ファンタジア




「あー、かったりぃ……」
 心からのぼやきは、凍てついた空気の中へとたち消える。
 悟浄は大きな紙袋を抱えて歩いていた足を止めた。そして、すぐそばに見えた、すでに店じまいをしている小さな店先の軒下のわずかな段差に腰をおろす。
 冬の日暮れは早い。今は陽が蔭り出した程度でも、あっという間に夜の帳が訪れてしまうに違いない。
 そろそろ宿に戻らなければ、八戒の恐い笑顔に出迎えられることになる。
 綺麗な笑貌ながら、その実まったく瞳が笑っていないという――顔立ちが端整で美人だからかえって凄みが増しているともいえよう――悟浄にとって色々な意味での特別である青年の顔を思い浮かべ、わずかに眉をしならせた。
 こんな日に、その青年――八戒の機嫌を損ねるのは得策ではない。
 そう――折りしも、悟浄たち四人がタイミングよく昼前にたどり着いたそれなりに大きな町で、今日がいわゆるクリスマス・イブだと偶然知った。
 とはいえ、三蔵は仏道に帰依する身で、異教の宗教行事に関心があるはずもないから、クリスマスだからといって特別に何かをする予定があったわけでもない。だが、せっかく、この日に宿に滞在できるならクリスマスらしく少しだけ夕食を奮発しましょうと言い出したのは、意外にも八戒だった。
 どうして八戒がそんなことを口にしたのか、その真意は悟浄にも判らない。ただ、この町に到着してからあちこちの店で目にしたクリスマスの定番らしい豪華な料理の数々に、悟空が今にも飛びつかんばかりに黄金の瞳を輝かせていたから、おそらくそんな悟空を見た八戒がこんな日くらいは、とでも思ったのだろう。実際、八戒は悟空には相当に甘い。
 そこで、そのとばっちりを受けているのが悟浄なのだから、なんとも釈然としない気持ちになるのもいた仕方ないことなのだ。
 常ならば、悟浄と八戒という組み合わせで買出しに出掛けるものを、その少しだけ豪華な夕食のために八戒が早くから仕込みにかかっていて、今日の買出しは悟浄ひとりでおこなうことになってしまった。しかも、こんな時に限って、あれもこれも購入しないといけないのだから、結構な荷物になってしまい骨が折れることこの上ない。
 悟空がいればまだマシだったのかもしれないが、彼は別途、八戒から用事を言い遣っていたから立場的には悟浄とさほど変わらなかった。
 それでも、八戒が手掛ける即席ローストチキンにありつけることを思えば、悟空はどんな用事も難なくこなしそうだが。
 悟浄は短くため息を洩らしながら、腕に抱えていた買出し荷物を下に置いた。
 あと一ヶ所、一番の大荷物である燃料の買出しが残っていた。その大仕事を前にここで一服でもしなければやってられないとばかりに、悟浄はジャケットのポケットから煙草を取り出した。そして、火を点けるためにライターを取り出そうとズボンの尻ポケットを漁る。
「……アレ?」
 いつもならそこにあるはずのライターがない。
 となると、違うポケットに入れたのかと心当たりをいくつか探せど、目的の物は見つからない。それでも諦め切れずに再度思いつく限りのポケットに手を突っ込んでごそごそと漁ってみるものの、やはりどこにも見当たらなかった。
 どこかで落としたのか、それとも宿に残されたままなのか。
 いずれにせよ、火元がないということは、今煙草を吸うことは不可能ということだ。ほんのささやかな一服の時すら奪われたことに、悟浄はがっくりと肩を落とした。もしかして、これを見越して、八戒がライターをわざと抜き取ったのではあるまいか、と後ろ向きな邪推すらしかけたその時のこと。
「マッチ、買わない?」
 ふいに頭上から降ってきた幼い声に、悟浄はゆるゆると顔をあげた。
 すでに辺りはかなり薄暗くなっていて、いつの間にか悟浄の前に立っていた声の主たる少年の顔も逆光でよく見えない。悟浄はわずかに紅眼を細めながら、目の前の少年をじっと見つめた。
「……ナニモンだ、ボーズ?」
 悟浄のどこか警戒を滲ませた声音にもひるむことなく、少年はなおも口を開く。
「だっておにーさん、その煙草を吸いたいのに火がないように見えたからちょうどいいやと思って」
「……」
 まったくをもってその通りである。悟浄は返す言葉もないまま、少年を見あげた。
