日。
 誕生日だからといって特別に何をどうこうすることなんてない。現に、悟浄自身の誕生日も今まで特別な何かをしたこともない。そもそも自分にとってこの世に生まれた日など、ある種忌まわしい日とさえ思う。そんな日をわざわざ祝うなど、気がしれないとすら感じるのに。
 ――そんな日のはず、だった。
 なのに。
 八戒を意識して初めて気にしたこと。
 特別に意識した他人と生活をして初めて気にしたこと。
 そう、――すべては日々彼とすごすうちに悟浄の胸懐に芽生えた、いままで感じたことのない感情より起因していた。八戒ただひとりに向けられた、不可思議な想い。その感情がなんであるのか、正直いまの悟浄にはわかりかねた。だが、そのかたちにできない感情の在り処が、いわゆる『特別』と呼ばれるものだということはぼんやりと理解していた。
 だからこそ、――何かをしたいと、思ったのだ。
 彼――八戒がこの世に生まれた日に。いつもと違う何か、を。これがつまり『祝う』ということなんだな、とおぼろげながらに認識した悟浄は、面映い心地にたまらず頭をかかえたほどだ。もちろん自分の部屋で、八戒には見られないようにして、である。
 しかし、だからといって何をするべきなのか。
 誕生日を祝われた経験など、悟浄にはない。いままでも、連れや女たちから訊かれたことはあれども、その話題だけはすべて無視してきたからだ。何度もスルーし続ければ、そのうち誰も訊いてこなくなった。悟浄にとって、そのほうが都合よかった。当然ながら、幼少の頃肉親から祝いをうけた経験もなかった。
 そんな悟浄が、初めて誕生日なる話題に必然的に巻き込まれたのが、ほぼ一年前の玄奘三蔵の誕生日だった。もちろんエセ坊主の生まれた日などまったく感心もなかったのに、悟空と八戒が企画した祝いに無理やり参加させられ、その場でみずからの誕生日も暴露せざるをえなくなったあげく、結果的に八戒と悟空の誕生日も知る羽目になった。彼らの強引さは時として迷惑以外のなにものでもないが、たまには結果オーライのときもある。そのうち、八戒の誕生日が知れた件については、ありがたい結果であった。
 ふいに、いまだ横になったままぼんやりしていた悟浄の耳に突如飛びこんできたのは、普段なら聞こえてくることはない扉の向こうから響く騒々しい物音。いくら八戒が家事をこなしていたとしてもここまで騒がしくはないから、明らかに八戒以外の誰かがこのうちにやってきたのだろう。
 そして、こんな朝早くからここを訪れそうな騒がしい人物などひとりしかいない。
 悟浄は再度大きくため息を吐きながら、意を決してベッドから起きあがった。訪問者が予想通りの人物であるなら、どのみち数刻もしたらこの部屋まで襲撃してくることは目に見えていた。
 ガシガシと、ようやく肩につくほどまで伸びた紅髪を掻きつつ、悟浄は寝起きの態そのままに自室の扉を開ける。案の定、その先にある居間にいたのは、八戒と来訪者である孫悟空だった。それまで八戒と対面していた悟空が、悟浄の登場に気づいた途端、くるりと小さな体を向ける。
「おはよー! おせーぞ、エロ河童!」
「テメェが早いんだっつの!」
「おや、今日は早いですね悟浄。おはようございます」
 にこやかにわらいながら、朝の挨拶を告げる八戒をちらりと見て、悟浄はすぐさま目をそらした。
「……ハヨ。」
 正直、まだ悟浄はこうした挨拶を交わすような普通のやりとりに慣れていなかった。八戒と同居を始めて、少しずつではあるが声をかけあうようになってきたものの、いまだ正面から顔をあわせて言えたためしがない。だからつい、照れもあってか、顔をそむけた状態でぼそぼそとした口調になってしまう。それに対し返事をするだけ進歩と思っているのか、いまのところは八戒からこれ以上突っ込みが入ることはなかった。
「あー悟浄、ちゃんと朝の挨拶しろよなっ! 大人のくせに!」
 しかし、飼い主よりきちんと躾られている悟空からは容赦ない指摘がくる。やましい自覚のある悟浄が一瞬気色ばんだその時、八戒が「まあまあ」と間に入ってきた。
「一応、悟浄なりにしてくれてるじゃないですか。気にしないで」
「……わかったよ八戒」
 しぶしぶといった様子で、悟空はその場をおさめると、ふいに両腕にかかえていたもの――林檎二つと何かが書かれた紙一枚を八戒へと差し出した。
「はい、八戒!」
「悟空、これは?」
「俺から八戒への誕生日プレゼント! 取っておいたおやつのリンゴと、俺から八戒へのお手伝い券だから! おめでとう!」
 満面の笑みをうかべながら差し出す悟空からそれらを受け取り、八戒は目を細めてにこやかにわらう。悟空いわくお手伝い券を目の前にかざして、まじまじと見つめた。
「ありがとうございます。これは悟空が作ってくれたんですか?」
「うん。俺、お金持ってないから何も買えないって言ったら三蔵が教えてくれたんだ」
「へぇ、あのクソ坊主がねぇ……」
 悟空の養い主たる金髪の最高僧を脳裏にうかべ、悟浄はしみじみとつぶやく。三蔵らしいといえば彼らしい提案だな、と何も準備していない自分のことは棚にあげて苦笑した。
「何より悟空の気持ちがうれしいですよ。またこの券はあとで使わせてもらいますね。せっかくだし、何か食べていきますか?」
 朝食の準備中だから、と八戒が口にすると、悟空から意外な言葉が飛び出す。
「いや、八戒に渡したし、もう帰るよ」
「――えっ!?」
「オイ、マジで言ってんのかお前!?」
 いつもなら迷わず食う! と飛びつかんばかりに見えない尻尾を振ってくる悟空があっさり断ったことに、悟浄と八戒が同時に驚愕の声をあげた。だが、当の本人は大人二人がどうして大仰に驚いているのかわからないとばかりに首をひねる。
「そんなにヘンか?」
「脳ミソ胃袋猿のくせに飯食っていかないとかビョーキかよ!?」
 変に決まっているだろうと悟浄が驚きのまま言いつのると、悟空はわずかに小首をかしげ、ちょいちょいと悟浄の身をかがめるようにゼスチャーで示した。悟浄は胡乱げに眉をしかめつつ、悟空の顔の高さまで耳許をよせたところで、そっとささやかれる。
「あのな、三蔵から『八戒に渡すだけ渡してさっさと帰ってこい。今日は絶対に残るんじゃねえぞ。それが俺からのプレゼントだ』って悟浄に言ってからすぐに帰れって言われたんだ」
「――は?」
「よくわかんねーけど、そういうことだから俺は帰るな。じゃ、八戒またな!」
 悟浄に言いたいことだけを言い切って、悟空は来たときと同じ騒々しさで有無を言わさず悟浄宅からあっという間に去っていった。あとは、まだ事の次第を理解しきれていない悟浄と八戒がぽつねんと残される。
「…………えっと、」
「……ナンだ、ありゃ……」
 なんともいいがたい微妙な空気感が、二人の間にただよう。
 すると、八戒のほうが先に動いた。その、なんともいえない空気を払拭するように肩で大きく息を吐いた。
「まあ悟浄も早起きしてきたことですし、このまま一緒に朝ご飯でも食べましょうか。すぐに準備しますね」
「……おう」
 八戒は悟浄と顔をあわすことはないまま、台所へと足を向ける。
 その背中を茫然と見送りつつ、悟浄は思わずそれまでつめていたらしい息を深々と吐き出した。




