「――うへぇ」
昼も過ぎて、外に干していた洗濯物を回収し家に戻った途端、台所から聞こえてきた悟浄の奇妙なうめき声に、八戒は洗濯物を抱えたまま思わずその場に立ち止まった。
まるで何か不快なものを潰したような、心底嫌そうな声音。彼らしくないといえばこの上なく彼らしくないその振る舞いに、八戒は驚いて眼前の同居人を凝視した。
「悟浄?」
そこでようやく八戒の存在に気づいたのか、悟浄は一瞬、びくりと身を震わせた。それは悪戯が見つかった子供のような反応に近く、八戒はますます胡乱げに眉宇を寄せる。
いったい、何をやらかしていたのか。
八戒は知らず口許に笑みを浮かべた。そんな八戒の表情を見て、悟浄はばつが悪げにちらちらと窺うような視線を向けてきた。
「……あーっと、ナンでもねぇ」
「なんて声じゃあ、ありませんでしたよね?」
悟浄の言葉尻をわざと奪って、さらにとどめの笑顔を向ける。
悟浄はうっと喉を詰まらせ、ますます困ったように眉根をさげた。それまで手にしていたらしいガラスのコップを、流し台へと置く。
そのコップの存在にようやく気づいた八戒が、ふいに瞠目した。それをよくよく見て、意外なものを見てしまったとばかりに再び悟浄へと視線を戻す。
「……貴方、いったい何を飲んでたんです?」
それまで抱えていた乾いた洗濯物を居間のソファにいったん置きながら、八戒は訊ねた。
どう見ても、おそらく悟浄が飲んでいた代物とは。
「んーと、牛乳?」
……やっぱり。
彼の返答に、八戒は納得半分驚き半分で静かに見つめ返した。既に空になっているとはいえ、コップがうっすらと白かったからもしやと思ったのだ。
けれど、悟浄の牛乳嫌いを知っている身としては、何故彼がそれを口にしたのかにわかには信じがたく。八戒は軽く眼を瞬かせながら、彼の方に身体も向けた。
「またどうして」
悟浄が自分からすすんで牛乳を口にしている姿など、初めて見た。その疑問をそのまま口にすれば、目に見えて悟浄が焦ったように言いよどむ。
「……や、その、さ」
「はい?」
「喉、渇いてたんだけど、ナンか水は飲みたくなくて。で、冷蔵庫開けたら、他に冷たいモンっていうとコレしかなくてさ」
「……あ、そうですねえ」
いつもならさらにビールが数本入ってはいるが、今はたまたま切らしていた。そして、牛乳は八戒自身が好きなのと料理にも使えるからということで、沙家の冷蔵庫内に常備されている。
「いっつもお前、美味そうに飲んでるしさあ。もしかしたら、今なら飲めるかもーと思って飲んでみた。それだけ」
悟浄は照れたように、心なしか頬を赤くしながら口早に言い切った。自分でも衝動的に馬鹿なことをしたとでも思っているのだろう。しかも、その現場を八戒に目撃されて、余計にいたたまれないと思っているのだろうか。
八戒はどう返したらいいものか、一瞬答えに窮する。けれど、目の前で妙に焦っている悟浄がなんだかとても――。
そう思った瞬間、それは顔にしっかりと出ていたらしい。知らず笑み崩れた八戒をじろりと睨んで、悟浄は拗ねたように口先を尖らせた。
「ナンだよ」
「いえ、……そんな貴方が」
かわいい、などとはっきり口にしたら、この大きな子供みたいな男はますます拗ねるに違いない。八戒は自然と緩む口許を手で押さえつつ、賢明にもその先の言葉はあえて口にしなかった。そして、洗濯物の中からタオルだけをより分けながら、くすりと微笑んだ。
「俺がナニ」
「いえ。……それにしたって、あんなに牛乳の後味が苦手とか言っていたのに、いったい何を根拠に"今なら"大丈夫と思って飲んだのかなあと思って」
「言ってもいいけど、お前ぜってー怒るから言わねぇ」
ちらり、と悟浄が八戒の様子を窺うように見つめてきた。眼が合った途端、わざとらしく淫猥に口許をつり上げる。
その笑みを見ただけで、悟浄の言いたいことが解ってしまった。八戒は心底呆れたふうに深々と嘆息した。八戒の反応が予想通りだったのか、悟浄はいやらしくにやにやと笑いながら軽く肩をすくめる。
つまりは、牛乳に何かを見立てているのは明確で、それがなんであるのかすぐに解った自分自身も腹立たしい。
