How?




「――あの、悟浄」
 昨晩の帰宅時間もいつも通り午前様だった悟浄は、やはりいつも通り随分と遅い時間に起床して、それこそいつも通り、まず同居人のいる台所へと足を向けた。すると、いつもならにこやかな笑顔で朝の挨拶をしてくれるはずの同居人の口から漏れたいぶかしげな声音に、悟浄も思わず眉宇をしかめた。
「……あ、ナニ」
 まだ完全に覚醒しきれない頭で「ナンで八戒の奴、んな困ったよーなツラしてんだ?」と、悟浄は疑問符をとばす。八戒はますます困惑気味に眉根を下げると、これ見よがしにひとつ、ため息をついた。そして、じっと悟浄を見つめてくる。
「あのですねぇ。朝っぱらから、貴方宛に何やら随分と重い大量の荷物が届いたんですけど、……何ですかアレ」
 とりあえず受け取っておきましたけど、とため息まじりに八戒が指差した先にあったのは、決して広くはない玄関先に積み上げられた、大きなダンボール箱三箱分の荷物だった。それを目に留めた途端、ああ、と悟浄は相槌を打つ。
「お。もう届いたんだ。仕事早ぇーなあ、アイツ」
 ダンボール箱の中身が何か判っている悟浄は、にんまりと笑みを浮かべると、愉しげにその荷物の前まで足を運んだ。そして、そのうちのひとつを遠慮なく大胆に封切り始めた。そんな悟浄の様子に、八戒も悟浄の背後から箱の中身を覗いてみようとする。
「……お酒、ですか」
 背後から聞こえた八戒のつぶやきに、悟浄は振り向きざま、彼に向かい軽く片目をつむって見せた。そして、得意げな笑みを口元に刷く。
「そ。昨日の戦利品。酒屋相手にボロ勝ちしたのはよかったんだけどな。持ち合わせがないとかふざけたコトぬかすからよ。それなら、それ相応の量の酒を今日中にうちに届けるっつーからさ。まっさか、俺が寝てるうちに来ちまうとは思わなかったからさあ……。ナニ、これに驚いてたの?」
「驚きもしますよ。朝一番に、心当たりのない大量の荷物が届けられたら。置き場とかにも困るじゃないですか」
 八戒の呆れまじりの言葉に、悟浄はむっと顔をしかめる。
「わーるかったな、狭い家でよ。……ま、確かにこんなに配達されるとは思わなかったしなー。こーしてみると、すげー量」
「まったくですねぇ」
 二人は目の前にある大量の酒をあらためて眺め、それぞれ感嘆の息をつく。
 昨晩の悟浄の戦利品らしいそれは、一箱に大瓶の老酒がそれぞれ十本ずつ入っている。それが三箱ともなれば、結構な量で、――あまり家では酒を飲むことのない悟浄でも、これだけあれば下手をすると一年くらいはもちそうなくらいだ。これだけの量の酒、ドコに片しておけばいいんだ、と思った時、ふと脳裏をよぎった疑問に悟浄はちらりと斜め後ろにいる八戒を見やった。
 そういえば。
 八戒が悟浄とともに暮らし始めてから、早数ヶ月。その間、悟浄は、八戒と酒を呑んだこともなければ、彼が一人で酒を嗜んでいるところを見たこともなかった。
 ――とある好奇心が、悟浄の胸裡をかすめる。
「なあ、八戒」
 不意に、悟浄は八戒へと体ごと向き直り、意味ありげな視線を彼に向けた。
「せっかくだからさ、早速今晩にでも、この酒いっしょに呑まねぇ?」
「僕と、ですか?」
 悟浄の提案に、八戒は意外そうに小さく目を瞠った。
「そ。よく考えたら、俺たちいっしょに呑んだコトないし、いい機会じゃねぇ? お前も、ここへ来てから全然呑んでないだろ」
「ここへ来てからも何も、僕、今まで一度もお酒をまともに呑んだことないんですよ」
 苦笑を浮かべながら、信じられないようなことをさらりと言った八戒の顔を、悟浄は思わず凝視した。
「………………マジ?」
「だって、そーいう機会がなかったんですよねえ今まで。あ、まったく口にしたことがないわけじゃあないんですよ? でも、ワインを二口くらいかなあ」
 あはははは、と八戒は曖昧に笑みを刷いて、目を細めながら悟浄を見つめ返した。
「とにかく、悟浄、まずは顔を洗ってきたらどうです? いつまでも寝起きのままウロウロしているのもどうかと思いますよ」
「へいへい……」
 その寝起きの俺を呼び止めたのは八戒じゃないか、という悟浄の言い分は、賢明にも声には出さずにおく。ここは素直に八戒の言うとおりにしておいたほうがいいかと、悟浄はくしゃりと紅髪をかきあげながら、とりあえずは洗面所へと向かった。
 今は彼のはぐらかしにのってやったが、次は流してやらないからな、と胸中でつぶやきながら。