 いつも通りをよそおった二人での朝食を終え、八戒は悟浄に今晩の予定を訊いてから町まで買い物にくり出した。
 ジープを連れていかなかったからすぐには帰ってこないであろう同居人を送り出した後、悟浄は食卓の椅子に腰かけたまま、愛飲の煙草を銜えていた。
 そういえば、「おめでとう」を言えなかったな、といまさらながら気づく。
 悟空が去ってから、八戒も何事もなかったかのようにふるまっていたから、機を逸してしまった。なんとなく、悟空がいるときから、八戒が手放しに喜んでいないように見えていたから余計に、だった。そうなんとなく、八戒にとって誕生日なるものは歓迎すべきことではないのではないか。悟浄と同じように。
しかし、それをそのまま口にするのははばかられた。だからこそ。
 二人の関係がもう少し立場を変えたものであるなら、もっと彼――八戒に踏みこめたのだろうか。
 そう思うものの、今の互いの立ち位置はいろいろな意味で微妙である。ただの友人――にしては如何ともしがたい遠慮があり、ただの同居人――というにはいささか踏みこみすぎている感がある。
 八戒に対して特別な感情を持っている悟浄としては、正直なところ、もっと別のカタチで彼と関係をたもつことができればと思っている。だが、実際に八戒が悟浄をどう思っているのか、それはまったくの別問題だった。ただでさえ、本音を煙に巻くきらいがある彼のことだ、残念ながらいまの悟浄にその内面などわかるはずもなかった。
 それでも。
 少しずつではあるが、互いに歩み寄ってはいると思う。
 けれど、こんなとき――どう見ても八戒が無理をしているように見えるときにどうしたらいいのか、悟浄にはさっぱりわからなかった。
 どうにかしたい、と思うこと自体が悟浄のエゴだと思うが、それでも――。
 悟浄は肺の奥深くまで吸いこんだ紫煙を、上空に向けて一気に吐き出した。
 胸裏にこごるやるせない想いごと、すべて。