それでも。そんなところも含めて彼らしいと思うのだから、仕方がないではないか。こんなふうに、些細なことではあるけれど、家の中だからこそ見せる悟浄の素の姿を見ることが出来る日常が何よりもいとおしいと、そう思うのだから。
八戒だからこそ見せてくれているのだと、そう思うから。
八戒は手にしていたタオルを数枚、再びソファ上の洗濯物の山に戻した。わざと口許を引き結んだ表情を浮かべて、いまだ台所に立ったままの彼の元にゆっくりと近づく。
八戒からどんな反撃がくるのかと、悟浄が身構えたのが判る。
表情を変えないまま悟浄の前まで来ると、じっと八戒の動向を見ていた彼へ意味深に微笑んで見せた。
わずかに紅眼を見開いた悟浄の面を翠眼の端に捉えながら、そのまま自ら顔を寄せ、彼の唇を塞ぐ。
閉じたままの悟浄の唇を甘く噛んで。呆然としたまま動かない彼の唇をさらに甘く吸い上げて。ちゅっと軽く濡れた音を立ててから、やはり八戒のほうから身を離した。
再び、にっこりと口の端を上げると、悟浄はようやく我に返ったように八戒を見つめ返した。そっと右手をあげて、八戒の頬へと触れる。その輪郭をさわさわと撫でたどりながら、どこかぼんやりとした口調でつぶやいた。
「……えっと、今のは」
「口直し、ですよ」
そう言って、八戒は艶やかに笑った。
その笑みを間近で見た悟浄の紅瞳が、大きく見開かれる。だが、すぐににやりと口許を愉しげに歪めた。眼を細めて、眼前の八戒を見つめる。
「なぁ、もっと口直し、してえ」
先ほどまでの拗ねた口振りが嘘のように、色を滲ませた強請り声でささやいてくる。そんな彼の判りやすい甘えに、八戒が呆れる間もなく、今度は悟浄のほうから口づけてきた。
いきなり深く唇を重ね合わせて。いきなり深く、口腔内を貪るキス。急激に追い上げられるようなそれに、八戒の息もまた一気にあがる。
忍び込んできた彼の舌から感じる、ハイライトの苦味とミルクのまったりとした甘味。それらが混在した、常なら味わうことのない不思議なキス。
甘くて苦い。まるで、悟浄そのもののようなキスに、八戒は溺れるように自らも舌を絡めた。ますます口づけが深まる。深すぎるそれは、八戒の身体に快楽という火種を灯す。
くたりと、膝から力が抜ける心地に、たまらず八戒は彼の腕にしがみついた。崩れ落ちそうな細腰を逞しい腕で支えながら、悟浄はそっとキスを解く。
「……っ」
途端、八戒の唇から甘い吐息が零れ落ちた。その様を満足そうに眺める悟浄を、八戒は困ったように軽く睨む。
「……もう」
「そんな顔されても、余計煽られるだけだっつーの」
悟浄は淫らに微笑んで、朱に染まった八戒の眦に口づけた。そのまま唇を額、こめかみ、鼻先へと移動させながら、八戒の顔中にキスの雨を降らせる。なだめるような、それでいて煽るような接吻に、八戒は熱くなりはじめた痩躯を微かに捩った。
「なぁ……もっともっと口直しさせて?」
色っぽい唇を八戒の耳朶に寄せて、悟浄はひっそりとささやいた。腰に直接響くような低い声音に、ぞくぞくと八戒は身を震わせた。
ここまで八戒を追いつめておいて、何をいまさら。
八戒はぎゅうと、自ら悟浄の首に両腕を回した。己のほうへと引き寄せながら、その耳許にそっとささやく。
「口直しだけで、いいんですか?」
熱のこもる身体を、悟浄にわざと押し付けて。八戒は嫣然と笑ってみせる。
八戒の意図にちゃんと気づいた悟浄は、さらに笑みを深めた。それから、八戒の細躯をもっとと云わんばかりにきつく抱き締める。
「いーや。口直しだけじゃ足りねえから。八戒サンを食べたい」
全部。そう言い切ったいとしい男に向かい、八戒は微笑みながら彼の髪の毛に手を絡めて、貪るようなキスをした。それが返事だった。
口づけを交わして、ふたりはそのままソファに倒れ込む。その勢いで洗濯物が床に落ちたけれども、かまわずキスを続けた。いまだにミルク味がするキスを堪能しながら、八戒は胸中でそっとつぶやく。
きっと、悟浄も同じようにこっそりとつぶやいているのだろうと思いつつ。
『いただきます』
FIN
「妖狐堂」様の『2005年58の旅』へ寄稿。