「だから、いっしょに呑もうぜ。八戒」
 食後の片付けを終えた八戒が一旦居間へと戻ってきたのを視界にとらえた途端、悟浄が再度誘いの言葉を口にする。先ほどはうまく八戒に受け流されてしまったが、今度ははぐらかされてやる気はなかった。それに、八戒はちらりと、緑の双眸を悟浄に向けてきた。
「……僕なんかと呑んでも、楽しいとは思えないんですけどねえ……」
「そんなの、呑んでみねぇと判んねーだろ? これだけの酒、どーせ俺ひとりで呑み切れるモンじゃねーし」
 悟浄の言葉に、八戒は諦めたように肩をすくめた。そして、深々とため息を漏らす。
「どうしてそんなに僕と呑みたがるのか、そっちのほうが気になりますよ。悟浄」
 悟浄の真意を見透かしたような八戒の問いかけに、悟浄はぴくりと、片眉だけを器用にはね上げた。だが、それを誤魔化すように、唇の端を上げてにやりと笑みを形づくる。
 ――それは、本当にただの好奇心だった。
 この、何を考えているのか判らない、いつも穏やかな笑みを絶やさない男が酔ったら、いったいどうなるのだろう――?
 普段の彼の姿からは、実際に目の前の男が泥酔してしまったらどうなるのか、悟浄には想像もつかなかった。しかも、今までまったく酒を呑んだことがないのなら、八戒自身ですら、その姿を知らない訳だ。だから、余計に見てみたいと、そう悟浄は思ったのだ。
 実際、自分でも、その感情が何に起因しているのか、よく判らないまま。
「ベツに? ただお前と呑んでみてぇだけ。初めてなら、うちで呑んだほうが、限界がきてもダイジョーブっしょ?」
「それはそうですけど……」
「なら決まり。早速今晩呑もうぜー」
 うきうきと本当に愉しげに言い切る悟浄に、八戒もようやく口元を緩めた。仕方がないですねぇと、苦笑めいた笑みを浮かべる。
「僕、初心者なんで、お手柔らかにお願いしますね」
「リョーカイ。じゃ、俺、先に出掛けてくるわ」
 悟浄は腰掛けたまま大きく伸びをしてから、ソファから立ち上がった。今晩八戒と酒を呑むなら、先に賭場へ顔を出しておこうと、椅子に掛けたままだった上着を取る。
 その時、ふと八戒と瞳が合った瞬間、彼はにこりと微笑んだ。しかし、その双眸の奥にかいま見えた、何か思うところのあるような感情の色に、悟浄は小さく息を呑む。だが、気づかないふりをして、黙って八戒に背を向ける。
 笑顔で送り出してくれる八戒の、どこか思わせぶりな視線を背中に感じながら、悟浄はそのまま家を出た。