「あれ、出かけないんですか?」
 夕刻に差しかかっても外出することなく居間に居座っている悟浄を見つけた八戒が、意外そうに声をあげた。
 結局、悟浄は八戒が買い物から戻ってきた後もそのまま食卓の椅子に座ってぼんやりと煙草をふかしながら半日をすごした。どうにも動く気にならなかった、というのが本当のところである。考えこんでいるうちに時間だけがたってしまったともいうけれど。
 途中で、悟空から聞いた、三蔵の伝言の真意に気づいたから、ということも否定できない。あの、とことん朴念仁に見える破戒僧に気遣われたのはおおいに癪にさわるが。
 そんなわけで、本当はいつも通り賭場に出るつもりで八戒にもそのように朝の段階では告げたけれど、出かける予定のほうを取りやめた。だから。
「……んー、だりぃからパス」
「はあ、そうですか。じゃあ夕ご飯、貴方の分も作りますね」
「ああ」
 そう言って、エプロン片手に台所へと向かおうとしていた薄い背中を見やる。その背中越しに声をかけようと一瞬逡巡して、悟浄は息をのみこむ。だが、グッと再度息をのみ、懐奥にためた想いごと、彼に呼びかけた。
「――八戒、」
 その声に反応した八戒が、ふと立ち止まって背中越しに顔だけを悟浄へと向ける。ちょうど居間と台所の境目付近で、自らの体を支えるように右手をあげて壁に置いた。
「悟浄?」
「なあ」
「はい」
 八戒の体が悟浄の正面を向く。悟浄は椅子に腰かけたまま、自然と八戒を見上げる格好になったところで、ぎゅっと口角を引き結んだ。
「あのさ、……ねぇちゃんの話、聞いてやる」
「――――はい?」
 八戒の翠瞳が大きく見開かれた。それにかまうことなく、悟浄は続ける。
「今日お前の誕生日なんだろ? だから……惚気話、聞いてやるっつってんの」
「――」
 とうとう八戒は絶句したかのように黙りこんだ。盛大に瞠目したまま、悟浄をただ見つめるだけしかできないようだった。そのさまを目の当たりにして、自分は間違えてしまったのかと悟浄は心底肝を冷やす。
 けれども、これは悟浄なりに考えて考えぬいたうえでの結果。
 いま悟浄ができる、八戒に何かできることで一番よかれと思ったこと――それが、彼の双子の姉たる最愛の人物もともに祝うかたちをとるということだった。しかし、あからさまに祝うのは何かが違う気がした。八戒がまだ彼女のことを引きずっていることなど目に見える状態で、単純におめでとうと言うのはそれこそ違うと思ったのだ。
 その結果が先ほどの一言だったわけで、――おのれの発言ですっかり固まってしまった八戒に内心焦りながら、その続きをなんて言えばよいのか急にわからなくなってしまった。
 そんな悟浄の狼狽が伝わったのか、それまで呆然としていた八戒が、ふと我に返ったようにふぅとため息を洩らす。
 そして。
「…………物好きですね、貴方」
 漸う、八戒が口を開いた。いまにも泣きだしそうに目を細めながら、たおやかな笑みを惜しみなくうかべる。その、なんとも複雑な笑みを目の当たりにして、今度は悟浄が目を見開く番だった。胸奥からこみあげる『何か』をこらえるように、ぎゅっと下唇を噛む。
「……悪ィか」
「いいえ。……むしろ、何よりのプレゼントです」
 ――ありがとうございます、と。
 ここでようやく、八戒の笑顔から憂いの影が消えた。
 そのことに悟浄の胸が締め付けられる。
 少しでも伝わったのだと。そう思えることがすべてだった。
「……おう。だから、早く夕飯食っちまおうぜ」
 だから、悟浄もいつもの調子を取り戻したようにふるまう。
 悟浄の感情の一喜一憂に気づいているのか、八戒は口許に笑みをたたえたまま、「はいはい」とこれまたいつもの調子で返事をして台所の方へと消えた。
 今度こそ彼の背中が見えなくなるのを見送ってから、悟浄は肩から椅子の背に身を沈ませて大きなため息をついた。思いのほか緊張していたらしいおのれにこっそり苦笑しつつ、悟浄はゆっくりと首だけを上に向けた。そして、中空を見上げて、そっと口端をあげる。
 八戒と、いまは亡き彼女と――ささやかながら二人分。
 悟浄なりの気持ちをこめて。
 そう、――時間はたっぷりとあるのだから。
 八戒の気が済むまでいくらでも聞いてやろうと、そう思いながら悟浄はしずかに眼を閉じた。





 この、よき日に。








FIN

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