HUSH-A-BYE-BABY




 かすかな物音が、ふと脳内に届いた。
 その音を掬い上げたことにより、沈んでいた意識が眠りの底から浮かび上がるように覚醒する。
 八戒は重たい瞼をゆるゆると押し上げた。
 まず視界に映ったのは、真っ白なシーツ。そこに刻まれたシーツの波間から、つい先程までひとがいたことを思わせる。
 この光景を見ても、すぐには今、自分がおかれている状況が思い出せない。
 目覚めきってはいない頭で、八戒はぼんやりと、こうなる前のおのれの行動を顧みた。確か、久しぶりに雨風しのげる宿で、これまた久しぶりに四人ひと部屋ではなく、二人部屋が二つ取れた。そうして、久しぶりに悟浄とふたりきりになれて、そのまま身体を思う存分に重ね合って――
 ここまで思い出して、八戒はわずかに頬を紅潮させた。
 昨晩のおのれの嬌態を思い出したら、赤面せずにはいられなかった。昨晩は何度も何度も、彼を欲しがった。それだけ悟浄に飢えていた自覚はある。悟浄もまた、八戒を際限なく欲しがってくれたから、それこそ体力の限りを尽くして互いを貪り合った。
 いくら久々に、誰彼はばかることなくふたりだけの時間がもてたとはいえ、少々いきすぎていたのではないか。それくらい、すべてをさらけだして、ぬくもりを求め合う行為にのめり込んでいた。しかもほぼ一晩中。
 もう何度目かわからなくなっていた絶頂を極め、そこから先の記憶が八戒にはなかった。つまりは途中で意識をとばしてしまったらしい。ここまで激しいセックスは、それこそ久しぶりだった。
 そして、今。全裸のままシーツにくるまっていた自らの状態を、八戒はじっと横たわったままで確認する。
 あれだけいろいろな体液にまみれていたはずの身体とシーツが綺麗になっている。ということは、八戒が意識をなくした後、悟浄が整えたのだろう。その後、悟浄とともに、このベッドで眠りについていたということか。
 ふいに、横向きの姿勢で寝転んだまま、小さく目を瞠った。
 視界は夜の闇ではなく、すでに明るい。
 そして、悟浄が、横にいない。
(今、――何時だろうか)
 時計が見たい。落ち着かない心地のまま、八戒は身じろいだ。
「――目、覚ましたのか」
 頭上から降ってきた男の声に、八戒はわずかに肩を揺らした。
 シーツをまとったまま、その声がしたほうへと身体を反転させる。
「……悟浄」
 ベッドのすぐそばに窓があり、そこにかかっているカーテンを手にした悟浄が、見事な裸体を隠しもしないで立っていた。
 どうやら、覚醒のきっかけとなった物音は、悟浄が起き出したことによるものだったようだ。
 悟浄は音をたてないようにカーテンを引きながら、八戒に向かい笑いかける。
「はよ。……起こしちまったか、ワリ」
「……おはようございます」
 昨夜さんざん声をあげすぎたのか、八戒の声はひどくかすれていた。悟浄は微苦笑を浮かべると、ゆっくりとベッドに近づいた。まだどこか焦点のあわない瞳を向ける八戒へ、そっと、やさしいキスを落とした。
「まだ早いからお前は寝てろ」
 そう言って、悟浄はまっすぐに浴室へと消えた。
 その後ろ姿の軌跡を追うように、八戒はぼんやりと浴室の扉を見つめていた。そうしている間に、その扉の向こうから水音が聞こえてくる。
 なかなか意識がしっかりと浮上してこないのは、おそらく寝不足だからだろうか。断続的に聞こえる水音をなにとはなしに耳に流し込みながら、八戒はそろりと息を吐いた。ごろん、と寝返りを打ち、仰向けの姿勢になる。
 古びた天井を視界に入れて、八戒は先程目にした悟浄を思い出す。
 同性として羨むほどに、綺麗な肢体。
 無駄な肉ひとつもない、鍛え上げられた筋肉におおわれた均整のとれた肉体。しなやかで張りのある見事な体躯は、朝日のもとでなお瑞々しく映えて美しかった。
 悟浄はいつも八戒の身体のことを綺麗だと言うけれど。
 八戒から見れば、悟浄のほうが余程綺麗だと思う。嫉妬すら覚えるほど。
