Kissing




  それは特別なシルシ。
  あなたをいとしく想うからこそ、もっともっと、その身に刻み付けたい愛のシルシ。




 突然、浴室の扉が派手に開かれた音に、それまでベッドヘッドにもたれ掛かりぼんやりと煙草を吸っていた悟浄は、弾かれたように顔をあげた。
 そこには、それまでシャワーを浴びていたはずの八戒がバスローブを纏っただけの姿で立っていた。そして、ひどく真剣な面持ちでまっすぐに悟浄へと向かってくる。そんな彼の様子にたじろぎながらも、悟浄は八戒から目が離せないままだった。
 八戒はあっという間に悟浄のところでやってくると、その勢いのままベッドに乗りあがった。八戒の勢いに押されて固まったままの悟浄の腰の上に、さらに馬乗りの姿勢で乗りあがるかたちとなる。
 自然とほんの少しだけ、悟浄よりも八戒のほうが目線が上になった。
 よく考えれば、この体勢はひどく悟浄をそそるもののはずなのだが――風呂上りの上気した肌がバスローブの胸元の合わせ目からちらりと覗くさまはとても淫靡だし、何より勢いづけて悟浄の腰上に跨ったせいか、八戒の下肢を覆う布がかなり肌蹴ており、すべらかな内股付近のきわどいところまでがめくれ上がっていた。いつもの悟浄ならば、そんな媚態を見せられてはいてもたってもいられず、絶対にそのまま襲い掛かっていること間違いなしであるはずのシチュエーションなのに。
 じぃっと真顔のまま己を見つめる八戒に、何事かとわけもなく焦る気持ちのほうが大きくて、悟浄はごくりと唾を飲み込んだ。
 そして悟浄もまた、無言でじっと――まさに目が据わった状態で見下ろしてくる彼を、窺うようにそろりと見上げた。
 ――ナニか、怒らせるようなコトでもしたか、俺?
 怒っているようにも見える八戒の態度に、悟浄は内心で首を傾げつつ、それまでの己の所業をかえりみる。
 確かに、つい先ほどまで、この男を好き放題していたことは認めよう。だが、今晩は明日の旅程も考えて一応手加減はしたつもりだし、現に八戒も自力でシャワーを浴びることが出来る程度の体力は残していたはず。
 そこまで考えていると、いきなり、それまで綿シャツを羽織っていただけで前は肌蹴た状態だった悟浄のそれを八戒の両手がしっかりと掴み、ぐいと布地を両側に引っ張った。
「は、八戒っ?!」
 あいかわらず真顔のまま、八戒は自らあらわにした悟浄の胸元をじっと見据えた。ふいにぼそりとつぶやく。
「……ない」
「はあ?」
 いったい八戒は何を言っているのか。
 その当の本人は伏せていた白い面をほんの少しあげて、今度は少しだけ高い位置から悟浄の顔を見下ろした。
「何って、キスマークですよ」
「キスマークって……いきなりどーしたんだよ?」
 ますます意味が判らない。
 悟浄がさらに疑問符を飛ばすと、八戒はようやく、その口許にうっすらと笑みを刷いた。けれど、翠の双眸は笑ってはいない。
 悟浄は胡乱げに眼前の男を見つめた。
「だから、貴方にはほとんどついていないじゃないですか」
「……ああ」
 ――確かに。
 八戒の指摘に、悟浄は納得とばかりに首を縦にふった。
 先ほどの情事の最中に、悟浄は八戒へとしっかり愛咬の痕をその柔肌に残しまくった。女と違ってすぐには痕が浮かびあがらないから、きつく強く、そのなめらかな肌の上に夢中になって所有印を刻むのが悟浄は好きだった。だから、八戒の身体にはたいてい、キスマークがどこかしらに残っている。完全に消えてしまう前に、必ず悟浄がまた、己そのもののような色で浮かびあがってくる紅の印を、彼の身体に刻み付けるから。
 対して、八戒が自ら悟浄へとキスマークを残すことは滅多にないから――そんな余裕を与えないくらい悟浄の愛撫に溺れさせているのもあるが――、悟浄の身体にはその愛痕はほぼ皆無と言っていい。それを指して八戒が口にしたのは判る、けれども。
「俺についてないのが気に入らねえ?」
 とはいえ、八戒がどうして今、いきなりそのことを言い出したのかさっぱり判らなくて、悟浄は彼の右頬へとそっと手を伸ばした。かたちよい頬のラインをゆるゆるとたどれば、八戒の唇からかすかな吐息が零れる。
「そうですね。――僕が、貴方にちゃんとつけたことって、そういえばないな。と思ったらなんだか不公平だなあって思ったんですよ」
