幸せになるために




 予定通り夕刻前には宿に到着し、四人での騒がしい夕食も終えた後。
 悟浄はひとり、宿部屋の端に置かれた木の長椅子にだらしなく腰掛け、ぼんやりと煙草をふかしていた。
 本日同室予定の八戒は、現在隣りの部屋で三蔵と明日のルートの打ち合わせ中である。そのため、完全に手持ち無沙汰状態の悟浄は、何をするとはなしに煙草の先から立ち上る紫煙を目の端に捉えながら、深々と椅子に腰掛け直した。途端、簡素な造りの長椅子が、ギシリと大きな音をたてる。
 ここでヤったら即行で壊れそうだな、などと下世話な事を思ったその時。
「まだ、起きてたんですか」
 カチャリというドアノブが回った音とともに、八戒がにこやかに微笑みながら地図と缶ビールを抱えて戻ってきた。よどみないしぐさで地図を荷物に仕舞い込むその様を目で追いながら、悟浄はむ、と、口を尖らせつつ吸いかけの煙草を灰皿へと押しつける。
「まだってお前、ンな早い時間から寝れるかっつーの!」
 部屋に備え付けてある壁時計を見れば、まだ夜の九時をまわったばかり。どう考えても、眠るにはまだ早い時間だろう。
 八戒はくすくすと笑みを零しながら、ゆっくりと悟浄に近づいてきた。そして、手にしていた二本の缶ビールのうち一本を悟浄へと差し出す。
「はい、どうぞ。いえね、話が終わった途端、三蔵と悟空はもう寝るからと早々にベッドへ横になってましたからねえ。それで、もしかしたら、悟浄も寝てるかなと思ってたんですけど」
「あのクソ坊主や猿といっしょにしないでくれる? 奴らは他にタノシミねぇからこんな時間から眠くなるんだろーけど、大人のオタノシミはこれからっしょ?」
 ニヤニヤと色悪な笑みを口許に刻みつつ八戒を見上げれば、彼はこれみよがしにため息をついた。いかにも呆れました、という表情を浮かべながら、それでも八戒は悟浄からほんの少しだけ離れて、長椅子にゆっくりと腰掛ける。二人分の体重を受けて、ぎしっと木の軋む音が小さく響いた。
「はいはい。僕、子供だから何がオタノシミなのかよく解りませんけど」
 ビール片手に、あくまでもそらとぼけた口調で返す八戒を、それこそ悟浄は胡乱げな目付きで見やった。そして、手にしていたビールを一気にあおる。
「よっく言うよな。お前、」
「――何かおかしなコト言いました? 僕」
 にっこり。
 顔は笑っているが、目は全然笑っていない。
 思い切り意味ありげに微笑みながらその秀麗な貌をじっと向けてくる八戒に、悟浄は嫌そうに眉宇をしかめると、深々と嘆息した。
「いーや。何も言ってねぇな、ナニも」
「なんだか思い切り含みを感じるのは、僕の気のせいですかねえ?」
「……気のせいだろ。――ところでさ、八戒」
 このまま不毛な会話を続けていては疲れるだけとそう思った悟浄はわざとらしく話を中断させると、ちらりと一瞬だけ横目で八戒を見てから再度口を開いた。
「なんですか?」
「お前、この旅が終わった後どーするとか、考えてる?」
 不意打ちの問い掛けに驚いたのか、八戒はビール缶に口つけたままの状態で小さく瞠目した。悟浄を見つめるその翠の双眸が少しだけ物言いたげに細められたように見えたが、八戒はいつもの感情を読み取りにくい笑みを浮かべたまま、空になったビール缶を自分の足元へと置いた。
「どうしたんです、いきなり」
「なんとなく」
 八戒の視線を軽く受け流しながら、悟浄は器用に片頬を上げ、シニカルな笑みを佩いた。本当に、なんとなく今訊きたいと思ったのだ。三蔵の元へ打ち合わせに行く前に、何気なく彼に現在の進捗状況を訊いてから、不意に悟浄の脳裏をよぎったこと。
