最後の夜




 風呂から上がり、八戒は濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、まっすぐに居間へと足を伸ばした。
 いつもなら灯りがともされているはずのその部屋は、既に暗闇に覆われている。
 そんななか、先に風呂から上がった悟浄が、ソファにゆったりと腰掛けて、煙草をふかしていた。カーテンを引いていない窓から、わずかに月明かりが差し込んでいる。その明かりに少しだけ照らされた彼の面に浮かぶなんともいい難い表情に、八戒は短く息を飲んだ。
 まるで、何かを思い巡らすような、神妙な顔をしていた。
 八戒は入り口のところで一瞬だけ逡巡する。だが、すぐに思い直して、そのまま悟浄へと近づいた。彼の背後に立つと、八戒の気配に気づいた悟浄が顔だけを向けてくる。
「どした?」
「いえ、……隣り、いいですか」
 八戒は曖昧に微笑むと、悟浄の横を指差しながら訊ねる。
 彼はふと視線を横に流し、少しだけ身体をずらして八戒が腰掛けるには十分すぎる隙間をつくった。
「どぉぞ。めずらしいな、お前」
 こんなふうに、いくらふたり掛けのソファとはいえ、男ふたりで並んで座ることなど今までなかった。このことを指して揶揄する悟浄に向かい、八戒は苦笑するしかなかった。
「まぁ、……最後ですからね。たまには、貴方と並んで感慨にふけるのもいいかなぁ、と」
「――お見通し、ってか」
「バレバレです」
 ばつが悪げに口許を歪める悟浄を見やり、八戒はくすくすと笑った。
 そう。
 明日の朝には、この家を後にして、西へ向かう旅に出る。
 三仏神からの命だと三蔵から連絡が入ったのは、ほんの数日前。桃源郷の異変の元凶たる大妖怪の蘇生実験を阻止すべく、天竺への旅に同行することになったのだ。
 天竺までの道のりは遠い。さらに、事が事だけに、かなり危険な旅になることは明らかだった。
 次にこの家に帰ってくるのがいつかすらはっきりしない、――もしかしたら、永遠に戻ってくることはないかもしれない危険を多分に含んだ旅。
 こんなふうに、のんびりと夜を過ごすことができるのも、今晩が最後かもしれないのだ。
 明日から始まる非日常を思い、今までの日常に感慨を覚えているのは、ふたりともが同じだった。
 そんな互いの思いが、伝わるのだろう。悟浄は、隣りにいる八戒を気に掛けながらも無言で煙草を吸い続けた。八戒は悟浄を気にしつつも、まっすぐに窓の向こうの暗闇を無言で眺めていた。
 わずかな月明かりだけが部屋を照らし出すなか、ふたりは静かに佇み続ける。
 ともに過ごした三年間をなつかしむように。
「……なぁ」
 それまでの静寂をやぶるように、悟浄がおもむろに口を開いた。
 八戒はわずかに目を瞠ると、前方を見据えたまま「なんですか」と答える。
 悟浄は短くなった煙草を灰皿代わりにしていた空き缶に押し付けると、空き缶ごと足許に置いた。
「悟浄、また空き缶を灰皿に……」
「最後だから見逃せって」
「……明日からそんなことをしたら、ぶっ飛ばしますよ?」
「判った判った。気をつけマス。――って、違うだろ」
 悟浄は苛立たしげに肩まで伸びた紅髪を掻きあげると、短く舌打ちした。
「あのさ、……訊いても、いい?」
 悟浄の声音が幾分硬いものへと変化した。その声の響きに引かれて、八戒はゆっくりと横に並ぶ彼へと顔を向ける。
「だから、何を、ですか」
「――お前さ、……ナンで、ずっとここにいたの?」
 どこか言いにくそうに、けれど気になってしかたがないという口ぶりで、悟浄は言った。その質問の内容を理解した途端、八戒は大きく翠眼を瞠った。思わず息を飲み込む。
 それは、三年前になりゆきで彼の家に転がり込んでから、一度も訊かれることのなかった問い。
