そばにいるね




「――ダイジョーブ、か?」
 おそるおそる、といった態度で、悟浄がそっと八戒の部屋のドアを開ける。
 常の悟浄からは想像もつかないほどの小声で、ドアの隙間から窺うように室内を見やれば、淡い陽光が窓越しに差し込む中、当の八戒がベッドに横たわっていた。
 明らかに日中だというのに、彼――八戒がベッドに臥せっているのには理由がある。
 それは、つまり――
「……大丈夫じゃないです……」
 横たわったまま、八戒は唇だけを気だるげに動かした。
 その声音はとても悄然としたもので、普段の彼のすこぶる丈夫な様を知る者として、心配な心持ちと同時に戸惑いを覚えずにはいられない。
 それもそのはず。八戒と同居生活を営んで数年目にして、彼が風邪をひいて寝込む姿を初めて目の当たりにしたからだ。
 彼と同居を始めた当初は、天候の変化といったささいな事象をきっかけに、精神的な不安定さから体調を崩して寝込むことも間々あった。だが、悟浄との関係がしだいにより親密なものへと変化していくのと同時に、情緒不安定な面もなりを潜めてきたせいか、八戒がわかりやすく調子を崩すこともほとんど見られなくなっていた。何より、健康面ではいたって丈夫な体質らしく、八戒が病気で倒れることなど皆無だったのだ。
 ――鬼の霍乱とは、まさにいまの彼の状況を指すのだろうか。と、八戒に知られたら即座にぶっ飛ばされそうなことを思いつつ、悟浄はそろりと室内に足を踏み入れた。
 横たわる八戒から目がそらせないまま、悟浄にしては神妙な足取りで近づいていく。
 ベッド脇にたどりつき、悟浄はどんな表情をしたらよいのかわからないまま、無言で青年の白貌を見下ろした。
「……」
 陽光の下なのに、白皙の面がよりいっそう蒼白く見える。そんな中うっすらと唇を開いて苦しげに息を吐き、両の頬だけが不自然に紅潮している様が、彼の不調を如実に物語っていた。間違いなく発熱しているのだろう。白い額にはうっすらと汗がにじんでいる。
 同居人の病状をこれだけ間近で目の当たりにしても、悟浄はいまだもって困惑していた。そう――何をどうしたらよいのか、何もかもがわからなくて困惑していたのだった。
 今までおのれにとって身近な存在が、こんなふうに風邪をひいたことなど一度もなかった。当然、悟浄自身も風邪をひいたことはなかった――と思っているだけで本当はそうだった可能性も捨てきれないこともあったが――から、風邪をひいている相手に対し、どのように接したらよいのか、皆目見当がつかないだけなのだ。
 悟浄の迷いは、どうやら八戒に伝わってしまったらしい。明らかに様子のおかしい悟浄に気づいた八戒が、それまで閉じていた翠の双眸をそっと開いた。
 熱で充血しているのか、少し潤んでみえる瞳でもって、ひた、と悟浄を見上げる。
「……どうしたんですか?」
 八戒は微苦笑を浮かべて、やさしく問い掛ける。
 彼からの問い掛けに、悟浄はびくりと肩を揺らした。おのれの動揺や困惑を見透かされたのかと思えば、決まり悪さが胸裏をよぎる。だが、八戒と目があった途端、ふいに安堵を覚えた。
 ――大丈夫、なのだと。
 その思いがすとんと悟浄の胸中に落ちてきた途端、知らずため息をついていた。つめていた息をゆるゆると吐き出してから、漸う口の端をゆったりともち上げる。
「いや……どうしたらイイのか、わかんなかっただけ」
 病人なんて看病したことねえし、とうそぶけば、八戒は小さくほほえんだ。
「どうにかしてくれるつもりだったんですか?」
「珍しくお前が弱ってるからさ、どうにかしたほうがいいのかなーって思ったんだよ」
「……貴方にしては、殊勝な心がけですねえ……」
 息苦しそうでありながら、それでも減らず口はよどみなくあふれるようだ。
 どこまでも八戒らしい物言いに内心で苦笑しつつ、悟浄は唇を尖らせた。
「仕方ねえじゃん。俺は健康優良児だからさ、風邪なんざひいたことないし」
 悟浄らしいですねえ、と八戒は口許に笑みをたたえながらつぶやいた。それまで仰臥していた身体をわずかに左向きに倒して、悟浄を斜め上方に見つめる。
「僕も、風邪をひいたのは……かれこれ20年近くぶりですよ。孤児院のとき以来……かな」
「……へえ」
 どこか遠くを見ているような眼差しで語る八戒を、悟浄は神妙な面持ちで見つめ返した。
 そんな悟浄の視線に気づいているのかいないのか、八戒はわずかに目を伏せる。
