それはまるで、流れては堕ちる星の姿にも ――― 似ていて。













Meteor〜ミーティア〜




 冷たい空気が肌に鈍く突き刺さるような、それでいて肌にまとわりつくような不快感に、八戒の意識は急速に覚醒した。
 冴えた意識とは裏腹に、体のほうはまだ完全に覚醒しきれていないのか、重くてだるい。だが、それでも朝が訪れたとは到底思えない雰囲気に、現在の状況を確認すべく、八戒はゆうるりと翠の双眸を開いた。
 八戒の予想通り、周囲はまだ暗闇に包まれていた。中途半端な時間に目覚めてしまったことに、八戒はやれやれとため息を漏らす。
 今晩はジープを寝床に、各自が所定の席で眠りについていた。周りをうっそうとした森に囲まれた中、少しだけ道が広まったところにジープを停めている。どうやら標高の高い場所に位置するのか、夜はそれなりに冷え込む場所のようだった。ただよう冷気が、八戒の肌をそろりそろりと掠めていく。
 どうしようか、と、八戒は思案しながら、ふと夜空を見上げた。
 途端、その瞳に飛び込んできたものは――。
「――眠れねーの?」
 ふいに後ろから聞こえた問い掛けに、八戒は驚きのあまり、びくりと大きく体を震わせた。
 まさか起きていると思っていなかった人物の声に、八戒はばつが悪そうに苦笑しながらそっと後ろを振り返る。
「起きてたんですか、悟浄」
 人が悪いですねぇと嘯く八戒を、悟浄は軽く舌打ちしながら睨めつけた。
「お前に言われたかねーっつーの。で、どうしたよ?」
「悟浄こそ、いったいいつから目を覚ましていたんです?」
「んー、生臭坊主が席を立った時に、たまたま」
 悟浄の言葉に、八戒はそっと隣りを伺い見た。確かに、いつもならそこにいるはずの破戒僧の姿がない。悟浄に言われるまで、まったく気がつかなかったが。
「いつの間に。僕、全然気づきませんでした」
「そのほうがイイだろ。寝れる時に寝とかねーと、それでなくてもお前、運転してンだし」
「まぁ、そうですけど。……どこに行ったんでしょうねぇ、三蔵」
 くるりと周囲を見渡しても、三蔵らしき人影は見当たらない。ということは、少なくともこの近辺にはいないということか。
 八戒が三蔵の姿を目で探していると、いきなり今度は背後から肩を叩かれた。もちろん、その相手は悟浄以外にはいない。八戒は胡乱げに、己の真後ろに位置する彼を見やった。
「……いったい何です?」
「俺の前で、他のオトコのコト気にしてんじゃねーよ」
「他のオトコ、って貴方、」
「例え生臭坊主でも大却下」
 すると、悟浄が上半身を伸び上がるように浮かせて、後ろから覆い被さるように八戒の頬を捉えた。途端、八戒の白貌が、深紅のヴェールに包まれる。紅が、と八戒が思った時には、悟浄の唇が八戒のそれに触れていた。
 いつもとは逆の位置で、悟浄の唇を受け止めるこの体制だと、微妙に互いの頬が触れ合う。そんななか悟浄の頬に生えかけている髭が八戒の頬を掠めるたびに、八戒は小さく胴を震わせた。ぞく、と、鈍い痺れが背筋を這う。悟浄が接吻の角度を変えるたびに感じるちくりとした感触は、与えられる口づけとは別の気持ち良さで八戒を苛んだ。
「……んんっ……ふぁ、」
 飲み込みきれなかった唾液が、八戒の口角から溢れた。その顎を伝い流れる感触すらも、今は八戒の身の内の熱をゆっくりと、だが確実に煽っていく。
 けれど。
「………も、ごじょ……ぅ!」
 このまま流されてはまずいと、八戒は半ば力の抜けかけた腕で、どうにか悟浄の顔を剥がしにかかった。思わぬ八戒からの拒絶に、悟浄はそれでもしぶしぶといったん体を離す。