 気がつけば、この旅も目的地まであと半分を過ぎたらしいが。――ならば、このまま何事もなく無事この旅を終えることが出来たのなら、自分は、そして八戒はどうするのだろうか、と。
 八戒はふうと肩で大きく息を吐き出すと、体ごと悟浄へと向き直った。
「そういう悟浄は?」
 予想通り、まずははぐらかす言葉を返してきた八戒に、悟浄はくつりと口許を歪めて彼を見つめ返す。
「俺はもう決めてるもん。だから、お前の希望」
「あのですねぇ。これで、僕の希望と貴方の希望が一致していなかったらどうするんですか」
「同じじゃねぇの?」
「――その自信はいったいどこからくるんでしょうねえ?」
 同じなら何も訊く必要はないでしょうと、八戒は苦笑混じりに微笑んだ。しかし、ふと真顔に戻ると、悟浄から視線を外してじっと自分の手元へと翠瞳をおとした。
「最近、とみに思うわけですよ」
「ナニ?」
「僕が生かされている意味を」
 八戒の口から漏れた意外な言葉に、悟浄は怪訝そうに目を細めた。
 八戒が突然脈絡のないことを言い出すのは、なにも今始まったことではない。だが、悟浄の質問と微妙にずれたそれに何やら嫌な胸騒ぎを覚えて、悟浄は無言できつく八戒を見据えた。
 八戒はそんな悟浄の視線に気づいているのかいないのか、言葉を続ける。
「天界の思惑は、結局のところ僕をこの旅に参加させることにあったのかなあ、なんて。そう思うと、この旅の後、僕は果たして生きているのか、それすら怪しいと思いません?」
 八戒はなんでもないことのようにさらりと口にしたが、その意味のあまりの重さに気づいた悟浄は、ぎょっと目を見開いてはじかれたように八戒を凝視した。そんな悟浄に向かい、八戒はにこりと、それこそなんでもないことのように微笑み返す。
「お前、ナニ言って、」
「でも、あながち間違ってはいないと思いますよ? あれだけの事をしでかした僕の罪がどれだけ重いかくらい、判ってはいます。こんな状況でお咎め無しなんて都合良過ぎるってことも、よく判っています」
「だからってなあ」
 あまりに淡々と話す八戒にわけもなく苛立ちを覚えて、悟浄は少し怒ったように顔をしかめた。こんなふうに、何もかも諦めたように語る彼がとても腹立たしかった。
 しかし、そんな悟浄をたしなめるように、八戒は穏やかな笑みを湛えたまま、ただ悟浄を見つめ続ける。
「まぁ、僕の話を聞いて下さい。でもね、少なくとも三年前の僕なら、それが運命ならとおとなしく受け入れたと思うんですよ。けれど、今は、もしそれが僕の運命だとしてもそんなのは御免です」
「……八戒」
「僕は僕の意志で“生きたい”と、そう思っていますから。――貴方と」
「―――」
 きっぱりと言い切った八戒に向かい、悟浄は目を瞠った。刹那、二人の視線が交錯し、八戒もゆるりと目を眇めて悟浄を見つめる。その瞳の奥にかいま見えた彼の強い想いに、悟浄はニヤリと口の端を上げた。
「ビンゴ、だな。要は、俺といっしょに“生きて”あの家に帰りてぇっつーコトだろ」
「ありていに言えば」
 悟浄は横に座る彼に向かいそろりと腕を伸ばすと、その痩身を思いのまま抱きしめた。すると、八戒もゆっくりと悟浄へと身をまかせてくる。ことりと額を悟浄の肩に押し付け、八戒はまるで祈るように、そっとその言葉を噛みしめるように囁いた。
「例えそれが僕のエゴでも、貴方と、生きたい」
 僕と共にいることが幸せだと、そう言ってくれた貴方のためにも。
 その言葉に、彼のその想いに悟浄の胸裏が言葉にできない不思議な感情で満たされていく。
 それを素直に嬉しいと思った悟浄は、さらに腕の中の八戒を抱きしめる力を強くした。
