しあわせのにおい




 夕方前になって八戒が買出しに出ていた町から家に戻ってくると、さすがに出掛ける前には惰眠を貪っていた同居人も起き出していた。
「……おや、やっとお目覚めですか」
 陽もそろそろ翳ろうとしている時間だというのに、同居人たる悟浄は寝起きの様相もあらわに、食卓の椅子に腰掛けてぼんやりとしていた。
 目覚めの一服とばかりに、気だるげな態度で紫煙を燻らせている。
 そんな悟浄の様子を、八戒は呆れ半分苦笑半分で眺め、買物袋を抱えて食卓のうえに置いた。八戒のそんな一部始終を目で追いつつ、悟浄は短くなった煙草の先を卓上の灰皿に押し付ける。
「仕方ねーじゃん。寝たの今朝だし」
「完全に昼夜逆転ですよねえ」
 八戒にしてみれば、悟浄のようにその日の行動によって就寝時間と起床時間がまったく定まっていない生活を続けることができるほうがありえないと思う。これでよく、生態リズムが崩れないものだといっそ感心しながら、八戒は買物袋の中身を食卓に並べていく。
 八戒の手から次々と取り出される食材を見て、悟浄は軽く口の端をあげた。
「お、今日の晩飯はもしかして焼き豚入り炒飯?」
「貴方、この間食べたいと言ってたでしょう? だから」
 今日はどうにか陳さん特製の焼き豚が手に入りましたから、と作業の手を止めないままそう答えると、悟浄は嬉しげに口笛を鳴らした。
「やっりぃ。今日は出掛けンんのパスパス」
「……って、悟浄、今日も出掛ける気だったんですか…」
 昨晩、あれだけ遅くまで――というより明朝までといったほうが正しい――賭け事に興じておきながら、間髪入れず出掛けるつもりだったのか、彼は。
 八戒は心底呆れた声音を隠しもしないで、買ったものを出し切った紙袋を丁寧に畳み始める。
「ナニ? 俺がいなくてサミシイ?」
 にやにやと、含み笑いを浮かべる赤男がどうにもこにくらしい。
 八戒はうっすらと微笑んだ。そして、いやらしく笑う眼下の男の額をぺしりと叩く。
「いてっ!」
「呆れてるんですよ。朝、お日様が昇ってから帰宅したその足でまた出掛けるなんて、元気だなあと思って」
「今、結構ツイてるっぽいからさ、そのうちに稼いでおこうと思ったんだよ。でも、八戒の炒飯が食べられるなら、そっちのが大事」
 ……聞いているほうが照れることをさらりと口にするのだから、始末に終えない。
 ほんのりと赤くなった頬を隠すように、八戒はくるりと踵を返した。そして、そそくさと台所へと向かう。
「ナンだよ、急に」
「煽てても何も出ませんよ?」
「はあ? ホントのことだろ?」
 そういうことを臆面もなく言い切る悟浄のほうがよほど恥ずかしい。
 けれど、もっと恥ずかしいのは、悟浄の言葉に嬉しくて反応してしまう自分自身だ。それが何より悔しくて――何より参った、と思う。
「――判りましたから、貴方はそれまでにお風呂、掃除しておいてくださいよ」
 みるみる火照る頬を見られたくなくて、八戒はわざと顔をそむけたままで悟浄へと指示を投げた。同居生活も三年目となれば、互いの役割分担も明確化していて、悟浄は特に異論を口にすることなく椅子から立ち上がった。
「ヘーイ。判ってマスって」
「ちゃんと、してくださいね」
「……その台詞、どうせならベッドで聞きたい、」
「悟浄」
 悟浄が皆まで言う前に、八戒の凍えきった声音が割って入った。びくり、と、悟浄の肩が判りやすく揺れる。
「ナンでもナイでーす。風呂掃除、してきまーす」
「判ればいいんですよ、判れば」
 そそくさと逃げるように風呂場に消える悟浄を横目で追いながら、八戒もみずからの担当である台所へと向き直る。
 時刻はまだ五時を過ぎたばかりで、常ならば夕食の準備に取り掛かるには少々早い時間である。だが、悟浄は起きてから何も食べてはいないようだし、それならいつもより早めに夕食をとるのもいいだろう。
 そう結論づけ、八戒はおもむろに夕食の準備に取り掛かることにした。
 当初の予定通り、特製焼き豚入り炒飯を作るために。