「あの頃は、誰もいない共同の広い寝室でひとりで寝ていて……シスターは僕まで手が回らないし、様子を見にきてくれるような友達もいなかったし。……強がってはいたけど、ひとりでいることがすっごく心細かったことだけは覚えてるんですよねえ……」
 懐かしむ口調でありながら、どこか自嘲ぎみに八戒は嗤った。それは、時折彼が見せる憂愁を帯びた痛々しい笑みだった。その微笑を目の当たりにして、悟浄は八戒に気づかれないよう、小さく息を呑む。
 眼下の青年が、ひどく小さな子供に見える。例えそれが錯覚だとわかってはいても。
 そして、この台詞から、いまの八戒に対して自分は何ができるのか、その答えのヒントがあるような気がした。けれど、その何かは悟浄の胸中に漠然と浮かぶばかりで、具体的にどうしたらいいのかがやはり見えないままで。
「――なあ、」
 たまりかねて悟浄を口を開きかけたそのとき、突然八戒が激しく咳き込んだ。肩を揺らしながら苦しげに咳をする八戒へと、悟浄は慌てて長身を屈めた。なおも咳き込んでいる彼のうすい背を、なだめるように撫でさする。
「お、おい、ダイジョーブかよ」
「……は……っ、ありがとう……ございます」
 ようやく収まった咳の代わりに、肺に大きく息を吸い込んで、八戒は深々と嘆息した。明らかな容態の変化は、もしかしなくてもおのれの来訪のせいではないか。そう思った悟浄はすぐさま八戒から身を離して再び起立した。
「ワリ。……寝てろ、もう」
 そう言い置いて、彼の部屋から早々に立ち去ろうと悟浄が踵を返し掛けたその刹那。
「――待って」
 引き止めるようなその響きは、ひどく鮮明に悟浄へと届いた。
 その声は、悟浄の背中へとまっすぐに、届いた。
 悟浄は彼に見せた背中をそのまま反転させて、再びベッド上に横臥した八戒を無言で見つめた。途端、悟浄をずっと目で追っていたらしい八戒と視線が交錯する。
 ほんの一瞬、彼の唇がためらうように震えたのが見えた。だが、熱で渇いた唇が意を決したようにゆっくりと開く。
「行かないで、……ください」
 ここにいて、と珍しく自分の望みをストレートに明かした八戒に、悟浄は思わず目を瞠った。こんなふうにわかりやすく甘える彼は本当に珍しかった。
 それはひとえに風邪で体調が芳しくないからこそかいま見える、彼のほんの小さな弱さかもしれなかった。
 しかし、これこそがいまの自分にできる――いや、悟浄にしかできないこと。
 悟浄だからこそ、いまの八戒にならしてやることができる、一番大切なことかもしれない。
 悟浄はふいに、ゆっくりと唇端を上げた。それまで瞠目したまま凝視していた彼に向かい、安心させるような笑みを刷いてみせる。
「ああ、――そばにいてやるから」
 そう言って、悟浄はベッド端にそっと腰を下ろした。そして、大きな左手を八戒の右頬へと伸ばして、熱を帯びた肌をなだめるように指先で撫でる。
 このまま寝ろよ、とささやけば、八戒は心底安堵したように長い吐息を洩らした。ゆっくりと翠眼を細めつつ、おのれの頬に掛かる悟浄の掌に、自らの右手を添える。
「ありがとう、ございます……――」
 そのまま瞳を閉じて、八戒はかすかにほほえんだ。悟浄のぬくもりが何よりも安心できるのだと云わんばかりに笑みに、悟浄も胸裏にもあたたかいものがよぎる。
 いままで感じたことのない、不可思議な気持ち。
 だけど、全然悪くない。むしろ、ささやかながらひどく満たされた心地さえ覚える。それは八戒に出会う前は決して持ち得なかった想いそのものだった。
 八戒が風邪をひいたとわかったときには、正直困惑と心配しかなかった。だが、それでもこうした気持ちになれるのならたまにならいいか、と現金な自分に笑うしかなくて。
「……悟浄?」
 小さく喉を震わせて笑う悟浄をいぶかしんでか、眼下の八戒がうっすらと瞼を押し上げようとする。それを悟浄は笑顔で制した。そのまま上体を屈めて、彼の鼻先になだめるようなキスを落とす。
「そばにいるから……もう寝ろ」
 そして、耳許に唇を寄せて甘くささやけば、八戒は再び瞳を閉じる。
「……はい」
 悟浄へと己が身を委ねるように眠りにおちた八戒をいとおしく思いながら、悟浄は募る想いのままに彼の唇にそっと口づけた。





 必要としてくれるなら、いつだって。
 ――どんなときでも、そばに、いるから。








FIN

inserted by FC2 system