 呑み比べをしようと言い出したのは、悟浄のほうだった。
 多分八戒は酒に強いだろうとなんとなく思った悟浄は、念のため二・三杯、彼の様子を見てからそう切り出した。八戒は少しだけ困ったように首を傾げ、目をしばたかせる。
「僕、確かお手柔らかに、とお願いしたはずですが?」
 確かに、初めてまともに酒を呑む人間に対して言うことではないだろう。だが、悟浄は、八戒なら大丈夫だろうと妙に確信していた。だから、意味ありげな笑みを口元に刻むと、グラスについだ老酒を呑み干した。
「お前、なんだか強そうじゃん。だから、ちょっと試してみねぇ? で、せっかくだから、ナンか賭けよーぜ」
「……いいですけど、それで何を賭けるんです?」
「そりゃ、こーいう時は『負けたほうが勝ったほうの言うことを何でもひとつだけきく』だろ」
 ニッと口の端を上げて、悟浄が机をはさんで正面に腰掛けている八戒を見据える。そんな悟浄の言葉に、八戒は深々と嘆息した。
「まったく、……貴方らしくて返す言葉もないですねえ…。判りました。その代わり、僕が勝ったら、ちゃんと悟浄も言うこときいて下さいね?」
「トーゼン。じゃ、先につぶれたほうが負けっつーコトで」
 空になっていた八戒と自分のグラスに酒を注いで、自分のほうのグラスを手に取り、乾杯、と八戒のグラスの縁を合わせる。小さくチン、と音をたてたそれを合図に、悟浄は一気に酒をあおった。度数の強いきつい酒特有の喉がちりちりと焼けるような感覚が悟浄を襲う。
 しかし。
 ナンで、こんなことになったのかねぇと、悟浄は胸中で一人ごちた。
 当初は、ただ八戒と普通に酒を呑むつもりだったのだ。だが、最初の八戒の呑みっぷりを見ていると、どうも想像以上に強そうだと、思った。そして、これでは、簡単には酔ってはくれないだろうとも。
 ならば、少し無茶な呑み方をしたほうがいいのかもしれないと。そうすれば、八戒の泥酔した姿が見れると、――そこまで考えて、悟浄はますます首を捻った。
 どうして、自分はそうまでしても、彼を酔わせたいのだ?
 八戒を酔わせて、その姿を見たいと――。
 目の前の男は、あいかわらず穏やかな笑顔を白皙の貌に貼りつかせたまま、とても初心者とは思えないペースで、まるで水を飲むかのように老酒をあおっている。気がつけば、二人の横に空になった酒瓶が二本立てられていて、八戒が三本目の老酒の瓶に手を伸ばしたのを視界の端に捉え、悟浄は少しくらくらし始めた頭を一振りした。
 老酒は結構に強くてきつい酒だ。しかも、酒屋が送ってきたコレは、その中でも相当アルコール度数の高いかなりいい酒だった。普段、賭場で酒を呑み慣れている悟浄ですら、めったにお目にかかれないほどの。
 なのに、八戒は顔色ひとつも変えずに、淡々とその老酒を飲み干していく。さすがの悟浄も、これだけの強い酒を前に、少々回ってきたかもと思っているのに、だ。
(こいつ、もしかしてうわばみってヤツ……?)
 悟浄は、思わず信じられないものを見るような目付きで、眼前の彼を見た。その視線に気づいて、八戒も口元にあわい笑みを浮かべながら悟浄を見つめ返してくる。
「何ですか、悟浄?」
 やはりというかなんというか、八戒の口調もまだまだいつもと変わりはない。あれだけ大量の酒を呑んでいるとは思えないほど、その口調は嫌味なくらいはっきりとしていた。悟浄は手にしていたグラスを一旦机の上に置く。
「お前、……全然酔ってなさそーだな、と思ってよ」
「そうですねぇ……。別に特に変わった様子はないですよ。まあ、おいしいとは思いますけどね」
 涼しい顔でそう言い切られ、悟浄はうんざりと眉宇をひそめた。悟浄のほうはといえば、既に酒をおいしいと思える状態ではなく、どちらかというと舌の感覚が麻痺して味が判らなくなってきている頃合だった。このままでは、八戒が急に撃沈でもしない限りは、悟浄に勝ち目はないだろう。
 そんな悟浄の状態に気づいているのか、八戒も手にしていたグラスを静かに机に置いた。そして、うすく微笑みながら、悟浄を見つめた。
「もう、止めませんか。この勝負」
「……ナンで」
「このまま続けても、多分、結果は見えてますよ? それなら、」
「ダメ」
 八戒からの提案をはねのけるように、悟浄が言葉の途中で口を挟んだ。
「まだ勝負はついてないだろー? 俺が絶対勝って、八戒に言うこときいてもらうの」
 そう、だから、例え先の見えた勝負でも止めるわけにはいかない。
 もしかしたら、この後すぐに八戒がつぶれるかもしれないし、と悟浄は少し焦点が合わなくなり始めた思考を必死でかき集めながら思った。
 悟浄のなかで、いつのまにか「八戒の酔った姿を見たい」から、「八戒に言うことをきいてもらいたい」に望むことがすり替っていたことに気づけないまま。
「悟浄、……もしかして、もう酔ってます?」
「ンなわけねぇだろ。俺はまだまだイけるぜ?」
「酔っ払いって、必ずそう言うと、どこかで聞いたことがありますけど……」
「酔ってなんかねぇって。ホラ、」
 いぶかしげな視線を向けてくる八戒を一睨みして、悟浄は手酌でグラスに酒をそそぐと、一気にすべてを呑み切った。さすがにこの状態で一気に呑み干すと、頭の芯が鈍い痛みを覚える。ちょっとヤバいかも、と悟浄はため息を吐きつつ、八戒の空いたグラスにもなみなみと老酒をそそいだ。
「お前も呑め」
「いったい、何をそんなに僕にさせたいんですか、貴方」
 八戒は苦笑しながらも、悟浄のついだ酒をゆっくりとしたペースで呑んでいく。その、上下する彼の喉仏に、なぜかなまめかしさを感じて、そこで悟浄は不意に我に返った。
 そう。
 こうもむきになって勝負を続けるほど、――そうまでして、自分は、八戒に何をさせたかったのだろう?
 そう思った刹那、ふと悟浄の脳裏をよぎった望みに、一瞬にして頭の芯に氷のかたまりが詰められたような、奇妙な失墜感が襲ってくる。
(――俺のモンになって)
 今、自分は何を望んだ?
 はっきり、八戒が欲しいと、そう思った自分に、悟浄はまさに冷水を浴びせられたような気分になった。一瞬にして酔いから醒めてしまったような気さえする。
 今までわざと考えないようにしていたこの感情をつきつけられたような気分に、悟浄はじっと手元のグラスに視線を落とした。
 なんてコトはない。彼の酔った姿が見たいなどという思いも、いうなれば起因する感情の端は同じなのだ。酔えば、いつもとりすました顔をした男の本音が聞き出せるのではないかと、そう思った。だから、酔わたいと思った。
 結局のところ、自分は八戒をそういう意味で知りたいし触れたいし欲しいと、そういうコトなのだ。 悟浄はようやく自覚させられた想いに、くくっと自嘲ぎみに肩を揺らした。
「悟浄?」
 急にひとりで嗤い始めた悟浄を、八戒が怪訝そうに眺めた。くつくつと喉を鳴らしながら、悟浄はうっすらと笑みを刷く。
「それは俺が勝ってからのお楽しみっつーコトで」
 もしも、本当に悟浄がこの勝負に勝って。
 お前が欲しいと告げたなら、八戒はなんと答えるのだろう――?
「判りました。はっきり勝負がつくまで呑みましょう」
 ため息まじりにつぶやかれた八戒の言葉に、悟浄は笑みを深め、さらに酒瓶へと手を伸ばした。
 勝負など、終わってみなければ判らない。たとえ、今はどうみても悟浄のほうが分が悪いが、このあとすぐに立場が逆転する可能性もあるわけだから。
「そーそー。ちゃんと白黒つけないと、な」
 今、ようやく自覚したこの想いにも。
 悟浄は再び酒を口にしながら、こっそりと唇の端を上げた。自分でもどうしていいのか判らない、この感情を持て余したままで。




