伝えたい言葉




 うとうととしかけたところへ、控えめなノックの音が耳に届いた。
 手放しかけていた意識をどうにか手繰り寄せ、悟浄はゆっくりと目蓋を押し上げる。
 再び、コツコツと、しんと静まり返った暗闇に小さく響いた。
 こんな夜更けに悟浄の寝室を訪ねてくる心当たりなどひとりしかいない。悟浄はぼんやりとする頭を一振りしながら、上体を起こした。
「……どぉぞ」
 いつ何時襲撃に遭うか判らない旅程ゆえ、基本的に宿部屋の鍵はかけない。もちろんそれはノックをした主も同じだから、悟浄が返事をするとすぐに、なんのためらいもなく扉を開けた。
 扉の向こうにいたのは、悟浄の予想どおり――八戒そのひとだった。流美な仕種で、しずかに室内へと細躯を滑り込ませる。
 夜だというのに、八戒はしっかりと旅装束を着込んだままのいでたちだった。確かに、就寝中に敵の襲撃が来ても差し支えないよう、四人ともわざわざ夜着に着替えて休むことなど滅多にない。それでも大抵、上着くらいは脱いでおくものなのだが。かくいう悟浄も、皮ジャケットだけを脱いでベッドに横たわっていた。
 悟浄はどこか覚束ない意識のまま、暗闇越しに、ちらりと彼を一瞥した。
 八戒は微妙な笑みを浮かべて、ゆっくりと前進を始めた。
 今晩は四人ともが一人部屋、しかも割と広めの間取りのため、入り口からベッドまでそれでもほんの少しだけ距離がある。特に言葉を発すことなく、八戒はゆったりとした足取りで一歩一歩近づいてくる。その姿を悟浄も無言で、ただ見ていた。
 そして、悟浄のいるベッドの前で八戒は立ち止まった。長身がじっと、ベッドに上半身だけを起こした悟浄を見下ろした。
「……もしかして夜這い?」
 上目遣いに彼を見つめる。悟浄はわざと挑発するかのように口許を淫猥に歪ませてみせた。
 途端、ふ、と八戒の笑みが深まる。
 一瞬ふたりの間を過ぎった冷えた空気に、悟浄のほうがぎくりと身を竦ませた。だが、八戒が瞬時に浮かべた寒々しい微笑はすぐに霧散し、今度は口許に微苦笑を刻んだ。
「貴方ねぇ……。とはいえ、夜這いと言えばそうなのかも」
「マジで?」
 八戒はそっと身を屈めると、悟浄の足許に腰を下ろした。きし、と、安物のベッドが軽く軋み音を上げる。
「ええ。夜中に悟浄の寝込みを襲ったことには違いないですから……。まさか、まだ起きているとは思わなくて、ちょっとびっくりしました」
 にこりと笑う八戒の笑顔に、何故か引っ掛かりを覚える。
 悟浄はいぶかしげに軽く眼を眇めた。溜息をつきながら、視界にかかる己の前髪をいささか手荒にかきあげる。
「で? マジでお誘いなワケ?」
 今晩四人とも個室が取れる、と判った段階で、実は八戒にそういう意味で誘いをかけるつもりだった。けれど、ここ連日の野宿続きで一番疲れているのは、どう見ても運転手である八戒だった。体力はそれなりにある彼が明らかに憔悴している姿を見ると、いかな悟浄といえども今晩は遠慮したほうがいいかと判断せざるを得なかった。
 悟浄とて八戒にはかなり飢えている。けれど、ここで無理を押して躯を重ねるよりは、今晩はゆっくり休んだほうがいい。幸い、この調子でいけば、明日の晩も宿にありつけそうだった。それならば明日、たっぷりとふたりの時間を過ごせばいいこと、と己に言い聞かせて、悟浄は八戒を求める未練がましい想いを断ち切るように早々に自分に宛がわれた部屋へと引き篭もったのだった。
 だから、八戒からの夜這いなら大歓迎、という想いと、どう見てもやはり疲れてみえる彼と今抱き合っても、という思いが悟浄の胸中で複雑に交錯する。
 どうも気づかぬうちに、変な表情を浮かべていたのだろう。
 眼前の彼が一瞬、目を丸くした。かと思うと、すぐに頬を緩め、おかしそうに肩を震わせながら吹き出した。
「悟浄……、何をそんなに小難しい表情(かお)をしているんですか……」
「――アレ。そんなにヘンな顔してた俺?」
 悟浄の思いが顔に出ていたのなら、確かにそうかもしれない。
 悟浄はぼつが悪げに、かりかりと頭を掻いた。くすくすと、八戒が愉しげに微笑む。
「とっても。悩める貴方も可愛くて素敵ですけどね」
「……カワイイって誰が」
