イミテーション




「そういえば、今日、噂の彼に助けてもらったのよ」
 悟浄へとグラスを差し出しながら、目の前の女性――麗霞(リーシア)は、くすくすと笑み零した。
 その笑みに何やら意味深なものを感じた悟浄は、なみなみと酒の注がれたグラスを口にしつつ、カウンター越しに向き合う彼女を上目遣いに軽く睨めつける。だが、麗霞と名乗るこの店の女主人は、さらに微笑みを深めただけだった。
 今晩は、行きつけの賭場で軽く稼いだ後、ふいに立ち寄りたくなって、悟浄ひとりで麗霞が構えるこの小さなバーに足を向けた。そう頻繁に訪れることはないものの、たまにひとりで酒を飲みたくなる時にきまって足を運ぶ、悟浄にとってある種特別な場所であった。
 それでも、このかなり狭い店内で、何故か、知り合いと顔を合わすことはほとんどない。
 それは、来るたびに悟浄は不思議に思っていたが――何しろ、この麗霞という女性をこの界隈で知らない者はいないと言われているほど、いろいろな意味で“この町の夜の顔”と呼ばれている女性らしいので――、けれどもこの人気のない店内の雰囲気を悟浄は非常に気に入っていたので、その辺りは深く考えないようにしている。
 そして。
 店の扉をくぐり、今晩の客は悟浄だけらしいことを目で確認してから、カウンターに腰掛けていつもの酒を注文した途端、まず麗霞が口にしたのが、先ほどの台詞だったわけで。
「噂の彼ってナニ」
 なんとなく麗霞の云わんとしている意図は判るものの、その言い方に嫌な含みを感じた悟浄は、わざとらしく声を抑えた調子で返した。麗霞は、ますます愉しげに口許をつり上げる。
 多分、実年齢はかなりいっているのではないかと思われるが、まさに目の前の女主人は典型的な年齢不詳そのものだった。そのどこかあどけなさすら湛えた笑みに、悟浄は嫌そうに顔をしかめる。
 麗霞が、こんなふうにわざとらしく微笑む時は、何か思惑があるのだ。それも、悟浄にとって、あまり都合のよろしくない類の。
「ほら、緑の目の綺麗な顔した悟浄の同居人さんのことよ。緑の瞳はめずらしいからすぐに判ったわ。八戒さん、で合ってるわよね」
「……助けてもらったってナニが」
 彼女の言葉をわざとはぐらかすように、悟浄が言う。
 麗霞は、ふ、と、軽く息を吐いて、ゆっくりと悟浄を見つめた。
「実は、昼にいつも通り買い物に出かけたら、ここに向かう帰り道で三人ほどのチンピラに絡まれちゃったのよ」
「――よりにもよって“麗大姐(リーターチェ)”に絡むなんざ、そいつらぜってー他所モンだな」
「お黙り。――そしたら、いいタイミングで彼が現われてね、あっという間にやっつけちゃって。たまには、あんなふうに守られるのもいいもんだなぁって思っちゃったわ。それもイイ男に」
「あ、そ……」
 確かに、八戒なら、その程度の雑魚相手ならばあっという間に片付けてしまうだろう。それこそ、赤子の手を捻るように。涼しげな笑みすら浮かべながら。
 きゅっきゅっと音をさせながら、麗霞はグラスを布巾で拭き始めた。視線を手元に落としたまま、伏目がちに麗霞はつぶやく。
「多分、例の彼だと思ったから、ちょっと話しかけたのね。いまだにアンタと同居しているってどんな男だろう、と思ってたけど……。なんていうか、むずかしいひとね、彼」
 その言葉に、悟浄はふと、動きを止めた。彼女に気づかれないよう、わずかに目を瞠る。
 一度顔をあわせただけで、的確に相手の質(たち)を見抜く辺りが、さすがというべきか。
 まったくあなどれない女だと、悟浄は内心でため息をつきつつ、徐に酒を一気に煽った。
 そして、ちらりと、麗霞を見やる。
「当たってるんでしょ?」
 悪戯に成功した後のようなどこか愉快げな笑みを、麗霞は浮かべていた。悟浄はこれ見よがしに深々と息を吐いた。
「んー、まぁな。むずかしいっつーかワケ判んないっつーか面倒くせーっつーか」
「要は不可解ってことよね」
「不可解、ねぇ……」
 共に暮らし始めて一年もたつというのに、いまだに判らないことだらけだ。悟浄にとって、八戒という男は。だから、実際のところ、そのひととなりを「不可解」という単語ひとつで括りきれるかどうかすらあやしいものだと、悟浄はため息混じりにつぶやいた。
「ただねぇ。彼、いつもあんなふうに笑ってるの?」
 コツ、と、麗霞は優美な仕種でカウンターにグラスを並べていく。それを何とはなしに目で追いながら、悟浄は懐から煙草を取り出した。麗霞が自然な仕種で火を差し出すのを、慣れた手付きで受け取る。
「ああ、アイツ、いっつも笑ってンな。も、初めて会った時から」
「そう。……なんというか、さみしい笑顔よね」
 麗霞は微苦笑を浮かべながら、ぽつりと言葉を漏らした。
 悟浄は一瞬、虚をつかれた表情を浮かべて、無言で煙草の先を灰皿に弾いた。零れ落ちる灰を見ながら、ふと脳裏に、八戒の笑みがよぎる。
 さみしい笑顔、とは、よく言ったものだ。
 確かに、あれは、笑っているけれど笑っていない。そう、笑みを形どっているだけ。
 唐突に、悟浄は椅子から立ち上がった。そして、麗霞に向かい、すまなさそうに口の端を軽く上げてみせる。
「急でワリ。今日は帰るわ。コレ、つけといて」
 突然席を立った悟浄を、女主人は特に驚くことも咎めることもなく、むしろ飄々とした笑みを絶やさぬまま、にこりと目を細めた。
「そうね。早くお帰りなさい。……八戒さんに、よろしく」
 すべてを見透かしているような、婀娜めいた笑みをその口許に浮かべて、麗霞はカウンターから悟浄を見送った。その意味深な視線から逃れるように、悟浄は女主人に挨拶代わりに軽く手を上げた。そして、するりと身を翻して店を後にする。
 ――そう。
 とにかく、今、無性に八戒の顔が見たくなった。
 多分、今晩もまた笑顔で出迎えてくれるであろう彼の表情を見て、――無性に問い詰めたく、なった。
 悟浄は、そんな自分の感情が一番不可解だと思いながら、それでも自宅へと足を運ぶ。
 何よりも、そんな不可解な感情を抱かせる相手――八戒に惚れている己自身が一番始末におえないと、思いながら。




