個人レッスン




 食後にシャワーをあびて、身なりを整えた悟浄がひょいと居間をのぞくと、綿の長袖シャツにチノパンを身にまとった同居人が真剣な面持ちで食卓に向かっていた。
 見れば、食卓のうえに紙がめいっぱい広げられている。間違いなくアルバイト用の課題でも作成しているのだろう。三蔵から時折依頼される何でも屋という名の厄介ごと収拾係をするとき以外、悟浄の同居人たる八戒は、何件か掛け持ちで家庭教師のアルバイトをしていた。まともに勉強をしたことがない悟浄にはわかりかねるが、その仕事は毎回事前準備なるものが必要らしく、たいてい仕事前にこうして食卓で紙の山に埋もれていることが多かった。
 ただ、それは毎回夜――しかも夕食が終わってから見られる光景で、その時間に不在がちの悟浄が目にすることはあまりない。だから、八戒がまだ昼間からその作業をしていること自体めずらしいと言えた。
 いつもは何を考えているのかはかりかねる、いろいろな意味で悟浄をふりまわすことに長けている男が、いっさいの感情をそぎ落とした風情で机に向かっているさまに、悟浄はめずらしいものを見たとばかりに軽く瞠目した。ふと、その端整な横顔に軽くいたずら心のようなものがそそられたところで、ちいさく口の端をあげる。
「――なあ、それ、テストかなんか?」
 基本的に仕事の準備をしているであろう八戒に、悟浄が話しかけることはまずない。悟浄なりに空気を読んでいるつもりだからだ。しかし、いまは胸裏をよぎった好奇心という名のいたずら心のほうが勝った。それを悟られないよう、悟浄はいかにも自然なそぶりをよそおい、ひょいと上から彼の手許をのぞきこむ。
「ええ。ちょっと難しい試験を受けたいみたいなので、追加で課題を作成中です」
 話しかけた悟浄のほうは向かず、紙に目線を落としたままでいらえが返る。悟浄にはまったく理解不能な数字と記号の羅列が書かれたものが目に入り、悟浄はうへえと、これ見よがしに顔をしかめた。
「なんだかわかんねーけど、よくこんなんわかるな」
「貴方が毎日毎日夜になると無意識でやってることばかりなんですけどねぇ……」
 僕からすると、難解な統計学を素でこなせちゃう悟浄のほうがすごいですよ、と苦笑まじりの声音が戻ってきた。そういえば、以前にも悟浄は数学をきちんと勉強すれば八戒よりもできるようになるはず、と眼前の青年から言われたことがある。そのときは気のない返事をした覚えしかないが、このわけのわからない数字や記号と対峙しないといけないのであれば、いくら才能があろうとも自分には無理だな、と悟浄はその点だけはやけに冷静な頭で結論づけた。
 だが、それよりも。
「すげー気になンだけどさ」
「はい?」
「カテキョー行って、他のお勉強しようとか言われたりしねえの?」
「…………はい?」
「センセー! オトナの、」
「馬鹿ですかいや馬鹿なんですねそういえばエロ河童でした貴方」
 悟浄の物言いに一瞬固まった八戒だったが、すぐさま怒気もあらわな笑顔を向けてきた。背後にどす黒いオーラが見えるのは悟浄の気のせいではないはずだ。
「だってよ、カテキョーってガキとふたりっきりなんだろ? 八戒センセーとイイことしたくなるヤツもいるんじゃねぇの?」
「AVの見すぎですよ。それか溜まってるんじゃないですか?」
 なおも言いつのる悟浄を容赦なく一刀両断し、うろんな視線をなげてきた。
「からかうだけならあっちに行ってください。僕は忙しいんです」
 悟浄を追い払うように手振りで示される。悟浄はひるむことなく、彼から見て左隣りの椅子に腰をおろした。横並びになったところで、そろりと八戒の左腿のうえを撫でる。布越しに触れた男のそこはけして柔らかくはなかったが、さわり心地はとてもいい。悟浄からのふいうちのそれに痩身がわかりやすく跳ねあがった。
「悟浄……!」
 わずかに白皙の貌を赤く染め、同じ目線の高さになった八戒がとがめるように己の名を口にする。思惑通りの反応に、悟浄はにやりと唇をつりあげた。普段はとりすました格好を崩さない男が見せる、ふいうちの表情が見たかったのだ。それも自分が仕掛けたことで。
 そこまで思案して、悟浄はぴたりと動きを止めた。おもむろに、八戒の腿のうえに置いたままの自分の手を見つめる。そして、ふいにこみあげてきた感情に、たまらず顔を紅潮させて空いたほうの手で口許をおおい隠した。
(――ダセェ……!)
 つまりは、自分のほうをまったく見ていなかった彼――八戒の意識を向けさせたいと思って動いた、それこそ無意識にした行動だと気づいたら、どうにもいたたまれなくなった。悟浄のおこないのほうがよほどガキっぽいではないか。どうよ俺、と内心で頭を抱えながら、悟浄は決まり悪げに八戒から顔をそらした。
 悟浄の態度が変わったことに気づいたらしい八戒が、今度は横からのぞきこんでくる。それまで手にしていた鉛筆を机に置くと、自らの腿のうえにあった悟浄の手に左掌を重ねてきた。まさかそうくるとは思わず、悟浄の肩が大きく跳ねる。
「――八戒っ!?」
「オトナの勉強でもしましょうか、悟浄クン?」
 わざと上目使いで、翠眼をゆったりと細めつつ、婉然とほほえむ。悟浄の劣情をあおるように、あえて見せつけるように。
 これではかえって悟浄のほうがうろたえるしかなくて、その動揺をごまかすように、目許を赤らめたまま軽く睨みつける。
「…………わざとだろてめぇ」
「先に仕掛けてきたのは悟浄ですよ?」
 変なところで照れたり焦ったりしますよね貴方、とからかいまじりに言われ、八戒から倍返しで反撃をくらった気分になった。どこまでも食えない男である。もちろん、そんなところも込みで彼に惚れているのだから、悟浄のほうも大概だった。
 とはいえ、このままやられっぱなしでは性にあわない。
 だから。
「八戒センセー、そういうお勉強ならしたいです!」
 せっかく八戒が乗ってくれたのだ。このチャンスをふいにする気はさらさらなかった。この流れのまま、生徒のふりをしてあけすけな誘いをかける。
「まったく……貴方ってひとは」
 真昼間からなにをやってるんだか、とあきれまじりにつぶやきながらも、八戒はしなやかな双腕をあげて、悟浄の肩へとのばしてくる。そのまま互いの距離が縮まったところで、授業開始の合図となるキスをかわした。






 ――ふたりだけの秘密の勉強時間のはじまりだった。








FIN

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