ポーラスター




「――すごい星ですねぇ……」
 頭上を覆う満天の星々を見上げ、八戒はす、と眩しそうに目を細めた。
 街の喧騒から離れ、人気のまったくない森の小道をゆっくりと歩きながら、八戒は少し体温が上がっているらしい自分を確かめるように額に掌を当て、じっと輝く星空を眺める。その横を歩いていた悟浄が、ふと、八戒へと顔を向けてきた。
「いきなりナニ?」
「え、言葉の通りですよ。星がいっぱいきらきらしているなあ、と」
「……お前の場合、実は酔ってンのかそれとも素なのか区別しかねるのがナンだな」
「失礼な。酔ってなんかいませんよ。まあ、さすがにあれだけ呑むと、すこーし体がぽかぽかするなあ、とは思いますけど」
「アレだけ呑んでその程度っつーのが笑えねぇ……」
 信じらんねぇと、悟浄がわざとらしく口許を歪めて顔をしかめるのに、八戒はただ苦笑を返すことしかできない。
 今晩は、悟浄に誘われて、久しぶりに二人で夜の街まで足を伸ばしていた。
 今でも賑やかな場所へおもむくのはあまり好きではない。けれど、さすがにこの街で悟浄とともに生活を始めて三年も経てば、それなりに顔見知りも増えた。そのため今では、たまにこうして悟浄につきあって呑みに出かけることも以前よりは抵抗がなくなったのも事実で。
 そして今夜は、めずらしく悟浄のいきつけの賭場ではなく、最初から二人で呑むつもりでたまに顔を出すなじみのバーへと足を向けた。だが、そこに現われた一人の下卑た男が八戒に絡んできたのをきっかけに、悟浄が手を出したりで一悶着起きかけたのだ。しかし、それを八戒はにっこり有無を言わさぬ笑顔で執り成し、しかも八戒と呑み比べをして、男が勝ったら八戒と悟浄を好きにしてもいい、ただし男が負けたら酒代全額男持ちで二度と八戒たちに手出しをしない、との約定まで取りつけた。ここまでくれば、あとは八戒の思うつぼである。
 結果など、火を見るより明らかだった。
 ものすごい量の酒を呑みながらも、八戒は最後まで顔色を変えることなく、その口許にあわい微笑すら浮かべたままで。男が完全に潰れる前に、しっかり取り立てるものは取り立てて、気分よく悟浄と店を後にした。他人様(ひとさま)の金で思い存分に呑める酒ほどうまいものはない。
「あれだけのお酒を一度に呑める機会はそうそうないですからねぇ。僕もつい、いいペースで呑んじゃいましたよ」
「お前には限界っつーのがナイのかっ!?」
「あははは、悟浄にそんな無茶は言いませんから安心して下さい」
 どうやら酒が入って気分も少々高揚しているらしい。八戒は、いつもよりは饒舌ぎみな自分自身に少し戸惑いながらも、それでもこの心地よい高揚感に素直に身をまかせることにした。そのまま視線を空へと移す。
 初夏にしてはめずらしく、空気が澄んでいるのか、雲ひとつない夜空に星の煌めきがくっきりと浮かび上がっている。その輝きから逃れるように、八戒は不意に視線を泳がせた。そのとき、ふと、ある星が目に入って、八戒はくすりと口許を緩めた。
「悟浄の家は、いざ迷子になっても、夜だったら判りやすくていいですよねえ」
「……今度はまたナンだよ」
 どうやら悟浄には、八戒が脈絡のないことばかり口にしていると、そう思われているのだろう。悟浄の胡乱げな声音に、八戒はくすくすとどこか愉しげな響きを滲ませて笑った。
「ほら、アレです。ポーラスター、って言うんですけどね。悟浄の家は北の方角にあるから、あれを目印に行けばいつかはたどり着くだろうと」
「ポーラスター? ってナニ?」
「いわゆる北極星ってヤツですけど、……もしかして悟浄、ご存知ないです?」
「ちっとも」
 どこかおもしろくなさそうに、火のついていない煙草を口で上下させている彼のその仕種が妙に子供っぽくて、八戒はますます笑みを深めた。
 八戒と違って、悟浄は一度も学問を勉強する機会はなかったと、過去にちらりときいたことがある。だから、彼がその星の存在を知らなくても別段不思議でもなんでもない。八戒はふわんと穏やかな笑みを浮かべて、すっと、その星へと指を伸ばした。
「アレです。あの方角に一つだけ、はっきりと輝いているひとつ星があるでしょう? あの星はね、ほぼ真北を示しているんです。他の星は時間や季節の移り変わりとともに常に移動しているように見えるんですけど、あの星だけは唯一、常にあの位置から動くことがないんですね。だから、昔から、旅の指針として利用されたりしていたわけです。もし悟浄が夜、道に迷ったら、ぜひあの星を目印にちゃんと家まで帰ってきて下さいね」
「へぇ……。そーゆーのもあるんだ」
 八戒の指先に導かれるように、悟浄もその星へと紅瞳を向けた。そして、どこか感心したように呟く。
 そんな悟浄の様子をちら、と見やり、八戒はふうわりと小さく微笑んだ。そのまま、満天の星空の中で輝き続ける孤高の星に眼をやる。
 それは、――ゆるぎない、星。迷える旅人を導く星。