「おおっ、めっちゃうまそーな匂い」
 八戒が手慣れた動作で中華鍋を操っていると、風呂掃除を終えたらしい悟浄がその背後から顔を覗かせた。
 八戒は視線だけで悟浄を見やり、器用な手付きで中華鍋の中身を躍らせている。
「もうすぐ出来上がりますから、待っててくださいね」
「ンー、イイ匂いー」
 炒飯特有の香ばしい香りを存分に堪能しながら、悟浄は嬉々として食卓についた。
 ああいう彼の表情に弱いんですよねえ、と困ったように独りごちながら、八戒は手早く最後の仕上げをして炒飯を皿に盛った。そして、匂いというキーワードでふと、今日、市場での買物時の会話を思い出す。
 それはとても微笑ましい話題だった。
 八戒はくすりと、幸せそうな笑みを浮かべた。その微笑を絶やさぬまま、炒飯を盛りつけた皿とスープの入ったマグカップを食卓に運ぶ。
「……ナニ機嫌よさそーに笑ってんだ?」
 八戒の愉しげな笑みに気づいた悟浄が、不思議そうに訊ねる。
 八戒はさらに笑みを深めた。
 その間も、出来上がった夕食を食卓にセッティングする動きは止めない。
「いえね、貴方のイイ匂いっていうのを聞いて、今日、八百屋さんでの会話を思い出して」
「八百屋?」
 そうこうしているうちに、夕食全品が卓上に並べられた。ここでようやく、八戒も自分の席に腰をおろす。
 ちょうど向かい合わせに座る悟浄を見つめ、八戒は悪戯っぽく口許を緩めた。
「あそこのご夫婦に、小さい腕白坊主がいるでしょう」
「……いたっけ?」
「いるんですよ。…… その子がね、この間学校を終えて家に帰ったら開口一番『“幸せの匂い”がする!』って言ったそうなんですよ」
「はあ? “幸せな匂い”って……ナニよソレ?」
 聞き慣れない単語に、悟浄は怪訝な声をあげた。
 想像通りの彼の反応に、自然と八戒の頬も緩む。
「なんだろう、って思いますよね。実際、女将さんも何を言ってるんだろう、と思ったらしいですよ。それでお子さんに何のことか訊いてみたら」
「……みたら?」
 八戒は意味深に微笑んだ。そして、話が気になるのかまったく箸をつけない悟浄に夕食をすすめて、八戒はずず、とスープを一口飲む。
「その日は市場がお休みだったから、女将さん、お子さんのおやつにとクッキーを作っていたそうです。お子さんはちょうど、そのクッキーを焼いている時に帰ってきたそうで……ああいうお菓子は、焼いている時とても甘くて香ばしい匂いがするんですよ。だから、子供にしてみれば、あのクッキーを焼く匂いが“幸せな匂い”だったみたいですね」
「――ガキのくせに、いっちょまえなコト言うねえ」
 悟浄が感心したようにつぶやく。八戒もまた、穏やかな笑顔を惜しみなく浮かべた。
「でしょう? あの言葉を少年が言ったことがなんだかスゴイし、――微笑ましいな、と」
「……幸せな匂い、か」
 悟浄はしみじみつぶやくと、ここでようやく炒飯に手を伸ばした。それを豪快に口に運びながら、おもむろに口を開く。
「そーゆうお前は?」
「はい?」
「お前にとっての“幸せな匂い”ってナニ?」
「僕、ですか?」
「そ」
 悟浄からの問い掛けに、八戒は一瞬、食事の手を止めた。そして、まず瞬時に脳裏に浮かんだそれに、思わず赤面する。
(……ベタすぎますよ、自分。)
 胸中でひとり突っ込みを入れ、八戒は困ったように口許に手をやった。と、その時、眼前の悟浄があからさまににやけていることに気づいて、目許を朱に染めたまま、軽く睨めつける。
「……なんですか」
「ん、八戒サンの答えが早く聞きたいなーなんて」
 にやにやと口角をあげる男をさらにひと睨みして、八戒はその問い掛けを無視するように食事を再開した。今、八戒が即座に思ったことを口にしようものなら、この目の前でにやつく男がさらにつけあがるのが容易に想像できるから。八戒の心情的にそれは癪だと思った。
 ただ、意地を張っているといえばそれまでだけど。
 いくら悟浄が特別な存在とはいえ、全部を委ねきってしまうには、まだ八戒のほうに迷いがあるから。だから、こんなささいなことでも素直になれない。
 こんな自分自身に少し自己嫌悪しながら、それでも今の八戒では簡単に口にはできない。
「なあってば」
