体温




 ――ただひとつ欲しいのは、あなたの体温(ぬくもり)。



「というわけで、二人部屋がふたつ取れました」
 八戒がにこやかに目の前の三人――三蔵、悟浄、悟空にそう告げると、三人からそれぞれ何ともいえない複雑な表情を浮かべるという正直な反応が返ってきて、八戒は思わず苦笑を漏らした。
 このメンバーで西域へ向かう旅を始めて、早二週間。そして、数度目の久々の宿ともなれば、誰しもが一人でゆっくりしたいところだ。そんななかで、二人部屋ともなると「誰」と相部屋になるかというのが各人にとって重要な問題となるわけである。
 それでも、多分自分の相手は三蔵だろうと、八戒は何故か剣呑な雰囲気を漂わせて牽制しあっている三蔵と悟浄をちらりと眺めつつのんびりと思った。この旅を始めてから、二人部屋となると何故か三蔵は八戒と同室になりたがったからで、――その理由はおそらく八戒が一番三蔵の眠りの邪魔をしない人物との位置づけからだろうが。
 だから、三蔵が口を開く前に、悟浄に無言で右腕を掴まれ、そのままずるずると引き摺られるように歩き出したのに、八戒は心底驚いた。
「……悟浄!?」
「今日は俺といっしょ。じゃ、そゆことだから」
 悟浄は八戒の手からもう一部屋用の鍵を抜き取り、三蔵に向かって乱暴に放り投げた。投げ出された鍵を器用に受け取りつつ、三蔵はじろりと悟浄を睨みつけた。
「おい、勝手に決めてんじゃ……!」
「いつも勝手に決めてんのソッチじゃん。じゃ〜ねえ〜」
 三蔵に反論する余地を与えず、そして事の成り行きについていけずあっけにとられている悟空を残したまま、悟浄は二人に向かいひらひらと手を振りながら、それでも強引に八戒を引き摺っていく。突き当りの階段にさしかかり、三蔵と悟空の姿が見えなくなったところで、八戒はようやく我に返った。
「ちょっと、悟浄……痛いですって」
「ああ、悪ィ」
 かなりきつく八戒の腕を引っ張っていた悟浄に苦情を漏らすと、案外あっさりと悟浄はその手を離した。いつになく強引に事を進めた悟浄を、八戒は並んで歩きながら怪訝そうに横目で見た。
「どうしたんです、いったい?」
「ナニ、俺といっしょじゃ嫌?」
「そういう意味じゃなくて、ですね……」
 八戒の問いかけに、悟浄はにやりと口の端を上げ、様子を伺うような視線を向けてきた。まるで八戒の言葉をはぐらかすようなそれに、八戒はため息混じりで答える。こういう表情を浮かべている時の悟浄は、たいてい何か思惑を抱えているのだ。それは短くも長くもない同居生活で、八戒が学習したことのひとつだった。
「ここでいいんだよな」
 本日二人が宿泊予定の部屋の前まで来て、悟浄はそう呟きながら鍵を鎖しこみ、ゆっくりと部屋の扉を開けた。先に部屋に入るよう無言で促す悟浄に苦笑しつつ、八戒は荷物をかかえながら室内へと入る。
「――うわっ!」
 突然、背後から悟浄に抱え上げられ、八戒はあまりの事に驚いて声をあげた。あっという間に寝台の上に投げ出されたかと思うと、悟浄は有無を言わさぬ勢いで八戒にシーツを被せた。
「寝ろ! とにかく寝ろ!」
 八戒の体ごと、寝台に押し付けるように言い放った悟浄を、八戒はぽかんと、目を見開いて真上にある彼の顔をただ見つめた。
「……あの、悟浄……?」
「なんだよ、寝ろっつってんだろ」
「だから、どうしていきなりこんなことを、」
「……お前、自分がどれだけヒデェ面してるか、自覚ある?」
 呆れ混じりに漏れた悟浄の言葉に、八戒は困ったように苦笑しつつ眦を下げた。
「そんなに酷い顔してます、僕?」
「少なくとも、すぐにベッドに押し込みてーと思う程度にはな」
 悟浄はやれやれと肩をすくめながら、八戒が横になっている寝台とは反対側にあるもうひとつの寝台の端に腰を下ろした。そして、じっと八戒を見据えてくる。その深紅の双眸に宿るどこか心配そうな色に、八戒は内心で小さく嘆息した。
「自分では大丈夫なつもりなんですけどねえ……」
「ナニ言ってやがる。いくらお前に体力があるっつっても、一日中運転してて疲れないわけねーだろ。今までそーゆう生活してないんだし。ここんとこずっと野宿でまともに休めてないんだろうしよ。……ったく、テメェのこととなるとホントに鈍いよな、お前」
