ふたりぼっち




 この世界が、こわれるまで。
 このまま、貴方と、たったふたりきり。
 それは、――なんて甘美で、なんて残酷な。




 三ヶ月に一度の、寺院内の掛かりつけの医師による義眼の定期健診も終え、八戒は去り際に三蔵の政務室へと顔を出した。
 すると、八戒が声をかける前に、三蔵は机に向かって何やら忙しげに筆を走らせながら、顔は上げずにきびしい口調で問いかけてきた。
「――お前らは問題ねぇのか?」
 その声音のするどさに、八戒はぴたりと、入り口の扉に手をかけたまま動きを止めた。
 彼の言う“お前ら”とは、すなわち、八戒と――。
「えぇ、今のところは。悟浄も特に変わった様子は見られませんし」
 後ろ手に扉を閉めながら、八戒はゆるりと唇をつり上げて、うすい笑みをその端整な口許にはりつけた。
 いきなり単刀直入に訊きたいことを訊いてくる辺りが三蔵らしくて、八戒はくつくつと肩を震わせる。
「……ナニ笑ってんだテメェ…」
 三蔵はそこでようやく筆を所定の硯箱へと収め、不機嫌全開の面できつく八戒を睨んだ。やっと自分のほうへと顔を向けた彼に、八戒はとどめの笑顔で応じる。
「いいえ。もしも、僕が凶暴化していたら、わざわざこんなコトを訊いてる場合なんかじゃないですよね、と思っただけです」
「……うるせぇよ」
 八戒のもっともな指摘に、三蔵は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、苛立たしげに袂から煙草を取り出して口に咥えた。慣れた手つきでその先に火を灯し、わざと吐き出すように紫煙を燻らせる。
「最近、僕たちの住む町でも、突然何人かの妖怪が暴走して大変だったようですよ。それは、長安(ここ)でも同じでしょうけど」
「まぁな」
 八戒は口許に笑みを浮かべたまま、じっと眼前の最高僧を凝視した。三蔵はその視線に気づいているのかいないのか、八戒とは眼を合わせないで思案げに煙草を吸うだけで。
 八戒はそれでも彼から目線をそらさないで、ため息混じりに口を開いた。
「いったい、何が起きているんですか?」
「知らねぇな」
 まるで自分には関係ないと云わんばかりの突き放した物言いに、思わず八戒は胡乱げに眉宇をひそめた。
 三蔵は短くなった煙草を灰皿に押し付け、正面に立つ八戒を見据える。
「三蔵」
「こうもいきなり妖怪が凶暴化するなんざ、ぜってーナンかあるに決まってんだろうが。ま、ここまで事態が大きくなっちまったら、近いうちに三仏神が動くだろうよ。で、コトがコトだし、どーせ俺が動くことになるんだろうが……。そうなりゃ、下手すると貴様らの顔も見納めか、と思ってな」
「どういう意味ですか、それ」
 どうも三蔵から相当ひどいことを言われたような気がするのは、気のせいではないだろう。苦笑を通り越して呆れの笑みを浮かべた八戒に、三蔵はけ、と、吐き捨てるように舌打ちした。
「お前らが絶対暴走しない保障なんてねぇだろうが。……あのバカ猿も含めて、な」
 三蔵の言葉に、八戒は小さく瞠目した。
 そして、あえて目をそらしていた事実を突きつけられたその衝撃に、思わず目を細める。どこまでも単刀直入な彼の物言いに、かえって腹の底から哂いがこみ上げてくるようだ。
「まったく、……容赦ないですよね、三蔵は」
「ったく、テメェらが甘いんだよ」
 嫌そうに柳眉をしかめる三蔵に向かい、八戒はますます含み笑いを深めた。
 そう、――確かに、三蔵の言う通りなのだ。
 ここ数週間のうちに、当たり前の光景のように身の回りで見られるようになった妖怪の突然の凶暴化。それまで、人間とともに共存していた妖怪たちすらも、ある日突然精神が暴走して、人間を襲い始めることが日常になりつつある。