 確かに、最初は本当に行くあてなどなかったから、悟浄が「うちにくれば」と言ってくれた厚意にそのまま甘えるかたちになって。それから八戒のほうも落ち着き、ひとりでも暮らせるほどに回復したにもかかわらず、結果として八戒はこの家を後にすることはなかった。よく考えれば男ふたりが同居、という自然だか不自然だか判らない状況を続けるよりも、八戒がこの家を出て行くことのほうが、側(はた)から見れば自然だったかもしれない。それでも。
 八戒は、それこそ自然に、この家に留まり続けた。
 悟浄もまた、出て行けとは一言も言わなかった。けれど、八戒が何を思ってここに留まり続けたのか、悟浄に告げたことはもちろんなかった。告げるつもりなど、はなからなかった。
 それなのに。今、悟浄はその理由(わけ)を訊くのだ。
 八戒は、ふ、と息を抜いて、ソファへとうすい背中を沈み込ませた。口許に微苦笑が浮かぶ。
「それを今、訊きますか」
「今だから訊いてンだけど」
 ため息まじりに悟浄がつぶやく。八戒は天を仰ぎながら、右の掌で己の視界を覆った。まいったなぁ、と、胸中で嘆息する。
 おそらく八戒のはぐらかしには乗ってはくれないだろう、そんな雰囲気を悟浄は隠しもしないで、八戒の返事を待っていた。八戒はもう一度嘆息して、意を決したように悟浄へと向き直った。そして、ふわりと口許におだやかな笑みを刷く。
「それは、……ここにいたかったから、ですかね」
「だからナンで」
「ナンでって、」
「だから、……ナンで、ここにいたかったのかなって」
 悟浄にしてはめずらしく、突っ込んで訊いてくる。まるで八戒の真意を引き出そうと、容赦なく。
 八戒は観念したように苦笑いを浮かべた。
 最後だから、いいかと。
 諦めにも似た想いが胸をよぎる。
 それに、――聞きたがったのは悟浄のほうなのだ。これで後悔されても自業自得というものだ。
 まさに開き直りの心境で、八戒はくすり、と笑いを深めた。そのまま顔を彼に近づけ、――触れるだけの接吻を落とす。
 軽く触れただけの突然の口づけに、眼前の悟浄が呆然と八戒を見つめていた。
 突然の八戒からの行動に、悟浄はかなり驚いているようだった。そんな彼の様子に八戒は苦笑を禁じえなかった。あまりに予想通りすぎる悟浄の反応に、もう笑うしかなくて。
 八戒は困ったように笑いながら、ソファからゆっくりと腰を上げた。いまだ驚きで言葉もないらしい悟浄を見下ろす。
「つまりは、こーゆうことです」
 言いたいことだけを言って、八戒はその場を立ち去ろうとした、――その時。
 ぐい、と、八戒の右腕が下から引かれたかと思うと、気がついた時には身体ごとソファの上に仰向けに押し倒されていた。八戒の身体に乗り上げるかたちで、悟浄が上から真剣な表情で見下ろしていた。
 彼の端整で精悍な顔立ちが、くっきりと月明かりに照らし出される。
 己を見つめる悟浄の眼差しに浮かぶ、深い情を感じて、八戒は思わず瞠目した。
「……悟、浄」
「ったく、……ナンで、今、そーゆうコト言うのお前」
 そろりと、悟浄のごつごつとした大きな掌が八戒の左頬を撫でる。労わるようなやさしい手つきに、八戒はほぅ、と小さくため息を漏らした。けれど、どうしてこんな事態になっているのか。八戒もまた、困惑した表情を隠しもしないで、己を見下ろす彼を静かに見つめることしか出来なかった。
 なかなか言葉を返さない八戒に焦れたのか、悟浄はわずかに切れ長の紅眼を細めると、そっと八戒の唇に彼のそれを重ね合わせた。今度は、悟浄からもたらされたキスに、八戒はますます眼を瞠る。
 どうして悟浄が、自分にキス、を。
 混乱する頭で、八戒はぐるぐると考える。けれど、そんな余裕を与えまいとするかのように、悟浄はより深く唇を塞いだ。するりと潜り込む彼の熱いぬめりが、八戒の口内を我が物顔で蹂躙する。
 舌を探られ、きつく吸い上げられれば、そこから甘く融けるような心地すら、する。
 息苦しさに、八戒はせつなげに眉宇を寄せた。わずかな隙間から酸素を取り込もうと身を捩る。