 悟浄がため息をつきつつ、諭すような口調で言う。悟浄が心配するほど疲れているという自覚は、八戒にはなかった。だが、こうして数日振りに寝台に横になって、悟浄と二人きりという安心感からか急に体全体が沈み込んでいくような感覚がおそってきて、八戒はゆっくりと息を吐いた。そして、右横にいる悟浄に対し、うっすらと微笑みながら顔を向ける。
「でも、それなら別に三蔵と同室でもかまわなかったと思いますけど」
「あのクソ坊主と同室だと、結局コーヒーだの何だのとお前をこき使うに決まってんだろ。そんなんじゃ、休めるもんも休めねぇだろうが。……ま、でも、」
 悟浄はいったんここで言葉を区切ると、決まり悪げに少し視線を泳がせる。そんな彼の態度に八戒が疑問符を飛ばすと、悟浄はくしゃりと、長く伸ばした深紅の前髪をかきあげた。そして、ニッと唇の端を上げて笑みをかたち作る。
「俺がお前といっしょになりたかったっつーのもあるんだけど」
「……悟浄」
 正直な胸のうちを吐露する悟浄に、八戒はつと胸をつかれて、彼を見つめ返した。
 確かに旅を始めてから、こうして悟浄と個室で二人きりになれたのはこれが初めてだった。八戒も表には出さないものの、成り行きとはいえ悟浄と二人きりになれたことは単純に嬉しいと思っていた。だから、こんなふうに悟浄に気をつかわせて申し訳ないと思う反面、こういうカタチででも彼が隣にいてくれることが嬉しいと八戒は思う。
「……ありがとうございます」
 その気持ちを感謝の言葉にのせれば、悟浄の片眉が器用に跳ね上がった。その面にどこか照れのようなものが浮かんでいて、八戒は思わずくすりと笑みを漏らす。
「笑ってねーで、とにかく寝ろ!」
 誤魔化すようにわざとぶっきらぼうに言って、悟浄は再度八戒に近づくとシーツを八戒の顔にばさりと被せた。いかにも照れ隠しな悟浄の態度に八戒はくすくす笑いを絶やさぬまま、苦しげに顔に掛けられたシーツを押しのけ、眼前にいる悟浄に向かいにっこりと微笑んだ。
「悟浄、いっしょに寝ません?」
「はあ?」
 突然の八戒の提案に、悟浄は露骨に胡乱げな表情を浮かべた。
「そのほうがよく眠れそうなんですけど」
 八戒の言葉に、悟浄はこれ見よがしに深々と嘆息した。予想通りの悟浄の反応に、八戒も苦笑を禁じえない。
「……八戒、お前ねえ、判ってる? 俺、お前に惚れてんのよ? ただ寝るだけで済むわけねぇだろ。いいから、もう休め」
「いいですよ?」
「――ナニ」
「悟浄がしたいんだったらシても」
 途端、悟浄が絶句して、八戒を見下ろすかたちで凝視する。そんな悟浄に向かい、八戒はそっと右腕を伸ばして悟浄の左頬へと手をかけた。悟浄はため息をつきつつ、自分の手を重ね合わせる。
「わあったよ。ナニもせず、添い寝してやる」
 そう言いつつ、悟浄もごそごそと八戒の寝台へと潜り込んできた。悟浄のスペースを空けるために、八戒も体を横にずらして彼を迎え入れる。
「別にいいのに……」
「ヤったらそれこそ休めるもんも休めねぇだろ。ほら、寝ろ寝ろ」
 悟浄が抱き込んでくるのにまかせて、八戒も彼の懐へと納まった。そして、安堵の息をつく。
 こんなふうに、自分の欲望よりも八戒の体を優先させる優しいひと。
 旅を始めてからきちんと抱き合っていないのだから、何もせずにただ寝るだけの状態が悟浄にとってどれだけ辛いのかは、八戒にも判る。だからこそ手を出してもいいと、そう言ったのに、どこまでも八戒に甘いこの男は自分を押さえ込むほうを選ぶのだ。
 ――本当に甘やかされているなあ、と八戒は彼の体温を感じながら思う。
 こうして、悟浄の体温に触れ、自分がいかに彼のぬくもりに飢えていたのかを実感する。他人の体温なんて気持ち悪いだけだと、そう思っていたのに、――悟浄の体温にならこんなにも安心できる。
 八戒はもぞもぞと悟浄の腕の中で身じろぎをして、不意に下から悟浄を見上げるようにふわりと微笑んだ。その笑みに悟浄が息を呑んだのが伝わってきて、八戒はさらに笑みを深めた。
「もし、したくなったら、手を出してもいいですから」
「……これ以上、俺を煽るようなことを言うのはヤメロって……」
 悟浄の心底困ったような、勘弁しろと云わんばかりの表情に、八戒も苦笑ぎみにうすく笑った。
「すみません。でも、本当にいいですからね。……おやすみなさい」
「……おう」
 それでも念押しだけはして、八戒はようやく翠瞳を閉じた。再度きつく八戒を抱きしめてくる悟浄の体温に身を委ねつつ。