 悟浄には大方、それが自分にとって実に都合がいいことであると想像がついているのだろう。にやけた面を全開にして、なおも八戒にねだる。
 それまで顔を伏せていた八戒が、ふいに白貌をあげた。そして、あいかわらず締まりのない笑みを浮かべている悟浄を見据える。
「そういう悟浄はどうなんです?」
「は?」
「そういう貴方こそ、貴方にとっての“幸せな匂い”って何ですか?って訊いてるんです」
 あえて質問返しをしてやれば、一瞬、紅の双眸が大きく見開かれた。すると、意外にも彼の表情が一転して神妙な面持ちに変化する。思ってもなかった表情の変化に、八戒は内心で軽く狼狽した。
「悟浄?」
「……俺もガキと変わんねーかも」
「え?」
「だってよ……お前が作ってくれる料理の匂い、って思ったもんな」
 あのガキと同レベルだろ、と困ったように笑いながら言われて、八戒は瞠目した。
 まさか、そういう答えが返ってくるとは思わなかったからだ。
 そして、――それを嬉しい、と素直に思う自分自身にもまた、うろたえる。
「そう、ですか」
 ほんの少しだけ語尾がかすれていたけれど、それには気づかないふりをして。
 八戒はそっと目を伏せた。そのまま、ゆっくりと形よい唇に笑みを象る。
 こうして――彼が八戒との日常に幸せを感じてくれているのなら、なにより嬉しい、と。
 そんな胸奥から込み上げるあたたかい気持ちに、八戒はくすりと静かに微笑んだ。
「それは、光栄です」
「……っ」
 八戒の笑顔に当てられてようやく自らの発言に面映くなったのか、悟浄はここにきて慌てたように目をそらした。そうして、ごまかすように炒飯を掻き込む。
 そんな悟浄の姿を微笑ましく見つめ、八戒は微笑みを深くした。
 だが、碌でもないことを思いついたのか、ふと悟浄は上目遣いに八戒を見やり、淫靡に口許を歪める。
「モチロン、“お前”の匂いも、“幸せな匂い”だと思うぜ?」
「――お約束ですねえ……」
 ある意味、このうえなく悟浄らしい回答だとは思うが、八戒とてあまり大差ないことを思ったのだからお互い様といったところか。
 けれど、それを今、彼に言ってしまうのはもったいない気がした。こういうのは焦らしたほうがより効果的ともいうし。
 八戒はそう結論づけると、あえて今の悟浄の発言は聞かなかったふりをして、黙々と食事を続ける。
「って、八戒、今キレーにスルーしただろ!」
「やだなあ、当たり前じゃないですか。今は食事中ですよ」
「しかも、お前、俺の質問には答えてねえじゃん!」
 ずりーぞ、と唇を尖らせる男を可愛いと思う自分も大概だとこっそり思いながら、八戒は容赦なくその言葉を聞き流した。すべて食べ終えた食器を前に、ご馳走様でした、と行儀よく手を合わせる。
「はいはい、それは内緒ですから」
「クッソー、ぜってー後で言わせるからな!」
 やけっぱちのように言い切り、悟浄もまた、残りの炒飯を一気に食べる。そして、悟浄のほうの皿も綺麗になくなった。
 ここで彼が言う“後”が何を指すのか、言われなくても八戒には判っていたが、ここではあえて突っ込みはいれなかった。それは、八戒にとっても予定の範疇のことだし――何より。
 『悟浄が言わせる』より、そのシチュエーションで『八戒から言う』ほうがより意味があるはず。
 八戒はふいに顔をあげた。急に面をあげて悟浄を見つめた八戒に、彼がわずかにひるむ。
「な、なんだよ」
「いえ――幸せな匂い、堪能させてもらおうかと思って」
「は?」
 八戒は笑った。そしておもむろに椅子から腰を浮かして細身をかがめ、眼前の男に口づける。
 突然のことに驚いている悟浄を尻目に、八戒はなおもキスを続けた。ふ、と八戒から軽く唇を離した途端、今度は悟浄のほうからキスを仕掛けてくる。
 唇越しに感じる、たった今ふたりで食べた食事の味ともに、しっかりと感じる彼の――悟浄の香り。
 それは、八戒が幸せと感じる、ハイライトの匂い。
 そう――悟浄が纏う匂い、そのものだった。




 食卓を挟んで、何度も何度も、啄ばむような接吻を贈り合う。
 距離感のあるキスにもどかしくなって、二人がその身を寄せ合うのも時間の問題だった。







FIN

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