 歳のころは七つ、八つくらいだろうか。どちらかというと貧相な身なり。この寒空の下だというのに、かなりの薄着である。無造作に伸ばされた髪の毛が顎のあたりまでかかっており、その幼い面にはところどころに痣が見られる。
 ……まるで、数年前の“誰か”を彷彿とさせた。
 悟浄はかすかに眉宇をしかめた。一瞬だけ痛々しげに口許を歪めたが、それはすぐになりを潜める。
「ナニ? マッチ売りの少年なのお前?」
「うん」
 屈託がない、というよりは、子供らしくない影を背負っている表情。
 何に対してかは判らないが、そこに諦めのようなものが見え隠れする。
 悟浄は軽く眦を眇めた。
「マジで?」
「うん。だから、おにーさん、買ってよ」
 せがむような幼い物言いの中に、必死さが滲む。
 こういうのにとことん弱い自覚がある悟浄は、内心で深々と嘆息した。放っておけないおのれの性分に、仕方がないとばかりに肩をすくめる。
「……じゃ、いっこいくらだ?」
 悟浄は右手でマッチ箱一つを受け取りながら、懐から小銭入れを取り出した。
「五十元」
「五十元!?」
 少年の口から飛び出した法外な金額に、悟浄は目を丸くした。
 たかが二十本程度しか入っていない小さなマッチ箱一つの値段にしては、あまりにも高すぎる。唖然として少年の顔を見あげれば、彼は唇を噛み締めたまま手を差し出している。
 少年にしてみれば、その金額を口にすること自体が賭けだったのだろうか。
 その心情が痛いほど伝わってきて、悟浄は今度こそこれ見よがしに嘆息した。つくづくお人好しな自分自身を呪いながらも、どうにもこの少年を放っておけなかった。
「……もしかして、今日は俺が初めての客か?」
 悟浄の問い掛けに、少年はびくりと、小さな肩を揺らした。そして、きゅっと、下唇を噛み締める。
「……うん」
「そっか」
 悟浄は小銭入れから五十元分の貨幣を取り出し、差し出された少年の掌の上に置いた。
 その重みに弾かれたように、少年が顔をあげて、悟浄を見つめ返す。
「……っ!」
「五十元。おら、確認しろよ」
「あ、…ありがと」
 うろたえながら掌の小銭を確認する少年の姿を見ながら、悟浄は手に入れたマッチで口に咥えたままだった煙草に火を点した。
「……おにーさん、その……」
 数え終わったらしい小銭を握り締め、口ごもる少年に座るよう促し、ようやくありつけた紫煙を吐き出す。ほとんど日が暮れかけた薄闇の中を立ち昇る煙を見ながら、少年は悟浄の横にちょこんと腰をおろした。
「なあボーズ。お前、いっつもこんなコトしてんのか?」
 悟浄は前を向いたまま、横に並ぶ少年へと問い掛ける。
 少年は、両膝をみずからの腕に抱えると、その膝頭に小さな面(おもて)を伏せた。
「……だって、じゃないと母さんが怒るから……」
 想定内の返事に、悟浄は前方を見据えて、ふぅと大きく煙を吐いた。
「ナンでだ?」
「俺、いらない子らしいから」
 少年はさらに、自らの膝頭に顔を埋めた。
「だから、いっつも怒られてて……でも、ちゃんとマッチを売ったら母さん喜んでくれるから、だから」
「――」
 悟浄はゆるりと紅眼を眇める。
 その必死さは、まるで十数年前の自分を思い出す。そう思うと、胸裏になんとも言えないやるせなさが押し寄せてきた。
「……もいっこ、くれるか?」
 できるだけさりげなさを装いつつ、悟浄は煙草を吸い込んだ。
「……え?」
 少年が即座に顔をあげて悟浄を見た。驚いた表情を隠しきれない幼い顔をちらりと横目で見やり、悟浄はわざと素気なく言い放つ。
「仲間でもうひとり、煙草を吸うヤツがいるしな。ソイツの分」
 ほら、と、再び五十元を取り出し、少年に差し出す。
 少年は目を白黒させながら、とまどうように悟浄を見た。それでも、悟浄が本気で買う気があるのだと悟り、肩からさげた布袋からマッチ箱を一つ取り出す。
「これ」
「ほらよ」
 マッチ箱と引き換えに、小銭を渡す。少年はぎこちない仕種で受け取り、それまで握り締めていた小銭とあわせて布袋に入れた。
「で、今日はうちに帰れ」
「え?」
 悟浄は短くなった煙草を携帯用の灰皿に入れ、おもむろに立ち上がった。
「それだけあれば、今日はもお十分だろ? ……今日ぐらいはさっさとうちに帰んな、ボーズ」
「……」
 呆然と見あげる少年に向かい、悟浄はに、と口の端をあげて見せた。