 夜に出掛けた時はたいてい日付が変わってから帰宅するのが常であるが、今日はいつもよりは早めに切り上げたせいか、悟浄が家にたどり着いた時はまだ0時までそれなりに余裕のある時間だった。
 多分、この時間なら、八戒は寝てはいないだろうと思っていたら、案の定彼は居間のソファに腰掛けて読書をしている真っ最中だった。だから、悟浄の姿を認めた途端、八戒は少しだけ驚いたふうに目を瞠ったが、すぐににこりと、いつもの笑みをその白貌に貼り付ける。
「お帰りなさい、悟浄。今日は随分と早かったんですね」
 あまりに予想通りの笑顔を向けられて、悟浄は胸中で嘆息しながらその想いをごまかすように、肩まで伸びた緋色の前髪をくしゃりと梳き上げる。そして、ちら、と、八戒を一瞥した。
「気分のらなかったからさ。それだけ」
「……そういう時もありますよねぇ。コーヒーか何か飲みますか、悟浄?」
「んー、じゃあ、紅茶」
 この家に、紅茶など常備されてはいない。
 判っていてあえて口にした悟浄に対し、八戒はさらに感情の読めない笑みを浮かべた。普通なら、怒り出しそうな悟浄の勝手な要求に、けれど八戒はうっすらと微笑むだけだった。
「仕方ないですねぇ……。この家に、今紅茶はないんですよ」
 知ってるけど。
 と、悟浄は思ったが、それはあえて口にはしなかった。ただ、ここで八戒の別の表情も引き出してみたいと思っただけなのだ。それで、わざと言ってみただけのこと。
 なのに。こんな時ですら、八戒は笑う。
 確かに、戸惑いとか、多少の怒りのような感情らしきものは伝わってはくる。けれど、その面に浮かぶのは、常に笑顔。こうして、一年近くを共に暮らした悟浄ですら、彼のそれ以外の表情が思い浮かばないほど、彼はいつも笑っている。
 そして、その笑みは、訳もなく悟浄を苛立たせた。
 最初は、まだよかった。己に向けられるこの笑顔に、確かに惹かれたのは悟浄自身で。日々の生活の中で、こうして当たり前のように笑顔を向けられる経験などなかった悟浄にとって、八戒のこの笑みは、悟浄にとってある種やすらぎのようなものをもたらしてくれた。それを心地よいと思うことさえ、ある。
 だが。
 彼と同じ時間を共に重ねていくにつれ、悟浄の中で逆に疑問もふくらんでいった。
 八戒は、いつもいつも笑っているけれど。
 その笑みは、はたして、本物の笑顔なのか、と。
 そういえば自分は、彼の心からの、素の笑顔というものを、本当は見たことがないのではないかと、悟浄は思った。実際思い返してみても、彼の笑顔は、常につくりものめいたふうに見えた。
 日常ではあまり意識にのせないようにしているこのことを、先ほどの麗霞の「さみしい笑顔」という一言で思い出してしまった。それで、急に気になって、店を出た。まったくをもって衝動的な自分に、悟浄は自嘲すら浮かべた。
「――あのさぁ」
 悟浄は、困ったように微笑みながら自分を見つめている八戒に、ゆっくりと近づいていった。台所へ向かう途中で立ち止まったかたちになった八戒は、食卓の前にたたずんでいる。悟浄は、ガタンと音を立てながら食卓用の椅子を引いて腰を下ろした。じっと上目遣いに、八戒を見据える。
「ナンで、いっつも笑ってンのお前」
「――」
 悟浄の問い掛けに、八戒は一瞬だけ大きく目を見開いた。めずらしい、彼の判りやすい驚きの表情に、悟浄もわずかに双眸を眇める。だが、それもすぐになりを潜めて、またいつものうすい笑みを八戒はその口許に刻んだ。
 そして。
「なんでと言われても、」
 八戒は、感情の読み取れない曖昧な笑みを湛えて、立ったまま見下ろすかたちで悟浄を凝視した。
 そう、こんな時ですら、彼は笑う。