 八戒の口から飛び出したとんでもない単語に、悟浄はますます眉間に皺を寄せた。八戒は笑みを絶やさぬまま、ほんの少し身体を左に捩り、そっと悟浄の左頬へと左手を伸ばす。
「貴方以外いないでしょう? ……ここには」
「そーじゃなくてだなぁ……。だから、八戒サンはどーしても俺のとこに来たのかなって話だったと思うんだけど」
 己の頬を這う彼の手に、悟浄は自らの左手を重ねた。ぴくり、と、悟浄の掌越しに八戒が小さく震えたのが解った。
 八戒は悟浄から視線を外すと、そっと目を伏せた。
 くすり、と、どこか自嘲ぎみに朱唇がつり上がる。
「夜這い、に来たわけじゃないんですけど」
「……うん」
「僕は今まで、こういうことを言葉にのせるのが怖くて、貴方にもはっきりと言葉にしたことはなかったんですけど。何が怖いとか、はっきりと口にするにはいろいろありすぎて、これも言葉に出来ないんですけどね……」
「……」
 ぎゅっと、手に捉えたままの彼の掌を、悟浄は思わず握り込んだ。弾かれたように八戒が顔を上げる。そして、再び、そろそろと悟浄のほうへと白貌を向けた。
 八戒は曖昧に微笑むと、今度は悟浄を見つめたまま口を開く。
「ただ。もしも、明日、意に沿わぬかたちで貴方と物理的に離れることになってしまったら? 僕は今まで、肝心な気持ちを何ひとつ言葉にして貴方に伝えていなかった。自分の臆病さを言い訳に何も伝えていなかった。……彼女の時にあんなに後悔したのに。僕はまた、後悔するのか、――と」
「――」
 八戒の言葉に、悟浄は大きく紅眼を瞠った。
 彼は。何を突然、言い出すのか。しかも、ものすごい告白をされているような気がするのは――悟浄の気のせいではないはず。
「僕はね、悟浄。彼女のことで自分がしでかしたことについては、何一つ後悔なんかしていないんですよ。今でも、同じことが起こったら僕はまたくり返すんでしょう。だけど。たった一つだけ、ずっと後悔していることがあるんです」
 ここで言う彼女、とは、八戒がかつて悟能と名乗っていた頃に愛した双子の姉のことだ。八戒が悟浄の前ではっきりと姉の名前を口にすることはまずない。
 今なお、こうして八戒の中で深く息づき続ける彼女に対し、どうしようもないことだと判っていても胸裡が妬ける。彼の唇から、どこか大切そうに『彼女』と紡ぎ出されるだけで胸が痛い。どうしようもない、と判っているからこそ、このやるせなさはきっと永遠に悟浄を苛み続けるのだろう。
 そう、覚悟をしているものの。
 やはり、何度でも胸が痛むのだ。
 たとえ今、間違いなく、八戒が悟浄を特別だと想ってくれていると解ってはいても。
 狭小な己の心持ちをあらためて自覚して、悟浄はくつり、と喉を震わせた。そんな悟浄の様子に、八戒は目を細めた。彼の口許から笑みが消える。
「……悟浄?」
「いーから。……ナニ、後悔してることって」
 自らの嫉妬心をごまかすように、悟浄はさらに嗤いを深めた。
 一拍の間、八戒はためらうような素振りを見せたが、それでも唇を震わせながら言葉を続ける。
「……彼女にもっと好きだと言えばよかった。もっともっと――愛していると伝えればよかった。――彼女からはたくさん言葉を貰ったのに、僕はほんのわずかしか返せなかった気がする……」
 八戒はまるで喉奥から声を搾り出すように、ひっそりと悟浄に告げた。
 くしゃりと、八戒の相貌が歪む。
 ――泣き出すかと、思った。その表情に、悟浄はつと胸を衝かれた心地がした。
「……いきなり、どーしたんだ、お前……」
 八戒が何故、今、こういうことを語り始めたのか。悟浄は己の頭を過ぎる疑問を、そのまま呆然と口にした。内容が内容だけに、訊かずにはいられなかった。それをどうして今、悟浄に話す必要があるのか。
 八戒はふと我に返ったように、わずかに目を瞬かせた。そして、ふわりと、穏やかに――それでいて今にも消え入りそうなほどに淡く微笑んだ。その微笑みに、悟浄はますます目を瞠る。
「あははは、……すみません。夜中にいきなり訪ねて、しかも突然こんなことを言って。悟浄が迷惑するだろうなぁ、と判ってはいたんだけど。それでもどうしても今、貴方に伝えたかったんですよ」