 人間とともに生活をしている殆どの妖怪は、普段は妖力制御装置と呼ばれる金属製の装着物を、常に身体のどこかにつけているため、一見、人間と見た目は変わらない。だから、それまで人間だと思っていた人物が突然自我を無くして人間を襲うその事実に、ひとびとの間でもまた必要以上に警戒しあう悪循環が繰り返され。次第に、桃幻郷とは名ばかりの世界に変貌していることは、違えようのない現実となりつつあった。
 もちろん、八戒と悟浄が暮らす町も、例外ではない。そして、八戒と悟浄自身も、また。
 妖怪の凶暴化の原因が判らない以上、八戒自身、手の打ちようがないとは思う。けれど、今は確かに正気でも、この先――そう、一刻先ですら大丈夫であるという、確かな保障などないのだ。
 それを指しての三蔵の台詞に、八戒はただ肯くしかない。
 けれども。
 八戒はともかく、他の二人は違うと。そう思ったから、八戒はふいに口許を緩めた。
「でも、僕はともかく、悟浄と悟空は大丈夫なんじゃないですか? ほら、悟空ははっきりいって、本当のところ妖怪ではないのかもしれませんし、悟浄は半分だけ、でしょう。見た目は人間の血のほうが濃いようですしね」
「じゃあ、お前は大丈夫じゃねぇのか」
 曖昧な笑みを刻み続ける八戒の白貌がかえって三蔵の苛立ちを深めるようで、それを紛らわせるためにか、彼は再び煙草を吸い始めた。そんな三蔵の様子に、さすがに八戒も苦笑いを浮かべる。
「僕は、もう三年以上も前から既に正気じゃないですから、――暴走もナニもって感じですか?」
 ふと、三蔵の動きが止まった。
 そのまま、紫暗の双眸をゆっくりと八戒へと向けてくる。その瞳に浮かぶ苛烈な感情の色に、八戒はわざとらしくにこりと微笑んでみせた。
「お前……」
「だから、心配はいりません。多分、このままでは近いうちに自我を保っている妖怪は僕たちだけになってしまうのかもしれませんが、三蔵は三蔵の勤めを果たされたらいいかと」
「……ひと事だと思ってるだろ貴様」
「さすがに三仏神からの依頼でも、この事態を僕たちに押し付けるわけにはいかないでしょう?」
 約二年半、三仏神からの面倒な仕事はすべて三蔵から押し付けられていた、その含みをこめて言えば、言葉で反論はせず三蔵はきつく眦を眇めて八戒を見返してきた。それに、八戒はくすくす笑いで返す。
「まぁ、こんな事態ですし、くれぐれもお気をつけて。何かあったら連絡ぐらいはくれるとうれしいかなあ」
「心にもないことを……」
「それはお互い様ですよ、三蔵。それでは、また」
 八戒は、三蔵に向かい軽く礼をして、あえていつも通りの挨拶を口にする。それから、部屋の扉の取手に手をかけた、その時。
「で、お前らは、今後どうするんだ?」
 三蔵の問い掛けに、八戒はゆっくりと彼へと振り返った。そして。
「今後、ですか?」
 その質問の真意が、八戒の想像通りならば。
 その、答えは。
「ああ」
 じっと、射るような視線を向けてくる三蔵に、八戒はうっすらと微笑んでみせた。
 その、答えなど、――決まっている。
「僕は別に今のままで十分ですけどね」
 八戒の答えに、三蔵は一瞬目を瞠ったが、ふいに視線を外すと深々と嘆息した。それから、中断していた仕事を再開することにしたのか、再び筆を手にして机に向かい始めた。
「――ったく、どこまでもバカだな、お前」
「褒め言葉として受け取っておきます。それでは、また」
 顔を上げようとしない三蔵に、それでも軽く頭を下げて、八戒は静かに退出した。音を立てないように、扉を閉めてから、ようやく詰めていたらしい息をゆるゆると吐き出す。
 三蔵の言葉から、嫌でも感じた、この世界の異変の深刻さ。
 自分の周りで、自分とは与り知らないところで、日々変化する世界、そして日常。
 けれど、今の八戒にとって、そんなことは取るに足りないことなのだ。そう。
 “彼”さえいれば、――それで。
 その事実をあらためてつきつけられたことに、八戒はふいに、くつくつと喉を震わせて嗤い始めた。こんな事態になってもなお、自分は何も変われないことに、自嘲の笑みすら浮かべながら。




