眼差




 窓越しに差し込む月明かりが、光源のない室内をほの暗く照らし出す。
 薄暗い室内の、ベッドの上に座った体勢で向かい合う。悟浄と八戒は、ただ啄ばむような軽い口付けをおくり合う。吐息が互いの膚に触れるほど近くにいながら、ちょうど月の光が逆光にあたるのか、うすく影になっている八戒の表情は、いまいち悟浄からはよく見えない。
 ぼんやりと浮かび上がる白い貌を、悟浄は片手を伸ばして掬い上げるように己のほうへと向けた。
 ふと、それまで閉じられていた八戒の翠の双眸が、ゆっくりと開かれていく。
 至近距離で視線を合わすなんとも言い難い気恥ずかしさに、悟浄がその気持ちをごまかすようにゆるく口の端を上げると、八戒もまた、ふわりとあわい微笑を浮かべた。どこか艶やかさを醸し出しているその笑みに惹かれるように、悟浄はさらに八戒の頬に触れていた手を伸ばして、彼のモノクルを丁寧な仕種で外した。
 途端、悟浄の眼前にあらわになる、深緑の瞳。悟浄をとらえてやまない、深い湖の底を思わせる捉えどころのない翡翠の双眸。至上の翠。
 普段、ほとんど素で見ることのない八戒の右目は、実はつくりものである。こうして間近で見ると、かなり精巧に作られているものの、やはり義眼と本来の瞳の色は微妙に違っているように、悟浄には見えた。そう思いながら、悟浄はとん、と彼の肩をゆるく押す。それを合図に、ゆっくりと眼前の痩身をシーツの上に押し倒した。
 その間も、八戒の瞳は閉じられることなく、ゆるく目を細めながらじっと悟浄を見つめ続けていた。その双眸に浮かぶいとおしげな想いの色に、悟浄の胸裏にもまた、いとしさが募る。
 互いが互いを大切だと、特別だと、そして何よりもいとおしいと、そういうあたたかな、それでいて独占欲にも似た凶暴な思いに彩られた瞳。
 眼は雄弁に感情を物語るとはよく言ったものだと、悟浄はくつくつと小さく喉を鳴らしながら、覆い被さるような体勢で、己の体躯の下に組み敷いた八戒の右瞼にそっと唇を落とした。その感触に煽られたのか、ぞくりと、八戒の躯が震えたのが伝わってきた。敏感な彼の反応に気をよくして、悟浄はもう一回その瞼に口づける。
「……なぁ」
「……なんです?」
 悟浄は左の瞼にもキスを寄せながら、ふいに口を開いた。悟浄の問い掛けに、それまでほとんど閉じかけていたいた瞳を、八戒はそろそろと上げた。じっと、悟浄を容赦なく射抜くその翠眸へ、悟浄は覗きこむように視線を合わせる。
「こっちの眼、見えてンの?」
「いいえ」
 うすく微笑みながら、きっぱりと否定した八戒に、悟浄はわずかに目を瞠った。こんなに近くにいれば、おのずと悟浄の変化も八戒に如実に伝わってしまうらしい。八戒は、ふと微苦笑を浮かべると、そろりと悟浄の顔に残る傷跡へと指を伸ばしてきた。
 どこか労わるようなその仕種に、自然と悟浄の戸惑いもまた、すぐに霧散してしまうようだ。
 その指先に縋るように、悟浄はその手ごと、自分の掌に握り込んだ。
「義眼といっても、いわゆる生体ネットワークのような精密機械とは違いますからねぇ。一応視神経と繋げてはいるみたいですけど、それでもわずかに光を判別出来る程度ですよ。だから、」
 そう言って、八戒は自分の掌で左目を覆った。
「こうして右目だけでは、正直言って貴方の顔すら見えません」
 その声音はひどくさみしげなものだった。つ、と、その憂いを帯びたその響きに、悟浄は胸をつかれたような気がした。
 それをごまかすように、悟浄は自らの左目を覆う八戒の手を取り、その掌の内側に軽く、けれどどこか恭しい仕種で接吻を落とした。くす、と、八戒の口許に笑みが零れる。
「じゃあ、モノクルつけてたら見えンの?」
「いえ、あれはそういうものではなくて、どちらかというと遠近感を補うものですかね。実は、片目だけでは遠近感が掴めないんですよ。知ってました?」
「それくらい知ってるに決まってんだろ」
 お前、俺のコト馬鹿にしてない? と、悟浄が拗ねた口調で言い返すと、八戒は「ごめんなさい」と全然すまなさそうではない笑顔で、軽く肩をすくめた。
「でも、いきなりどうしたんです? そんなこと、今さら訊いてくるなんて」
「イヤ、急に訊きたくなったからよ。よくよくお前の眼見たら、そういえば左右ビミョーに色が違うんだなって。で、つい思い出した」
 にやり、と、悟浄が色悪な笑みを浮かべて、八戒を見つめる。その意味深な笑顔に、八戒はいぶかしげに眉宇をひそめた。そして、嫌そうに深々と嘆息する。
「なんだかロクでもないことのような気がしますけど、……何を思い出したんです?」