 くすりと、わずかに唇をつりあげて。八戒は目を細めながら、まるで内緒ごとを伝えるかのようにひっそりとささやく。この表情を目の当たりにして、悟浄は思わず目を瞠った。
「……シャワーを浴びながら、ンな色っぽいコト考えてたの?」
「そうですね。シャワーを浴びている時にふと自分の身体に残る痕を見たら、悟浄はどうだろうって……そう思ったらいてもたってもいられなくなって」
 ゆったりと口の端をあげて微笑む八戒の笑顔が、悟浄の瞳にどうしようもなくあでやかに映る。悟浄を煽る、艶を帯びた微笑。
 どくりと、悟浄の鼓動が激しく脈打った。かっと全身が熱くなる。
 ……あいかわらず、不意打ちで胸にクるようなことをさらりと吐くのだから、始末に終えない。
 自分にかなり都合よく出来ている悟浄にとって、これはどう聞いても彼からの判りやすい誘い文句にしか聞こえない。悟浄はふと、にやりと唇をつりあげた。頬に触れていた手を下ろして八戒の右手を取り、その手首の内側にわざと痕が残るほどのキスを落とす。
「……っ」
「なんだったら、さ」
 少しの触れ合いでも煽られるのか、まだ先刻の情交の余韻が残る痩躯が小さく震える。触れ合う細腰さえももどかしげに揺れるのに気をよくして、悟浄は空いたほうの手でなだめるようにいやらしい手付きで腰を撫で上げると、敏感な身体が判りやすく跳ねあがった。
「……ちょっ……と、悟浄」
 悩ましげに眉根を寄せて甘い抗議の声をあげる八戒の表情に、悟浄の熱が昂ぶる。
 悟浄はにやにやと口許を緩めたまま、もう一度同じ場所に口づけた。そしてわざと、しっかりと痕が残るように吸いあげる。
 この男が、自分のものだという目に見える所有印を、その身に刻み付けるためのものを。
 たまらずといった風情で、八戒の唇から深いため息が零れ落ちた。そんな自分の反応に恥らうように、きゅっと下唇を噛み締める。
「――悟、浄っ」
「こんなふうに、お前も俺に痕、つけてみる?」
 誘うように上目遣いで見上げれば、八戒は一瞬、ほんのわずかだけ瞠目した。だが、すぐに艶やかに笑み崩れつつ、そっと悟浄の逞しい首筋に左手を伸ばした。
「……こことか、ですか?」
「もちろん。――八戒が好きなトコ、どこでもどうぞ?」
 細くてしなやかな彼の指先が、そろそろと悟浄の首筋を這う。その心地よさにうっとりと紅眼を細めつつ、悟浄はわざとらしく、八戒の首に自ら残したキスマークへと指先を這わせた。
 そうして、互いに顔を見合わせて、くすくすと愉しげに笑みを漏らす。
「それでは……遠慮なく」
 そう言って、八戒はその姿勢のまま悟浄の肩を掴むと、悟浄をベッドの上へと押し倒した。悟浄の腰に乗りあがったまま上体を曲げて、その首許に唇を寄せる。途端、そこに走ったかすかな痛みに、悟浄はわずかに眉宇をしかめた。けれど、それがいくつもいくつも増えるごとに、胸奥に甘い痺れすら湧き上がってくる。
「……八戒、イイぜ……」
 噛み付くように、荒々しい仕種で鎖骨の辺りに唇を寄せる八戒の濃茶の髪をくしゃりと掻き回せば、なだらかな稜線を描く背がひくりとわなないた。さらに、バスローブの合わせ目から両手を差し込み、うすい両の肩をあらわにして円を描くように撫でると、もっとと云わんばかりに柳腰も揺れる。
「悟浄……、」
 深いため息を漏らしながら、それでも八戒は悟浄へキスマークを残す行為に余念がない。
 ――こうしたかたちで、この男から向けられる貪欲なまでの独占欲がひどく心地よくて。
 しっかりと愛咬の痕を刻みながら、次第に己の下腹部へと向かう八戒の姿を視界に捉え、悟浄はひっそりと笑った。


 そう――せっかくなら、一方的ではなく。
 この想いごとすべて、互いに与え合うほうがいい。
 この胸にうずまく言葉に出来ない想いごと、その身体にストレートに伝えるためにも。


 胸中でひそやかにつぶやきつつ、悟浄はそろりと、下肢へと夢中でキスを施している八戒へと手を伸ばした。
 同じように、悟浄にとっての特別に向けて、もっともっと想いの印を刻むために。





 ――この、特別なシルシで、あなたをずっと縛り付けていられるのなら。








FIN

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