 八戒が長安から悟浄と二人で暮らす家まで帰りつくと、もう夜だというのに家の明かりは灯ったままだった。
 ということは、今晩、悟浄は出掛けずに家にいるということなのだろう。そのことに奇妙な安堵感を覚えて、八戒はそんな自分自身に対して失笑する。そして、ゆっくりと玄関の扉を開けた。
「ただいま帰りました」
「おー、お帰り」
 玄関を開けてすぐ、ダイニングとリビングが一間続きになっているそのリビングのほうに置かれた二人掛けのソファに、悟浄はだらしなく腰掛けていた。八戒の声に反応して、くるりと、顔だけをよこす。
「今日は出掛けなかったんですね」
「気分のらねーからパス」
 八戒は苦笑しながら、上着を脱いで食卓用の椅子の背にかけた。いつも通りの会話。変わらない日常。
 そう、――悟浄とは。
 まるで、桃幻郷の異変などまったく感じさせない、二人の日常そのもの。
「じゃあ、夕御飯まだですよね。ちょっと待って下さい、いそいで作りますから」
 八戒がつとめていつもの調子で台所に向かおうとした、その時。
「今日さ、趙羽のヤツが暴走しちまったの」
 ふいに呟かれた悟浄の言葉に、八戒はつ、と、足を止めた。
 神妙な面持ちのまま、顔だけを悟浄のほうへと向ける。この位置からでは、ソファは背中側を向いていて、そこへ腰掛ける悟浄の表情は見えない。
「趙羽さんって、……確か悟浄の博打友達でしたか」
「そ。たまたま、な。お前に頼まれた買物しに市へ行ったらさぁ、たまたまそこへ来てた奴がいきなり。もー、びっくりしたのなンのって」
 くつくつと喉奥で引きつれたような笑いを零しながら、悟浄はそれでもいつもと変わらない口調で話しを続ける。
「……」
「キれた瞬間っつーの初めて見たけどさ、アレ、ホントにいきなりなんだな。それをすげー冷静な目で見てた自分が一番どーかしてたのかもしれねぇけど」
 悟浄のそれが、次第に自嘲まじりの声音へと変わった。八戒はそろりと悟浄へ近づくと、ソファの背凭れに手をついてその横に立つ。上から見下ろす形で見た彼の表情は、何を考えているのか窺いしれない複雑なものだった。
「それで。結局、どうしたんですか?」
「どうしたもナニも。あっという間に人間襲って、気がついたらどっかいなくなってたなアイツ」
 何気なく言葉にしつつも、多分、悟浄がその友人に手をかけたのであろうことは、八戒にも容易に想像がついた。彼からかすかに香る血の匂いに、八戒はわずかに柳眉をひそめる。
 彼がこういう言い方をする時は、たいてい八戒の想像以上に堪えている時だった。元々薄情に出来ている八戒には想像もつかないほど、深く。
 そんな時、八戒には悟浄にどんな言葉をかけていいのか、未だによく判らなかった。何を言っても、上っ面だけの、ろくでもないことしか言えない。
 だから。
「そうですか。――そういえば、今日、三蔵に開口一番『お前らは問題ないのか』って訊かれましたよ」
 あえて、そこから話をそらすように、さりげなく別の出来事を口にする。しかし、八戒の口から“三蔵”という単語が漏れた途端、悟浄は思い切り嫌そうに顔をしかめた。
「どうもこうも、お前がどうかなってたら、それ以前に生臭坊主どもがただじゃすまねーだろ」
「そうですよねぇ。僕も、思わずそう言い返しちゃいましたけど」
 くすくすと、小さく笑いながら言葉を返した八戒を、悟浄はじっと上目使いに見つめてきた。なんだかあまり悟浄の機嫌はよくないようだと、八戒が思った途端。
「――ぅ、わっ!」
 ふいにソファの背凭れについていたほうの腕を引かれ、突然のことに八戒はバランスを崩して、そのまま悟浄の懐へと倒れ込んだ。八戒が抗議の声を上げる前に、ぎゅっと、その痩身が悟浄の胸内に抱き込まれてしまう。
 息も出来ないほどのきつい抱擁に、八戒は目を見開いたまま、ぴたりと身動ぎを止めた。途端、とくりとくりと、悟浄の鼓動が八戒の耳を打つ。それに身を委ねるように、八戒は身体の力を抜いた。
 悟浄の様子がどこかおかしい。
 ただ無言で八戒を抱きしめ続ける悟浄に、八戒はその懐でおとなしくしていることしか出来ない。こんな時にかけるべき気のきいた言葉ひとつも思いつかない八戒にとって、この沈黙はただ苦くて、やるせないばかりだった。
「このまま、いつかお前もおかしくなっちまうのかと、思った」