「だから、お前ね」
 わざと悟浄の質問をかわされたような気がする。その苛立ちを口にすれば、八戒は困ったように微笑み返してきた。
「……夢を、見たんです」
「……ナンの?」
「言わないと駄目ですか」
 これ以上は出来れば口にしたくない、と、八戒の翠の双眸がはっきりと物語っていた。それまでの八戒の言葉からなんとなくその内容の察しがついて、悟浄は軽く嘆息する。
 ……おそらく。
 悟浄を失う夢でも見たのだろう。あくまでも悟浄の予想、ではあるが。
 かつて最愛の女性を無残なかたちで亡くした彼は、極端にその手の言葉を口にのせることをためらう。それならば無理に言わせることもないだろうと悟浄は思った。
 それならば。
 悟浄は、眼前の彼を安心させるように頬を緩めた。軽く口の端を上げる。
「イヤ、いい。それで? 俺に伝えたいことって?」
 先を促すように言い募れば、八戒は唇に笑みを刻んだまま、ふいに悟浄の左頬に添えていた手を離した。悟浄はその動きをゆっくりと目線で追っていた。
「――おわぁっ!」
 突如、ものすごい力で両肩を八戒に掴まれたかと思うと、その勢いのまま上半身をベッドに押し倒されてしまった。あまりの衝撃に、一瞬喉が詰まる。悟浄はほんのわずかだが苦しげに唇を歪めた。
「……ちょ、八戒、……」
 唐突すぎる仕打ちに、悟浄が抗議の声を上げかけたその時。
 ふいに、上から八戒が覆い被さってきた。そして、ぎゅう、と強く――驚くほどに強く抱き締められた。
 突然もたらされた彼からのきつい抱擁に、悟浄は茫然とただ為すがままだった。そんな悟浄には構わず、八戒はさらにその背中に双腕をまわして、もっときつく抱き締めた。悟浄の広い胸に、自分の顔を押し付けるような仕種で。
「……好き、です」
 ふと、己の胸元からくぐもった彼の声が聞こえてきた。
 その音をはっきりと脳裏で理解した途端、悟浄は思わず息を詰めた。それは初めて聞く言葉だった。
 ぴくりとも動けない悟浄に向かい、八戒はさらによどみなく語り続ける。
「好きです。貴方が本当に好きで好きで、……何度言っても足りないくらい、好きです」
 どうしようもなく好きなんです、と、まるで悟浄に解らせるように言う八戒。
 ただ、それだけを必死で言い募る彼に、悟浄はどうしていいのか判らなかった。
 どうすれば一番いいのか。
 何を口にすればいいのか。どういう態度を取ればいいのか。
 そんな些細なことすら、まったく判らなかった。
 まったく身動(みじろ)ぎひとつ出来ないでいる悟浄に、八戒は自らの想いを吐露するように「好き」を繰り返す。
 彼の唇から「好き」という言葉が零れるたびに。
 悟浄の心がどうしようもなく震える。どうしてこんなにも胸に響くのか判らないけれど、それでも八戒が口にすればするほど、己の胸奥から悟浄には言葉に出来ない感情が湧き上がってくる。
 甘くて。
 痛くて。
 せつなくて。
 それでも泣きそうなほどに嬉しいと――幸せだと思える気持ち。
 この感情の名前を悟浄は知らない。けれど、もしかしたら、この気持ちが今、八戒が伝えてくれた「好き」と――そういうことなのだろうか。
 悟浄はゆるゆると、それまで詰めていた息を吐き出した。ここでようやく八戒もまた、ほぅと、深くひと息つく。それは悟浄の胸へとかかり、その熱さに惹かれるよう、悟浄は再び吐息を漏らした。
「……サンキュ」
 漸(ようよ)うそれだけを口にすると、悟浄は、覆い被さる彼の腰へと手をやり、そのまま勢いづけて八戒ごと上体を起こした。今度はベッドの上に、向かい合わせで互いを見つめ合う体勢になる。
「初めてだな。お前からその言葉を聞くのは」
 両腕を八戒の腰にまわして、さらに自分のほうへと引き寄せる。
 八戒もまた、その動きに合わせてゆっくりと悟浄の肩に手をまわした。ふたりの距離がどんどん縮まっていく。
「……今まではとてもじゃないけど言えませんでしたよ。でも、今、どうしても言いたくて」
「ああ」
「僕の自己満足と言ったらそれまでですが。それでも、もう後悔はしたくないから」
「……うん」
「貴方が本当に好きだから、もう後悔したくないんです……」