 まるで、八戒にとっての悟浄のように。
 そう、八戒にとっての“ポーラスター”とは――。
「貴方、ですよねぇ……」
「……今日の八戒さん、意味不明すぎ」
 ぜってー酔ってるなお前、と悟浄の呆れ混じりの呟きに、八戒はくすくすと肩を震わせた。
 酔っている――確かに、そうかもしれない。
 でなければ、こんなことを自分が口にするはずがないだろうから。
 けれど、今は無性にその思いを言葉にしたくて、八戒は横に並ぶ悟浄を見つめた。眼があった途端、八戒はゆっくりと口の端を上げて笑みを形づくる。
「僕にとってのポーラスターは悟浄だなあ、と」
「――」
 八戒の言葉に、悟浄はぽかんと、大きく目を見開いて八戒を凝視した。彼の口の端から、咥えていた煙草がするりと地面に落ちる。その様を目で追ってしまった八戒は、それを拾うために身を屈めようとした、その時。
「――わ、悟、浄?」
 ぐいと悟浄に左腕を引っ張られたかと思うと、八戒が気づいたときには正面からきつく抱きしめられていた。悟浄は八戒の肩へと顔を押し付けたまま、ぼそりとささやく。
「ンなかわいーコト言われたら、たまんねー。……このままここに、」
「追い倒したい、なんて言われたら、このまま鳩尾へ一発、手加減なしでぶっ飛ばしちゃいそうです」
 肩越しに悟浄が深々とため息をついたのが伝わってきて、八戒は彼に気づかれないようにくすりと小さく微笑んだ。そして、ゆっくりと悟浄の背に自分の腕をまわす。
 言葉と行動がどこかちぐはぐな八戒に、悟浄はこれ見よがしに嘆息しながら顔を上げた。じっと、至近距離で互いの顔を見つめ合う。
「……マジで酔ってンなお前……」
「そうですか? 少なくとも、ここじゃ嫌だけど家だったらかまわない、と思うくらいには素面ですよ」
 そう言いながら、八戒は眼前の彼の唇に、自分から軽く己のそれを合わせた。滅多にしない、八戒からのキス。これも全部酔いのせいにさせてもらおうと、内心で笑み零しながら、愉しげに唇を寄せる。
 最初は八戒の好きにさせていた悟浄が、不意にぐいと八戒の腰を引き寄せて、深く唇を合わせてきた。途端、絡まる甘い吐息が互いの耳を打つ。
 しばらく思うまま唇を与え合い奪い合い、そして躯も寄せ合い。次第に高まる身のうちの熱に煽られるように、さらに舌も絡め合って。一瞬、ここが外だということを忘れて、ただ相手を求め合う行為に没頭する。
 だが、八戒が息苦しそうに少し唇を離すと、ようやく悟浄もゆっくりと身を引いた。はぁ、と、甘やかなため息を零して、八戒がくすりと艶やかな笑みを浮かべる。
「……続きは家で、ですよ」
「――ここまで煽っといてコレかよお前」
 悟浄が不服そうに、再度八戒の腰へと不埒な手を伸ばしてくる。刹那、八戒の笑顔が凍りついた寒々しいものに変化した。それに気づいた悟浄の手の動きがぴたりと止まる。
「判りました。ぶっ飛ばされたいんですね、悟浄」
「……帰ったら覚悟しとけよ八戒。ぜってー啼かす」
「それは貴方の口説き次第ということで」
「……お前、絡み酒だなぜってー」
 悟浄はしぶしぶと八戒から躯を離して、再び煙草を咥えて火をつけた。その紫煙のたちのぼる様を目で追いつつ、八戒も彼に並んで歩き始める。
「だから酔ってませんてば、僕」
「そーだな、そーゆーコトにしといてやる。だから、覚悟しとけよ」
「どういう覚悟ですかそれ」
 わざとそらとぼけた返事をかえすと、目に見えて悟浄の口許が歪んだ。やはりいつも以上に饒舌な自分に内心で苦笑しながら、八戒はちらりと天上に輝くポーラスターを見上げた。そして、目を細めながらふわりと微笑む。


 こうして、「今」の自分があるのも。
 三年という長くもなければ短くもない日々のなかで、こんなふうに悟浄ともに並び歩く自分があるのは。
 八戒にとって、悟浄というゆるぎない存在があったからこそ。
 いつもいつも、そして今もまだどこか覚束ない八戒を、しっかりと、ゆっくりと、しかし確実に導いてくれるゆるぎないもの。
 この夜空に燦然と輝く、あのひとつ星のように。


 八戒にとっての、たったひとつの輝ける星『ポーラスター』に、想いをこめて。
 その想いに衝き動かされるように、八戒はそっと手を伸ばして、悟浄の手に自らのそれを重ね合わせた。
 突然の八戒の行動に、一瞬驚いた視線を向けてきた悟浄だが、すぐにニヤリと唇の端を上げてぎゅっと強く握り返してくる。その強さに安堵するように、八戒はほぅと短く息を吐いた。
 その口許に、ほんのわずかだけ幸せそうな笑みを滲ませて。





 自分だけの“ポーラスター”を見失わないように。
 いつまでも、その手を離さないでいられますように、と。








FIN

「妖狐堂」様の『2003年58の旅』へ寄稿。

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