 こうして、つくりものの笑みばかりを、悟浄に対しても向けてくる。
 それが何よりも――。
 そこまで考えて、悟浄はふと、我に返った。
 つまり。
 こんなにも、八戒の笑顔に囚われているのは、自分自身で。そして、ここまでその笑顔にこだわるのは、つまりは。
(――欲しい、んだ)
 自分にだけ向けられる、笑顔が。
 こんな誰にでも向ける、つくりものめいたものではなく。
 ようやく明確に気づいた己の感情の根源に、悟浄は茫然と、八戒を見つめ返した。そんな悟浄に対し、八戒はさらに笑みを深めて、そっと目を伏せる。
「貼りついちゃってるんですよねえ……、実はコレが。あの時から、ずっと、剥がれることなく」
「……」
 悟浄は、返す言葉が見つからないまま、じっと八戒を見つめ続けた。八戒はそろりと顔を上げると、悟浄と目を合わせた途端、ふうわりと自嘲めいた笑みをはいてみせた。
「それでもあえて理由を言うなら、せめて笑ってでもいないとやってられない、とでも思っていたということにさせて下さい。……呆れましたか?」
「イヤ」
 あまりに八戒らしい理由で、かえって返す言葉が浮かばないくらいだ。
 ここに至るまでの、彼の凄惨な過去の出来事を知る身としては、それも納得出来てしまうくらいには。
 しかし、それでも、と思う自分はどこまでもどうしようもないと、悟浄はふいにくつくつと喉を震わせて嗤った。そして、徐に手を伸ばして、訝しげな視線を向けてくる八戒の左手を握り込む。
「……悟浄?」
「今でも、そう思ってンの?」
 互いの手で繋がったまま、視線と視線がぶつかり合う。
 八戒は、ちらりと、悟浄に握りこまれている自分の手へと視線と落とした。途端、ゆったりと口の端を上げた。それは、悟浄が思わず瞠目するほど、凄絶な笑みだった。
「今は、………別の意味で、笑ってでもいないとやってられないってトコですか?」
「別の意味、ってナニよ?」
「……さぁ?」
 にこりと、涼しげに笑いながら、だが目はちっとも笑っていなかった。こういう笑みを浮かべている時の彼は、たいていその真意を悟浄には悟らせないよう、いつも以上に笑顔という壁を作っている時で。
 その笑みに、再び、悟浄の胸裡に不可解な感情がわきあがった。
 その想いに突き動かされるように、悟浄は握り締めていた八戒の手を、ぐいと自分のほうへと引っ張った。わずかに八戒の体が己のほうへと倒れ掛かってきたのを目で捉えながら、悟浄自身も伸び上がって顔を彼へと寄せる。
 自然と、八戒が悟浄に覆い被さるような体制になった。
 無理な姿勢に、それでも至近距離で顔を合わせ、悟浄はニッと口許を歪めて、わざとらしく笑みを形づくった。互いの息遣いすら如実に感じる距離に、八戒は微苦笑を浮かべながらゆっくりと体を離そうとする。それを逃すまいと、悟浄は無理やり己の唇を相手のそれに押し当てた。
 今はこういう形でしか、八戒に気持ちをぶつけることしかできないけれど。
 それでもいつか、思い続ければ、望むものが手に入れられるのだろうか。
 触れ合う唇から悟浄の迷いが伝わったのか、最初はただ悟浄の口づけを受け止めるだけだった八戒が、自ら深く唇を重ね合わせてきた。それを合図に、角度を変えて何度も何度も深く貪り合うような接吻へと変わっていく。





 そして、悟浄は、居もしない信じてもいない“何か”に向かい、それでも祈るように胸中でつぶやく。





 ―― 本物が、欲しい。
 自分にだけ向けられる、本物の笑顔を。
 どうか。

 どうか。














FIN

『Fetish Festival 58』参加作品。

inserted by FC2 system