「――なんか、すっげうれしいかも」
「そうですか?」
 ゆるゆると顔を上げて、ふうわりと微笑みながら悟浄を見つめてくる八戒の額に、悟浄は心底嬉しげに口許を緩ませつつそっと唇を落とした。
「お前がさ、はっきり俺との未来(さき)のコトについて口にしたの初めてだろ? それがすげぇうれしいのよ」
「貴方にね、幸せになってもらいたいんです、僕。僕がいることで貴方が幸せになれるのなら、何より生きないと、ね」
「すげー熱烈プロポーズどーも、ってカンジ?」
 笑みを絶やさぬまま、八戒の顔中にキスする悟浄に、八戒はくすぐったげに小さく身を捩るとくすりと苦笑してみせた。
「プロポーズ、ですかね? なんだか意味を取り違えてる気がするんですけど」
「だってそーだろ。でもさ、俺だけじゃなくてお前も幸せになんなきゃ意味ねーんだけど?」
「だから悟浄も絶対に生きて下さいね」
「あったり前。そー簡単にくたばってたまるかっての」
 まだまだし足りねぇコトもいっぱいあるしな。
 照れ隠しも込めて、わざと意味ありげに口の端を上げて八戒を見つめると、彼は仕方がないなあ……と呟きつつ、困ったような笑みを浮かべながら悟浄を見つめ返した。
「……悟浄って、本当にソレしかないんですねぇ……」
「ナンだよ。お前も好きだろ。俺とこーゆうコトすんの」
 悟浄の真意を解った上で一緒に誤魔化されようとしてくれる眼前の彼にさらにいとしさを覚えながら、それでも悟浄の悪戯な掌はそろりと八戒の腰元を撫で上げる。それにぴくりと反応しながら、八戒はわざとらしく嘆息した。
「……嫌いじゃ、ないですけど。ここでは嫌ですよ」
「なら、ドコならいいんだよ?」
「目の前にベッドがあるのに」
 確かに、このいかにもな造りの木製長椅子でコトに及ぼうものなら、まず途中でその衝撃に耐えかねて壊れることは目に見えている。
 悟浄は八戒を抱きしめたまま彼ごと立ち上がると、その勢いのまま二人して寝台に倒れ込んだ。そして、あっという間に八戒をシーツの上に縫い止める。ふわりとあわく微笑みながら、悟浄に向かい右腕を伸ばしてくる彼の手を取り、悟浄はその掌へそっと口づけた。
 いとしさと、誓いを込めた、恭しいキス。
「さっきの言葉、忘れんなよ?」
 掌に唇を押しつけたままちらりと八戒を一瞥しながら念押しをする悟浄に、八戒も負けじとその真紅の髪の毛を一房左手に取り、軽く口づけを落とす。その艶やかな笑みに、悟浄は思わず目を瞠った。
「貴方もね。忘れないで下さいよ」
「トーゼン」
 悟浄はにやりと笑みを佩いて、八戒の唇に己のそれを重ね合わせた。八戒の両腕がゆっくりと悟浄の首へと回されるのに合わせて、その口づけはさらに深くなる。そしてきつく、互いを貪り合うほどのものへと。
 ――かつては、あんなに生きることに対して希薄だった八戒が。
 悟浄のために生きたいと、そう言ってくれた。
 悟浄にも生きていて欲しいと言ってくれた。
 そして、今、確かにこの腕の中にいること。
 すべてが嬉しくて、すべてがいとおしい。
 今、この胸に凝るこの想いをどう言葉にすればいいのか悟浄には判らないけれど、ただその想いの丈をこめて悟浄は八戒に口づける。きっと唇や膚を通して、彼に伝わるはず、だから。
 こんなにも、今、幸せだということを。






 そして、これからも。
 幸せの意味を教えてくれた彼と。
 生きて、幸せになるために。







FIN

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