Only a little more




 部屋に備え付けられていた簡易シャワーで旅の疲れを軽く流した後、下半身だけ服を身につけて、濡れた髪の毛もそのままに寝室へと戻った途端、悟浄の視界に飛び込んできた光景に思わず紅眼を見開いた。
 そして、素肌をさらしたままの肩にかけたタオルで頭から流れ落ちる水滴を雑な仕種で拭いながら、不機嫌そうに顔をしかめる。
「……そいつ、ナニしてんの」
「なにって、ジープが僕の膝で寝ているだけですけど」
 ――そんなのは見れば判るっつーの。
 八戒から返ってきたそのままの答えに、悟浄は肩を落としながら微かにため息を漏らした。むっつりと口を尖らせたまま、ベッドに腰掛けている八戒の前まで近づく。
 そう。
 久しぶりの二人部屋で、しかも久しぶりの八戒との相部屋にいろいろな意味で悟浄が心躍らせて先にシャワーを浴びているうちに、どうやらこれまた久しぶりにご主人様に甘えるチャンスと思ったらしいジープに先を越されてしまったらしい。見れば、ベッドの端に腰掛けた八戒の膝の上で、白竜は体を丸めていた。細長い首に流れるたてがみを、八戒のほっそりとした手が丁寧に梳いている。ジープはとても気持ちよさげな表情で、その指に甘えるようにすり寄っていた。
 そんな白竜を、八戒もまた優しい笑みを浮かべながら見つめている。
 それは確かに、飼い主とペットのほほ笑ましい光景ではあるのだが。
 悟浄にしてみれば、全然面白くない。
 悟浄は八戒の前に立つと、じっと彼の膝上を陣取るジープを見下ろした。
「――」
「悟浄?」
 八戒がいぶかしげに声をかけてくる。それにはかまわず、悟浄はおもむろに手を伸ばして無言のままジープを掴むと、無理やり八戒の膝の上から退かした。そのまま、八戒が座っていないほうのベッドに白竜を移動させる。
「きゅう!」
「ちょっと、悟浄」
 双方から即座に抗議の声があがったが、悟浄はそれを綺麗に無視した。そして、立ち上がりかけた八戒を制するように、彼のいるベッドに素早く乗り上げ、その膝の上に自らの頭をのせて横たわる。
 つまり、八戒の膝を枕にして寝ている姿勢である。視界が瞬時に逆転した。
 突然の悟浄の行動に、眼上の八戒の面にはっきりと呆れが見てとれる。どこか茫然としている八戒に向かい、悟浄はまるで悪戯が成功した少年のような顔で笑った。
「ココは俺のだし?」
「……貴方ってひとは」
 八戒は心底呆れたふうに嘆息した。そして、膝上の悟浄の顔をじっと見下ろす。
「ジープと張り合ってどうするんです、まったく」
「仕方ねえじゃん。久しぶりにふたりっきりだってのに、ジープに譲れるかっての」
 たとえ膝の上でも大却下、そうはっきりと告げれば、八戒のため息がますます深まった。
「だからといって、僕の膝にのってもいいとは言ってませんよ?」
「――ダメ?」
 強請るように、下から見上げる。
 悟浄からは逆光にあたるため、八戒の端正な貌にほんの少し影がかかって見える。八戒はなんとも言い難い表情を浮かべていたが、ふと微苦笑をその口許に刷いた。
「ここで僕が駄目だと言ったら除けてくれるんですか、貴方は?」
「ぜってーイヤ」
「…………それなら訊くだけ無駄でしょう……」
 呆れ混じりにつぶやきながら、それでもその声音はやわらかい。
 ふいに、八戒の柳眉がしかめられた。その表情の変化を悟浄が眼にとめた途端、彼の手が肩にかけたままだったタオルを取り、勢いのまま紅色の髪の毛をがしがしと拭い始めた。
 丁寧とは言い難い、八戒らしくない乱暴な仕種。その荒々しい動作に、悟浄は軽く飛び上がった。
「――ッテェ! ナンだよ急に」
「貴方、まだ髪が濡れてるじゃないですか。僕の足が冷たいんですよ」
 しょうがないですね、と零しながらそれでも悟浄の髪の毛全体をタオルで拭う作為はやめない。なんだか母親に世話を焼かれている子供の気分になって、悟浄はほんのわずかだけ紅の双眸を眇めた。けれど、それでも八戒がこうして自分にかまってくれること自体は嬉しくて。
 悟浄は再び、ちらりと上目遣いに彼を見上げた。ふと、視線が合う。途端、八戒はやれやれとこれ見よがしにため息を漏らした。
「男の膝の上にのっても、気持ちよくもなんともないでしょうに」
「ナンで?」
「こういう“膝枕”なんていうのは、女性のやわらかい脚だからこそ気持ちいいものでしょう?」
 言われて、今の姿勢がいわゆると“膝枕”いう状態なのだと、悟浄はようやく気がついた。ほんの一瞬わずかに瞠目したものの、すぐさまにやりと、唇をつり上げる。
 確かに、八戒のそれは女性と比べればやわらかくはない、けれども。