 ここでようやく、悟浄が口づけを解いた。苦しげに喘ぐ八戒をなだめるように、こめかみに軽くキスを落とす。そのまま八戒の胸に倒れ込んだ。
「あー、もう! こんなことなら、もっと早くに訊いとけばよかった!」
「何が、……です?」
 己の胸元に、悟浄の熱い息がかかる。それだけで、ぞくぞくとあまやかな痺れが背筋を這う。正直な自分の反応に苦笑しつつ、八戒はそっと眼下の彼を見つめた。
「だってよ、俺たち……要は、おんなじ気持ちだったって、コトだろ、……ずっと」
「そうだった……みたい、ですね」
 意外な展開に、八戒は驚きを隠せないまま、ようようそれだけを口にした。
 そう、――八戒が、ここにいたかった理由は、ただひとつ。
 彼のそばにいたかったからだ。
 そして、どうして彼――悟浄のそばにいたかったのか、その理由もたったひとつ。
 悟浄が好き、だからだ。すべてにおいて、特別な存在だったから。たとえ、悟浄が八戒のことをそういう意味で好きでなくとも。ただ彼のそばにいたかったから。だからこそ、余計に言えなかった。
 自分の気持ちを伝えたところで、かえって気まずくなるくらいなら。このままのほうがよかった。
 けれど。
 最後だからと、半ば開き直りで口にした想いが、実は悟浄も同じだったとは思いもしなかった。
 期待しては駄目だと、ずっと思っていたから。逆に驚いて――そして、嬉しくて、どう言葉にしていいのか判らないくらいに嬉しくて。
 八戒はようやく実感したのか、ゆったりと口許を引き上げた。そっと悟浄の肩に双腕を回す。
「でも、悟浄。だからと言って、もっと前に訊かれても、僕はちゃんと答えなかったと思いますよ」
「八戒?」
 悟浄がゆっくりと上体を起こし、再び八戒を見下ろすかたちとなる。
 八戒はそろりと彼の傷痕に指を滑らせ、笑みを深めた。
「最後だから、そう思ったから言えたんです。明日からはどうせそれどころではなくなりますしね。万一気まずくなってもなんとかなるかなぁ、って」
「お前ね……」
 悟浄の呆れまじりのつぶやきが漏れる。
「でも、悟浄も同じだなんて思いもしなかったから。――嬉しい、ですよ」
 この想いをどう言葉にしていいのか、判らないくらいに。
 八戒はいとおしげに悟浄の頬を撫でながら、くすりと笑み崩れた。
 そんな八戒の笑みに見惚れるように、悟浄は短く紅眼を眇めると、ぎゅっときつく痩躯を抱き締めてきた。思わず息が詰まるほどのきつい抱擁に、八戒は大きく眼を見開いた。知らず甘い吐息が零れる。
「……っ」
「なぁ、……お前が欲しいんだけど、……イイ?」
「今、ですか?」
「そう、今。……最後に、ここで」
 悟浄の熱い吐息が耳朶を掠める。その響きに、八戒の痩身がふるりと震えた。
 ぎゅうぎゅうと、己を掻き抱く悟浄の身体の熱さに引き寄せられるように、八戒もまた彼の背を抱き締め返す。
「いいですけど、……これが最後、なんていうのは無し、ですよ?」
 八戒の言葉に、悟浄は弾かれたように顔を上げた。
 そして、にやりと意味深に笑い返して、八戒の鼻先に軽く唇を寄せる。
「確かに、ここでの最後の夜だけどさ。――俺たちにとっては、"はじまり"の夜、でもあるだろ?」
 八戒は一瞬泣き出しそうに顔を歪めたが、すぐに艶やかな笑みを浮かべて、悟浄へと微笑みかけた。
「そぉです、ね……」
 最後だけど、最後じゃない。
 ふたりにとっては、最後だけど、始まりでもあると。
 そう言ってくれた彼に、八戒は己の想いを明け渡すために、しなやかな両の腕を伸ばした。


 ふたりだけの最後の夜を、ともに過ごすために。


 そして、始まりでもある甘い夜を。
 ―――ふたりで。








FIN

「妖狐堂」様の『2004年58の旅』へ寄稿。

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