 ぼそりと、悟浄が抑揚のない声音で呟いた。ぴくりと、八戒の肩が揺れる。
「そうかもしれませんね」
 すると、一瞬、八戒の背に回された悟浄の腕の力が緩んだ。その隙に、八戒はそろりと悟浄の腕から抜け出す。ここでようやく、正面から悟浄を見た。
「八戒」
「でも、僕は貴方と会う前からもう、とっくにおかしいのに。――今さら、ですよ」
 ふわりと、穏やかでありながらどこか狂気の色をその翠眸に湛えて、八戒は微笑んだ。その笑みを目の当たりにした悟浄が、大きく目を瞠った。そして、くつりと、大きく肩を震わせて笑い始める。
「そっか。……そうだよな、お前」
 くつくつと嘲笑を浮かべる彼を見つめながら、八戒はさらに唇の端をつり上げて笑った。
 確かに、お互い妖怪である以上、いつかその日は来るかもしれない。
 けれど、人間でありながら、過去に似たような状況を経験したことのある八戒は、自分は“何かの影響”を受けて、そう簡単に暴走したりはしないだろうという奇妙な自信があった。
 八戒にとって、一番こわいのは、そんなことではないから。
 そんな些細なことでは、きっと暴走したりはしない。八戒にとっては、むしろ、目の前のこの大切な存在を奪われた時のほうがよほどどうなるか判らないと、思う。
 たとえ、このまま、すべての妖怪が凶暴化して。
 悟浄とたったふたりで、取り残されたとしても。悟浄さえ、いれば。
「ええ。だから、このままだと、まともな妖怪は僕と悟浄だけになってしまう可能性が高いですね」
 ふと、悟浄は笑いを止め、真顔で八戒の顔を凝視した。
 二人の視線が、静かに交錯する。
 悟浄はほんの一瞬だけ、何か思うところのあるような含み笑いを口許にはいて、そのまま再度眼前の八戒を抱きしめた。こつんと、八戒の肩に己の額をのせる。
「……お前とふたりぼっちなら、いいや……」
「悟浄……」
 思い切り切なさを滲ませて、悟浄がかすれ声で呟く。その声音の響きに、つきんと、八戒の胸が痛んだ。
(――うそつき)
 八戒は、本当に悟浄さえいれば、この世界に悟浄とたった二人きりでも全然かまわない。
 だが、彼は。
 悟浄はきっと、本当にそんな状況になったら、耐えられないような気がするのだ。世界のすべてが互いだけで成り立つ閉鎖された世界など、普通の精神状態をもつひとならば、きっと耐えられない。
 それでもいいと、それだけでいいと心底思える八戒のほうが、やはりおかしいのだ。
 悟浄の言葉のなかに、その切なさの含みを思い切り感じて、八戒は自嘲ぎみに微笑みながら、そろりと両腕を悟浄の背にまわした。うっとりと、口許にやわらかな笑みすら浮かべて、顔横にある悟浄の頬に口づける。
「僕は。貴方と、二人きりなら本望ですよ」
 むしろ、このままずっと、この壊れかけた世界に、悟浄と“ふたりぼっち”なら。
 本当は悟浄がそんな事態を望んでいないと判っていてなお、口にせずにはいられない自分はどこまでもどうしようもない奴だと思いつつ、それでも八戒は微笑んだ。
 八戒の笑みに惹かれるように、今度は悟浄のほうから、八戒の顔中にそろりそろりと軽くキスを落としてくる。最後に、軽く唇同士を触れ合わせて、悟浄はそのまま八戒の痩躯をソファの上に押し倒した。
「悟、浄?」
「悪ィ。……甘えさせて」
 上から見下ろす形で八戒を見つめる悟浄の表情は、まるで今にも泣き出しそうな風情にも見えた。
 八戒は、ゆっくりと右腕を上げて、自分の躯の上に覆い被さる彼の頬に走る傷跡に指を這わせた。ふわりと、あわい笑みを刻んで目を細める。
「いいですよ。……ここには、貴方と僕の二人しかいないんだから、好きなだけどうぞ」
「……ンなコト言うと、つけあがっちゃうぜ?」
「どうぞ、って言ってるじゃないですか……」
 八戒の艶やかな笑みに誘われるように、悟浄は勢いのまま、今度は激しく唇を合わせてきた。最初から性急に貪欲に求めてくる悟浄と同じだけ、八戒も全身で彼のすべてを求める。
 悟浄の切なさも、悟浄の迷いも何もかもすべて受け止められる悦びに、歓喜の笑みを浮かべて。




 例え、この世界がこわれても。
 貴方とふたりきりなら、それすら本望だと。




 このまま永遠に、ふたりぼっちのまま。








FIN

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