 悟浄にとっては、誰よりも心地よい場所。誰よりもやわらかく感じる場所。誰がなんと言おうとも、八戒が一番いいのだと。
 八戒の膝に顔を押し付けるように摺り寄せれば、痩身が微かに震えた。敏感な彼らしい反応に、くつくつと愉しげに喉を鳴らす。
「悟浄」
「いーの。俺は十分気持ちイイから」
 そう、布越しではあるけれど、こうして彼の感触と体温を感じるのはとても気持ちがいい。悟浄はうっとりと瞳を閉じて、それらをさらに堪能しようとその膝先に軽く口づけた。
 びくり、と八戒の身体が揺れる。
「悟、浄」
 頭上から降ってくる咎めるような口調も、今の悟浄にとっては甘いささやきに聞こえるから不思議だ。
 仕返し、とばかりに、八戒はさらにきつく悟浄の濡れた髪の毛をかき回した。わざとらしい乱雑さに、再び悟浄は飛び上がる羽目になる。
「イテッ、痛ェよ八戒っ」
「貴方がロクでもないことばかりするからですよ、もう」
 はいお終い、と、最後にタオルで髪の毛全体を撫で付けるように水気を取ってから、ようやく悟浄の頭からタオルを取り払った。それでも、悟浄の頭を自分の膝から退けようとはしない。
「たまにはいいだろ? よく考えたら今までこんなコトしてもらったことねぇし」
 よく考えなくても、八戒に膝枕などという甘ったるいシチュエーションなど、特別な間柄になっても初めてだった。
 はからずもこういう格好になっただけではあるのだが、彼がこの体勢を許してくれている以上はしっかり堪能して何が悪い。悟浄は内心でそう結論づけると、仰向けに身体の向きを変え、秀麗な八戒の相貌をじっと見つめた。
 八戒は、困ったように口の端をそろりとあげる。そして、あらわになった悟浄の額にそっと右手の指先を這わせた。冷やりとした指が、湯を浴びて火照る身体にちょうどいい。
 悟浄は知らず気持ちよさげに目を細めた。
「まぁ、普通はしないでしょう。男同士で膝枕なんて」
「まーね。だから、せっかくだし、今タンノーしてンの」
「……馬鹿ですねえ貴方」
 憎まれ口を叩きながらも、そんなふうにほんのり色づくように微笑まれては、悟浄がつけあがるだけだというのに。
 八戒の指は、そのまま悟浄のつややかな紅髪へと移動する。いまだしっとりと湿るその感触を確かめるように、細くて綺麗な指先がなめらかな動作で長い髪の毛に絡んだ。
 最高に気持ちがいい。
 悟浄はさらに瞳を細めた。そんな悟浄を甘やかすように、彼の左手が顎のラインをそろそろとたどる。くすくすと喉を鳴らしながらそれを受け止め、そうしてその手をおもむろに掴んだ。そのまま己の口許に導き、八戒の掌の内側に軽くキスを落とす。
「……っ」
「それに、こうやってお前を見るのって結構新鮮」
 下から見上げるかたちで八戒を見る機会など、そうそうない。確かに身体を重ねる時に近い体勢になることはあっても、こうして穏やかな気持ちのまま、彼を見上げるのもなんだか不思議な感じだと悟浄は思った。
 けれど、見下ろすよりはずっと、彼に甘えている心地がする。
 それがなんとも面映くも気持ちがいい。
 ふいに、八戒の笑みがよりやわらかく深められた。たわむれのように何度も左の掌にだけキスを贈り続ける悟浄を好きにさせてくれている。
「僕もこうやって上から悟浄を見るのは、なんとも不思議な感じがしますよ」
「お、気が合うねえ。俺も」
「で? いつまでこうしているつもりなんです?」
「そりゃ、俺の気が済むまでって……痛いんですけど八戒サン?」
 梳いていたほうの手で、八戒は悟浄の髪の毛をわざとぎゅっと引っ張った。いきなり襲ってきた痛みに、悟浄は思わず眉宇をしかめた。見れば、八戒は含み笑顔全開で悟浄を見下ろしている。
「貴方の気が済むまでって、いったいいつなんですか」
「んー、あともう少しだけ」
 な? そう強請るように告げれば、八戒は静かに微苦笑を浮かべた。
 このままずっと膝枕を続けるわけにはいかないことぐらい、悟浄も承知している。
 本当はそれこそ気が済むまで ――可能なら明朝まででもまったくかまわないのだが――していたいのだけど、どう考えても長時間このままでは八戒の脚が痺れるのは明白で。八戒の足が使えないとなると、翌日の移動に差し支える。それはまずいことくらい、悟浄にだって解る。
 でも、せっかくのこの状態を、もう少しだけ堪能していたくて。
「……あと少しだけ、ですよ?」
「ん、あと少しでいいから」
 八戒からのお許しが出たことに気をよくして、悟浄は返事とばかりに彼の左掌にきつくきつく口づけた。
 そして、もう少しだけ、この気持ちよさにその身を委ねるように。
 悟浄はゆっくりと紅色の瞳を閉じた。