「普段はさぁ全然判んねーけど、ヤってる最中のお前、左目のほうな、すっげ翠の色が濃くなンの。特にイく直前なんかホント吸い込まれそーなくらい煌めいててさ、アレだよな興奮するとすげーってヤツ?」
「……ッ!」
 にやにやと淫蕩な笑みを絶やすことなく言い募る悟浄を、八戒は顔を真っ赤に染めてきつく睨んだ。
 そんな表情で睨まれても、かえって悟浄の劣情を煽るだけだと、彼は気づいているのだろうか。
 悟浄は口許をいやらしげにつり上げると、怒りと恥ずかしさに煌めく彼の眦に、宥めるようにキスをした。
 ちゅっと、最初は軽く、そして本格的に唇へと。
 次第に深まるキスに、どちらもが溺れていく。互いの唇をあますところなく重ね合わせて。唇だけではなく、その口腔内もまた、あますところなく舌で触れ合い。求め合う想いごと、甘く蕩けるようなキスをただくり返す。
 ふと、吐息を逃がそうと悟浄がうすく唇を離した刹那、八戒もまたそろりと悟浄から身を離した。上がる息にうすい胸を上下させ、八戒はそれでも、ふうわりと少しだけ自嘲を滲ませた笑みを浮かべた。
 そんな彼の笑みに、悟浄は怪訝そうに少し顔をしかめる。
 だが、八戒は甘やかな吐息をひとつ漏らし、下から見上げるかたちで悟浄を見つめた。
「今思うと、バカなことをしたなぁと思うんですよねえ」
「……ナニが」
「自分で右目を抉り取っちゃったことですよ」
 八戒はさらに嘲笑を深めると、わずかに目を伏せた。
 その少しだけあらわになった瞼に、悟浄は無言で唇をよせる。左右、両の瞼に、それぞれ。
「その上、あの時は左目まで抉ろうとしてましたしねぇ。今は、あの時止めてくれた悟空に感謝してます。まぁ、僕のしたことの代償のひとつがこの右目ひとつなら、仕方ないけれど」
「……仕方ない、なんて言うなよ」
「仕方ない、以外に言いようがないですよ、悟浄」
 あいかわらず何もかもを諦めたように言う八戒が悔しくて、悟浄は咎めるように返した。それでも、八戒はただ困ったようにうすく微笑むだけ。
「でも、今さらこんなこと言っても、本当に仕方がないけれど、」
 八戒はふと真顔に戻ると、そっと悟浄の顔を両手で掬い上げるように這わせた。再び、至近距離で互いの視線が絡み合う。そして、はっきりと目を合わせて、八戒は微笑った。
 その微笑みは、ひどく悟浄の胸にこたえるような、願望と後悔と、そしていとおしさに溢れたものだった。
「今、出来るなら、きちんと両の目で貴方を見たい」
 それは、永遠にかなわぬ願いと判っているからこそ、切ない。
 悟浄は大きく目を見開いて、眼下の八戒を見つめ返した。今にも泣き出しそうにも見えるその笑みを、少しでもやわらげることが出来るならと、その溢れる想いごと、悟浄はきつく彼を抱きしめた。
 突然の悟浄の抱擁に、八戒が息を詰めたのが伝わってくる。
 悟浄はさらにぎゅっとその痩躯を抱きしめ、その耳元に注ぎ込むように掠れた声音でささやいた。途端、己の躯の下の彼がぴくりと跳ね上がる。
「――ナンで、そー、素でそーゆうコト言うのお前」
「……ッ、ご、じょう……?」
 さらに、カフスの並ぶ耳朶を軽く甘噛みしながら、悟浄はくっと口許を淫猥に歪めた。
「もぉ、止まんなくなるだろ……?」
 このたったひとつ残された翠瞳にすら、煽られているというのに。
 たとえ、片方はつくりものの眼でも、その眼差に囚われているのは悟浄のほう。
 それなのに。
 なんだかすげー口説き文句を言ってもらった気分、と、悟浄は再度八戒へと口づけた。今度は、容赦なく互いの熱を煽り立てるキスを仕掛けて、もう引き返せないところまで高めて。
 そして、悟浄は、くり返すキスの合間にふと八戒の双眸を見た。
 その深碧の左眼は、悟浄を求めて、既に深い強い情欲の色に煌めいていた。この眼差を捉えた途端、ぞくりと、悟浄の身の内に歓喜の痺れが走る。
 そう。
 この眼差、だ。
 悟浄が深紅の双眸をゆるりと眇めた刹那、八戒もまた容赦なく艶めいた笑みをはいて目を細めた。その相貌は、思わず悟浄が息を呑むほど凄絶なものだった。
 そして、互いに見つめ合う。




 この眼差が何よりも己を捉えてやまないのだ。
 だから。
 悟浄は胸中でそうつぶやくと、その瞼に再び口づけを落とした。
 自分のモンだと、刻み込むように。
 自分以外の何も、決して捉えないように、と。







FIN

『言の葉遊び2』参加作品。

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