抱きしめたい




 抱きしめたいひとがいるということ。
 抱きしめてくれるひとがいるということ。





 先に夕飯に行くからと、廊下で待つ三蔵とともに悟空が嬉しげに部屋から飛び出した途端、悟浄は待っていましたとばかりに、荷物の片付けをしている八戒を背後からぎゅっと抱きしめた。
「――悟浄、」
 間髪入れずに、作業の邪魔をされた八戒から抗議の声が上がるのを、悟浄は気にせずさらに無言で抱きしめる力を強くした。そんな悟浄の態度に、八戒も呆れまじりのため息をつきつつ、ふ、と躯の力を抜いた。そして、背後の悟浄に向けて、少し強めにこつんと頭をぶつけてくる。それは勢いづいたせいか、悟浄の額に結構な痛さをもたらした。
「いってぇ! ナニすんだよ、お前」
 額直撃の痛みに、悟浄は左手で痛いところをさすりながら、それでも右腕は八戒の躯にまわしたままだった。どうやら力技に訴えても離さない悟浄に諦めたのか、八戒は再度深々とため息をついて、そろりと肩越しに顔を向ける。
 八戒の顔に、はっきり呆れたと書かれていて、あまりの予想通りの彼の態度に悟浄はくすりと口の端を上げた。それでも、八戒のこういうところをカワイイ、と思っているあたり、自分も大概だと思いながら。
「言って判らなければ、体に判らせるしかないでしょう? ……それでも離してくれる気、ないんですか」
「だってよ、やっと二人きりになれたんだぜ? ちょっとばっか、お前を堪能してナニが悪い」
「堪能ってなんですか、それ」
「だから、八戒を補給してんの。しばらく黙ってこーさせろ」
 悟浄の支離滅裂な言い分に、八戒は一瞬絶句したようだった。その隙に、悟浄は彼の躯を自分の正面へ向け、そのまま八戒の胸元に顔をうずめるように、ゆっくりとその躯を抱きしめ直した。久しぶりに抱きしめた八戒の躯は、気のせいでなければまた少し細くなったような気がする。このところの強行軍を思い出し、悟浄は彼に気づかれないよう胸中で嘆息した。
「また、痩せたな」
「ジープを走らせっぱなしでしたからねえ。……一応言っておきますけど、今日は四人部屋だから、そーゆーのはナシですからね」
 先に八戒のほうから牽制されて、彼を抱きしめたまま悟浄は胡乱げな視線を送った。八戒はというと、困ったような笑みを浮かべながら、悟浄を少し見下ろすかたちで翠瞳を向けている。
 こうして、間近で八戒の顔を見るのも久しぶりかも、と悟浄はその視線を受け止めつつ思った。本当に、ここ2・3日は、とにかく早く砂漠をぬけるためにずっとジープに揺られ続けていたから、ろくに八戒に触れてもいない。
 ――八戒に触れたくて触れたくて仕方がなかった。それが、どんなカタチであれ。
 だから、すぐに八戒とそういう意味で抱き合いたいと思っていたわけでもなかったが、こんなふうにはっきりと拒絶されるのもなんだか癪だと、悟浄はじっと彼を見据えた。
「じゃ、どっか抜け出す?」
「それも却下です。今晩はさすがにちゃんと寝たいので、僕」
 こういう時の八戒が絶対に折れないのを承知している悟浄は、仕方がないとこれみよがしに肩をすくめた。そして、これくらいなら嫌とは言わせないと、再び八戒をちゃんと抱きしめる。
 今度は、八戒から抗議の声は上がらなかった。それに、悟浄は気をよくして、彼の右肩へと顔をうずめた。久しぶりにゆったりと感じる、彼のぬくもりに安堵する。そして、不意に胸中に浮かび上がってきた八戒への想いに、思わず悟浄は瞳を閉じた。

 ――大事なモノなどなかったはずの自分が。

 他人をこんなにもいとしいと思うこと。
 他人をこんなにも大事だと思うこと。
 そして、他人を――八戒をこんなにも抱きしめたいと思うこと。
 そう思えるようになったこと自体、今でも時々、現実感をともなわない時もある。彼と出会うまでの自分は、そういう意味で他人と係わったことも、係わりたいと思ったこともなかった。誰とも、目さえ合わせたことがなかった。
 そんな悟浄の内側に、ある日突然、鮮烈に飛び込んできた八戒という存在。
 彼との係わりから初めて、悟浄は八戒という名の他人を抱きしめたいと思った。八戒に対して、悟浄の胸奥にいつも去来する言葉にならない思いを伝える術として、彼を抱きしめたいと思うようになった。
 こうして、彼への感情をちゃんと認めてからそれなりに時間だけはたったが、それでも今の悟浄にその想いを口にする確かな術はまだなくて。
 けれど、この腕の中のぬくもりは間違いなく確かなもの。悟浄にとって、大事な――とても大事な存在。
 だから、悟浄は、八戒を抱きしめる。言葉に出来ないこの想いが、少しでも伝わるように。ふれあう体温から、伝えられるように。
 今、――悟浄にとって、こんなにもいとしい存在を、ただ抱きしめる。
「どうしたんです? 今日の悟浄、…なんだか子供みたいですよ」
 黙って、ぎゅうと抱きしめ続けるだけの悟浄をさすがにいぶかしく思ってか、八戒が苦笑じみた声音で訊いてくる。それに、悟浄は抱きしめる腕をきつくすることで答えた。
「減るモンじゃないし、いーじゃん」
「そろそろ離してくれないと、夕食、食べ損ねますけど?」
「お前のほうがいい」
 八戒の息を呑む気配が伝わってくる。そして、悟浄の頭上で彼のため息が零れた。
「もう、――仕方がないですねえ……」
 今だけ、ですよ。そう言いながら、八戒の腕がそろりと悟浄の背に回された。そのまま、ぎゅっと悟浄の躯を抱きしめてくる八戒に、悟浄は心底嬉しげに笑みを浮かべた。
 八戒の腕から伝わる、あたたかいなにかに、心が満たされる。こうして、悟浄が抱きしめたいと思う八戒が、同じように悟浄を抱きしめてくれることを、悟浄はとても嬉しいと思った。
 ――とても、幸せだと、思った。





 そして、抱きしめ合えるひとがいる、幸せ。







FIN

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