*********



「………悟浄?」
 ふと気がつけば、己の膝の上に頭をのせている男から規則正しい呼吸音が聞こえ始めて、八戒は小さな声で彼の名を呼んだ。
 しかし、返ってくるのは、それこそ規則正しい寝息のみ。
 いっそあどけなさすら見てとれる男の寝顔をしげしげと眺め、八戒はゆるゆると息を吐き出した。
「……まったく」
 子供みたいだと、心底思う。
 八戒よりもさらに大きな身体をしているくせに。ジープにさえも焼きもちを妬くあたりもどうかと思うし、さらに得意げに八戒の膝を占領して嬉しそうにしている姿など、どう見てもいい年をした大人のすることとは思えないのだが。
 けれど。
 こんなふうに彼が見せる独占欲も、こんなふうに彼が見せる甘えも。
 すべては八戒だからこそ、そして八戒にだけ向けられるものなのだと思うと、許せるどころか、誰にともなく優越感すら覚えてしまう。そんな自分が何よりも大概なのだという自覚は、ちゃんと八戒にもあった。
 それでも。
「まぁ、……しょうがないですよねぇ」
 困ったようにつぶやきながら、それでもその表情はまったく困ったふうではなくて。
 八戒はおだやかに微笑んで、そろりと、それまで梳いていた悟浄の長い紅髪をひと房、つまみ上げる。
 せっかく己の膝の上で気持ちよさげに眠る彼を起こすのは忍びない。だが、このまま朝までこの姿勢というのは、さすがに八戒もきつい。相手は自分と同い年の大人である。間違いなく、長時間この体勢を取れば八戒の脚が痺れて使いものにならなくなること必死だ。
 だから、そろそろ悟浄を自分の膝から退かさないとまずいのだけれど。
 八戒は手にした彼の髪の毛を指先で玩びながら、その寝顔をじっと見下ろした。
 無防備なその寝姿に、知らず笑みが零れる。
 八戒の膝の上に頭を預け、無心に眠る悟浄。
 こんなふうに、心穏やかに、悟浄の寝顔を見下ろすことなど滅多にない。けれど、これも八戒の前だからこそ見せてくれたもの。そういう意味では、八戒にとっても貴重でかつ堪能していたいシチュエーションではあるのだ。
 しかし、それもそろそろ限界に近い。
 少し痺れ始めた己の脚に意識を向けつつも、八戒は眼下の男の顔をそっと見つめた。
 そして、手にしていた悟浄の髪の毛を己の口許まで持っていき――その先にそっと優しい口づけを落とした。
「……せっかくだし」
 ――もう少し、だけ。
 八戒はひっそりとつぶやいて、いとしい男の寝顔を静かに見下ろす。
 その口許に、幸せそうな笑みを浮かべつつ。



 あと、もう少しだけ。
 何度も何度も、己に言い聞かせるように、胸中でそうささやきながら。







 そう――もう少しだけ。







FIN

inserted by FC2 system