 その刹那、再び、八戒の視界を過ぎるそれ――流星群に、八戒は思わず「あ。」と声を上げていた。それを聞き止めた悟浄も、八戒の視線の先――夜空へと紅瞳を向ける。
「お、すげー流れ星」
「いわゆる流星群、ってヤツですね。…こんなにすごいのは初めて見ました」
 ちょうど林道の間だけ、わずかではあるが空を見るだけの空間が出来ていた。その、わずかに見える夜空いっぱいに、ひっきりなしに流れ落ちる星たちの軌跡。
 無数の星々が流れ行く姿に、二人とも、ぼんやりと見入っていた。目が離せなかった、とでも言うべきか。
 そんななか、先に我に返ったのは悟浄のほうだった。夜空を見上げたまま、ふいに口を開く。
「なぁ、やっぱり、今でもすぐに“願い事”は思いつかねぇ?」
 それは初めて流れ星を見た時、八戒が口にしたことだった。
 あの時もこうして、深夜にたまたま悟浄とともに目を覚まして、ほんの少し会話をかわした。その時「流れ星を見ても即座に願い事など浮かばない」と言った類のことを口にした覚えがある。
 確かに、あの時の自分は、すぐに願い事など思いつかなかった。
 ――でも、今は。
「いえ。今は、ひとつだけなら、すぐに」
 八戒はようやく流れ星から視線を外すと、くすりと口許を緩めた。
 そう、今なら。迷わず、願える。
 たったひとつだけの、願い。たとえ流れ星に願うことはなくても、常に八戒が心奥にいだき続けている願いにも似た、想いそのもの。
「ソレってナニ?」
 その声音が、揶揄するようでありながらどこか縋るような響きに聞こえたのは、八戒の気のせいだろうか。八戒は苦笑ぎみに微笑むと、すとん、と背中から深くジープのシートに凭れかかった。そうすると、自然に夜空を見上げる体勢になる。
 流れる星々をじっと見つめながら、八戒はくすくすと笑み零した。
「知ってますか? 流れ星に託した願い事は、ひとに話したら駄目なんですよ」
「ナンでよ?」
「ひとに話すと、願い事がかなわなくなるらしいですから」
「……それって、俺じゃかなえてやれないコト?」
 気がつけば、悟浄が後ろから覗き込むように八戒を見つめていた。そんな悟浄をちらりと流し見て、八戒はわざとらしく曖昧に微笑んでみせる。
「……それは秘密です。」
「ちぇっ。……ならさ、俺の願い事、聞きたくね?」
 いかにも残念そうに舌打ちした直後に、悟浄はころりと態度を一変させて、何やら嫌な類の含み笑いを浮かべた。その笑みに、よからぬ思惑をまざまざと感じた八戒は、わざとらしく嘆息してみせた。
 どうせ、悟浄のことだ。その口から飛び出す願い事など、多分――。
「聞きたくないけど、お聞きしましょうか」
「ナニ、その嫌そーな顔」
「僕の予想が正しければ、こんな顔をしたくなるようなことを言うだろうな、と思って」
「あ、ナンかムカつく。どうせ、俺がヤりてーとか言うと思ってンだろお前」
「え、そうでしょう?」
 白々しく八戒が言い切ると、悟浄は一瞬、むっと顔をしかめたが、即座に淫蕩な笑みをその口許にはいた。おやと、八戒が涼しげなその眦を訝しげに上げた、刹那。
「なら、期待にこたえちゃおっかなー」
「ちょっ、……と、悟浄……ッ!」
 再び背後から、悟浄の骨ばった大きな手が八戒の鋭利な顎を捉えたかと思うと、そのままきつく八戒へと口づけてきた。いきなり貪るような深い接吻を仕掛けてきた悟浄に、八戒はわずかに身を捩りながら抵抗を試みる。
 悟浄とキスをすること事態が嫌なわけではない。もちろん、悟浄と触れ合うことも、決して嫌なわけではない。ただ、今は嫌だった。この状況で、このまま流されるようにここで抱き合うのが嫌なだけだ。