 そして、昨夜もあの綺麗な身体が、八戒に覆い被さり、八戒をいいように翻弄して――
 そこまで思い出し、八戒は再び赤面した。わずかに上がった体温をなだめるよう、軽くため息を洩らす。余計なことまで思い出してしまったと、バツが悪げにもう一度嘆息した。
 それでも、まだ覚醒しきれない。
 まだ身体が睡眠を欲しているようだ。今の時間を確認できていないけれど、悟浄の言葉に甘えて、このまま寝てしまおうか、そう思っていた時だった。
 浴室の扉が開く。そこからタンクトップとジーンズに着替えた悟浄が姿をあらわした。
 すっかり起きている彼の様子に、八戒の脳裏をある疑問がよぎる。
「なんだよ、寝てなかったのか」
「悟浄」
 今度は少しだけしっかりした声音になった。
 悟浄は濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、八戒に近づく。
「ン?」
「……まだ早いと言っておきながら、……なんで貴方は起きてるんです?」
 そう。
 常ならば、八戒よりも悟浄のほうがずっと寝汚い。朝も、可能な限り惰眠を貪るのは悟浄のほう。さらに一夜をともにした時は、八戒がどんなに嫌がってもできる限り同じベッドで八戒を腕に抱いたまま寝続けようとする彼が、自分から朝早くに起き出すなど本当に珍しい。
 いったい何の思惑があるのか。その疑問をそのまま口にのせれば、悟浄は目を丸くした。
「覚えてねえの?」
「え?」
 悟浄はふと手を止めて、意外そうに八戒を見つめた。
 八戒もまた、思ってもなかった悟浄の反応に、小さく瞠目する。
「……昨日、起きてから俺が荷物の片付けをするってのが条件で、お前、好きなだけさせてくれたっつーか……」
 覚えていないなら起きるんじゃなかった、と言いたげな口振りで、悟浄がつぶやく。
 八戒はわずかに目を瞬かせた。正直、実は覚えていなかった。おそらく相当快楽に流されている状態での口約束なのだろう。八戒はいたたまれない心地に、そっと息を吐き出した。
 それでも、八戒の約束を守ろうとしてくれている悟浄が微笑ましくて。
 八戒は、くすりと口許を緩ませた。くすくすと、花がほころぶように微笑む。
「……貴方にしては殊勝な心がけですね」
「そりゃ……またお前に家出されてもたまんねーし」
 照れ臭そうに明後日の方向を見つめる悟浄を、八戒はゆっくりと見上げた。
 ――大事にされている、と実感するのは、こういう時だ。
 約束を反古にした後の八戒の報復が怖いというのも多分にあるだろうが、それでもいつもなら八戒の仕事を朝早くからこうして引き受けてくれるのは、彼なりに気を使ってくれていると、そう思えるから。
 それなら、ここは思い切り悟浄に甘えさせてもらおう。そう思った八戒は、わずかに身じろぎながら、悟浄へと問い掛ける。
「悟浄、今……何時ですか?」
「えっと、五時、すぎ?」
 だからお前はもうちょっと寝とけ、と、ダメ押しのように言われて八戒は目を細めることで諾と返した。
「そしたらもう少し寝ようかな……」
「おう、寝とけ寝とけ」
 悟浄は長躯を屈めて、八戒の額に触れるだけの接吻を落とした。そして、覗き込むようにしてささやく。
「おやすみ――八戒」
 さらに、唇にもおやすみのキスが落ちる。
 まるで彼の体温そのものが子守唄のよう。
 そのあたたかさに身をゆだねるよう、八戒はそっと瞳を閉じた。そして、その双の瞼にも彼の唇が数回触れる。
「――おやすみ」
 その低く甘いささやき声すらも、心地よい子守唄のようで。
 八戒はひっそりと口許を緩めた。そのまま素直に沈みゆく意識に身をまかせる。
 バタン、と扉が閉まる音をぼんやりと意識の端で捉えながら、八戒はもう少しだけまどろむことにする。



 悟浄のあたたかさに包まれながら。
 もう少しだけ――今は、おやすみ。







FIN

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