「……悟浄……?」
 とうとう机の上に突っ伏してしまった悟浄へと、八戒はおそるおそる声をかけた。
 だが、悟浄から返ってくるのは規則正しい呼吸音だけで、八戒は仕方ないとため息をつきつつ、肩をすくめる。
 結局、勝負の結果は見ての通りで、悟浄が見事につぶれたというのに八戒は顔色ひとつ変わっていない。悟浄と二人で老酒を五本近く開けたというのに、八戒の体に特に変化は見られなかった。多分、自分は強いだろうなと、八戒自身思ってはいたが、まさかここまでとは。
 悟浄も、普段から呑み慣れているせいか、かなり酒には強いほうだと思う。その悟浄がつぶれても、なおも平気な自分は相当すごいらしいですねぇと、八戒はまるで他人事のようにひとりごちた。
 そして、ゆっくりと目の前の悟浄に視線を向ける。
 いったい、彼はああまでむきになるほど、自分に何をさせたかったのだろう。
 八戒はそろりと悟浄の生え際に手を伸ばすと、そっと細く長い指でいとおしげに撫であげた。
 ひとの気配に敏感な悟浄は、普段ならこんなふうに例え八戒の前でも、無防備に寝姿をさらしたりはしない。ましてや、こうして今みたいに触れようものなら、ものすごい勢いでその手をはねのけるだろう。それくらい、彼は警戒心の強い生き物だった。
 そんな悟浄が、こんなふうに八戒の好きに触れることが出来るくらい泥酔しているのかと思うと、八戒は少し複雑な気分になった。そう。こんな時だからこその、無防備な姿。無防備な寝顔。
 でも、きっと、こんな彼を見ることが出来るのは、自分だけではない。
「ねえ、悟浄」
 八戒は、うっすらと曖昧な笑みを浮かべながら、そっと悟浄のすべらかな深紅の髪へと指を這わせた。
「結局、僕が勝っちゃいましたけど、――本当に僕の言うことをきいてくれますか」
 悟浄にひとつだけ言うことをきいてもらえるのなら。
 ――僕だけのものになって下さい、と。
 そう、告げたら、悟浄はどうするのだろう?
 八戒はくつりと自嘲しながら、そっと彼の紅髪を一房手に掬い上げ、ふわりと口づけを落とした。
 そんなことを言えるわけがない。そう、判ってはいるけれど、それが今の八戒が、一番欲しいもの。
 だから、八戒は、今は眼前で眠る彼にだからこそ、その願いをささやく。
 目を醒ましている悟浄には、決してささやくことの出来ない、その想いを。


「貴方を、下さい」


 そのささやきは、闇の静けさにすべてかき消されるけれど、それでもいいと、八戒は思った。








FIN

inserted by FC2 system