 そして。
「――やっぱガマンの限界!」
 先ほどのやりとりから、ものの10分ほどしかたっていない中、悟浄のせっぱつまった絶叫が八戒の頭上に響いて、当然のように寝ていなかった八戒も、顔だけ悟浄のほうへと向ける。
「……悟浄?」
 八戒が声をかけた途端、それまで横向きに抱き込まれていた体が、あっという間に寝台に仰向けになるように縫い止められて、八戒は思わず息を呑んだ。だが、八戒に覆いかぶさるような体制で覗き込んでくる悟浄の顔に浮かぶ感情を認めた途端、ふんわりと笑みを零した。
「……ゴメン、八戒。その、……ヤろ?」
 ばつの悪い表情を浮かべつつ、それでもはっきりと情欲を伝えてくる悟浄の背中に、八戒も腕を回した。そして、彼を自分のほうへと引き寄せ、その耳元にささやく。
「さっきからいいですよって言ってるじゃないですか。だから、謝らないで下さい」
 悟浄と触れ合いたいのは、八戒も同じ。
 悟浄に飢えているのは、八戒も同じ、だから。
 悟浄はぎゅっと八戒を抱き締め返すと、その肩に顔をうずめた。八戒の白い首筋に軽く唇を落としつつ、小さくつぶやく。
「……お前の体温って、安心する」
 その、彼の言葉に、八戒は一瞬目を瞠った。だが、すぐに嬉しげに破顔する。
「僕も、ですよ」
 だから、もっと触れ合って、もっと互いの体温を分け合えるほどに。
 互いに同じ事を考えていたことに、二人は顔を見合わせると、そのまま唇を合わせた。それは、すぐに互いを求め合う深いものへと変わる。
 八戒は、もっと彼のぬくもりを感じるべく、悟浄の深紅の髪へと腕を伸ばして、彼を引き寄せるようにそれを手に絡めた。悟浄と、体温を分け合うように。悟浄にも、自分の熱が伝わるように。





 ――今は、その体温(ぬくもり)に、溺れていたいから。







FIN

「妖狐堂」様の『2002年58の旅』へ寄稿。

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