 こつり、と、八戒の額が悟浄の肩口に乗せられた。語尾が震えている彼をなだめるように、悟浄はそっと薄い背中を抱き締める。
 ――嬉しい、と。
 こんなにもこんなにも悟浄を好きだといってくれる彼が心底いとおしいと、思った。
 『好き』という、初めて聞いたのに――心が震えて、どうしようもなく愛しいとそう思えるとても大事な気持ちを抱(いだ)かせてくれた言葉をたくさんたくさん伝えてくれた八戒が『好き』だと、悟浄も思った。
 今、悟浄の胸に渦巻くこの言葉に出来ない感情を、八戒にも伝えたいと思った。後悔をしたくないのは悟浄も同じだから。
 彼が伝えてくれたように、悟浄もちゃんと伝えたいと思ったから。
 それならば。この感情こそがきっと――。
「……俺も好き」
 知らず唇から零れていた。口許に自然に笑みを湛えたまま、愛しい男に向かい、そっとささやく。
 途端、八戒が弾かれたように伏せていた面を上げた。心底驚いた、と云わんばかりの表情で悟浄を見つめてきた。
「悟、浄……」
「なんだよ、その顔。……俺が言うの、そんなに意外か?」
 わざと茶化すように言うと、八戒は困惑ぎみに眦を下げた。ほんの少し逡巡しながら、それでもゆっくりと口を開く。
「そうではなくて……、貴方も、僕と同じようにこの言葉を簡単に口に出来ないひとだと思っていたから」
「というよりも、俺はさ、好きの意味がよく解んなかった。今まで」
「……」
 言葉なく、八戒は大きく翠眼を瞠った。くす、と、悟浄は口許に笑みを象る。
「だから俺も一度も言ったことなかっただろ? 『好き』って言葉自体は知ってても、その意味が解らない以上、お前に言えるワケねーじゃん。けど、さ」
 悟浄は一旦言葉を区切ると、悟浄を無言で見つめ続ける八戒にそっとキスを落とした。
 ぴく、と、触れ合った唇越しに、彼の痩身の震えが伝わってくる。
「ごじょ……」
 吐息ごと、八戒が己の名を密やかにつぶやいた。悟浄は軽く触れただけですぐに口づけを解く。
 そして、悟浄はさらに彼へと笑いかける。
 八戒がますます瞠目するほどの、幸せそうな笑みを浮かべてみせる。
「お前が教えてくれた。だから、今なら言える。――八戒のコト、すっげぇ好き。どれだけ言ったら全部伝わるのか判んねぇくらい好き。とにかく好き。大好き」
 八戒に伝わるように。
 悟浄は何度も何度も好きと口にする。
 そうして、みるみるうちに、八戒の白貌が微笑みに花開いていく。その様を間近で見つめ、悟浄もまた口許の笑みが深まる。
「……なんだか僕達、好きって言葉を大出血サービスしているみたいですね」
 ほんの少し眦に滴を浮かべながら、八戒がわざと明るい口調で言う。
「いいじゃん。今日ぐらい、とことん言い合えば。これからっつっても、そう簡単に好き好き大好き〜なんて、所構わず言える状況じゃねぇだろ、俺ら」
「……それもそうですね」
「だから、さ。……もう声が枯れるくらい好きって言わせて」
 お前も同じくらい好きと言って。
 そう、強請るように告げれば、お返しとばかりに八戒のほうから口づけてきた。ちゅっと軽く唇同士を触れ合わせて。その合間にそっと八戒がささやく。
 ――好き、と。
 その響きにうっとりと笑み崩れながら、悟浄もまた、キスを贈るごとに同じようにささやき返す。
 大好き、と。



 後悔したくないんです、と八戒は言ったけれど。
 それは悟浄にとっても同じことなのだ。
 大事なことを伝えてくれた彼に。そして大事なことを教えてくれた彼に、悟浄も同じように伝えたいと思ったから。
 今、八戒が言葉にのせて明け渡してくれた想いを、悟浄もまた返したいと、そう思うから。
 だから。
 好き、と。大好きだと。互いに言葉というかたちする。
 愛しく思うからこそ。後悔はしたくないから。



 繰り返し繰り返し。互いの想いを伝え合うように。
 今だからこそ、伝えたい言葉を。
 今だからこそ、伝えられる言葉を。



 一晩中、飽きることなく。
 幾度も幾度も。
 溢れる想いごと――すべて。








FIN

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