 思いの外、なかなか悟浄の求めにのってはこない八戒に焦れたのか、悟浄は無表情のまま、そろりと身を離した。深紅の双眸を、至近距離で見下ろすかたちで、容赦なく向けてくる。
 その瞳の奥に浮かぶ真摯な感情の色に、八戒は知らず息を呑んだ。
「……ナンで? そんなにイヤか?」
「ここでスルのは、嫌です」
「もぉ、何日お前に触れてねぇと思ってる……? いい加減、我慢も限界なンだけど」
 明確な意図をもって、悟浄の掌が八戒の腰元をそろりと撫で上げる。悟浄の言う通り、十日以上も直接触れ合っていないせいか、そんな些細な動きにすら八戒の体は敏感に反応した。思わず上がりそうになった吐息を、八戒はなんとか噛み殺した。
「……それは、僕も同じですよ。だからこそ、こんなところで三蔵や悟空を気にしながら躯を重ねるのは嫌だって言ってるんです。それなら、明日宿でゆっくりたっぷりしたほうがいいでしょう?」
「…………それは、そう、かも、な」
 八戒の本気が伝わったのか、悟浄はゆっくりと八戒の体に伸ばしていた手を引っ込めた。そのまま八戒の肩口に、こつんと額を乗せる。
「悟浄?」
「なら、せめて、もう一回キスしよ」
「……一回だけ、それも唇まで、ですよ?」
 一度キスだけ、と言われて全身余すところなくキスをされた経験のある八戒は、悟浄に対してしっかり釘を指すことを忘れなかった。八戒の肩から顔を上げながら、悟浄は一瞬だけ怪訝そうに眉宇をよせたが、それでも気をとり直したのか再度上から顔を寄せてきた。
「じゃ、一回だけ、な」
 そう宣言してから、悟浄は八戒の頬に手を添えた。途端、ふわりと、少しかさついた彼の唇が下りてくる。唇同士が触れ合うその感触にたまらなく心地よさを感じて、八戒はそっと瞳を閉じた。その口づけは深まることのないまま、啄ばむようなキスだけをくり返して、そして――離れた。
 唇から消えた体温に、八戒はほんの少しだけさみしさを感じた。けれど、それは表に出すことはなく、己を見下ろす悟浄に向かい、やわらかな笑みを浮かべる。
「そういえば、悟浄の願い事、聞いてませんでしたね…?」
「だって、ソレ、しゃべっちまったらかなわねーんだろ?」
 悪戯っぽく笑いながら、悟浄はゆっくりと自分の指定席へと戻っていった。八戒もまた、くすくすとおだやかな笑みを絶やさぬまま、夜空へと視線を向ける。
 今も、静かに、星は流れている。
 その流れ落ちゆく様は、かなしいまでに綺麗。
 そう、それは、まるで――。
「まぁ、そうですね。お互い、このまま流れ星に願い事をして、もう少し寝ましょう?」
「そだな。…おやすみ」
「……おやすみなさい」
 互いに声を掛け合った後、悟浄が再びシートに身を倒したのをその気配で確認してから、八戒はそっと、詰めていた息を吐き出した。ちらりと、頭上を流れ落ち続ける星の大群を見やり、ふいに八戒は微笑んだ。それは、自嘲をこめた、どこかかなしげな笑みだった。そして、そのままゆるゆると両の瞼を落とす。







 本当に、そのすべてを手に入れることが出来るのなら。
 本当に、ずっと傍にいられるのならば。
 この流れ堕ちる星々のように。例えば、どこまででも堕ちてゆける。
 そう。










 願い事は、たったひとつ。










『   貴 方 が 欲 し い   』







FIN

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