「おにーさん……」
「こんな日にガキがいつまでも出歩いてちゃダメだろーが」
 少年は一瞬、泣き出しそうに顔を歪めた。しかし、すぐにきゅっと口許を引き結んで立ち上がる。
 そして、悟浄を正面からしっかりと見つめ、心底嬉しそうに笑った。
「おにーさん、もしかしてサンタクロース?」
「はあ?」
「だって、赤いから……それに、だって今日はクリスマスだし」
「ま、そーらしいけど、サンタじゃねえぞ」
 子供らしい発想になんと返していいものか窮していると、少年の笑みがさらに深まった。おや、と悟浄は片眉を器用に跳ね上げる。
「おにーさん、ありがと!」
 少年は心底嬉しそうな笑顔を浮かべて、悟浄に手を振りながらそのまま夕闇の中へと走り去っていった。
 その姿が見えなくなるまでぼんやりと見送っていた悟浄は、だが、少年の姿が視界から消えたところでふと我に返る。
 気がつけば、周囲はほとんど闇におおわれかけていた。ということは、早くしないと、目的の品を販売している店が閉まってしまう惧れがある。それは非常にまずい。
 ただでさえ、今の一服で予想以上に時間をくってしまっていた。今ごろ、宿に残っている三人は悟浄の帰りが遅いと悪態をついているに違いない。
 これは八戒の恐い笑顔で出迎え決定かも、と覚悟を決めつつ、悟浄は下に置いた紙袋を抱えて再び歩き始める。
 一瞬、先ほどの少年の姿を脳裏に浮かべ――本当にせめて今日くらいは“彼”にとってよき日であるようにと、らしくもなく感慨にふけりながら。



 ※  ※  ※



 悟浄が今晩の宿に戻ったのは、すっかり日も暮れて、夜といっても差し支えない時間だった。
 案の定、八戒から含み笑顔全開での出迎えを受け、「いったい今まで何をしてたんです?」との小言も軽く流してしまったがために、彼の機嫌をさらに損ねてしまったのは言うまでもない。
 しかし、たかが小さなマッチ箱一つを手に入れるのに五十元も払ったと知れば、八戒は間違いなく呆れるだろう。それよりは適当にごまかしたほうがマシだと思ったのが浅はかだったのか。
 微妙な雰囲気のまま、二つ取った部屋のうち、三蔵と悟空が宿泊する部屋で、八戒お手製の、クリスマス仕様らしいかなり手の込んだ夕食に四人でありついた。いつもなら悟空と取り合いながら騒々しく食卓を囲むものの、そういう気分になれない悟浄は、隣りでいつも通りに豪快に食事をしている悟空を尻目に早々に食事を済ませて、ひとりだけ席をたった。そして、まだ食事中の三人をよそに、窓際へと足を延ばす。
 窓枠に凭れかかり、煙草を咥えると、慣れた仕種でマッチで火を点けた。外では気にならなかったマッチ独特の硝煙の匂いが鼻につく。かまわずその火で煙草の先を点し、用を終えたマッチの火を吹き消した。
 ふいに、横から強い視線を感じて、悟浄はその方向に目をやる。
 すると予想通りというか、席についたままの八戒がひどく驚いた表情を浮かべて悟浄の手元を見ていた。その翠の視線の先にあったのは、間違いなくマッチだろう。普段、悟浄が持ち得ないアイテムを見て、目を丸くしている。
 そんな八戒の反応に、悟浄は苦笑した。ちらり、と八戒を無言で流し見て、そのまま紅の双眸を窓の外に向ける。
 いつの間にか、外には雪花がちらついていた。
 窓越しにその雪が落ちるさまを追いながら、視線を下に向ける。
 宿部屋は二階だから、視線をさげれば自然と階下を見下ろす格好になる。外灯がほとんどなく、各々の建物から洩れる光だけが外の闇を照らし出していた。そんな中、悟浄が立っている位置からほぼ真下に、ほのかな赤い小さな小さな光源が見えた。
 まるで地面に灯っているかのような小さな灯りに、悟浄はいぶかしげにその色を見つめた。
 それは、ほんのわずかだが微妙に揺れている。なんとも位置的にも不自然なそれが気になって、悟浄はさらに目をこらした。いくら夜目が利くとはいえ、窓越しという間接的な状態ではやはり見づらい。
 すると。
「……っ」
 そこにぼんやりと見えた小さな人影を見て、悟浄は短く息を飲んだ。
 その人影にはいやと言うほど見覚えがあった。悟浄はわずかに瞠目して、そこから踵を返す。そしてまっすぐに、部屋から出るべく入り口へと向かった。
「悟浄どうしたんだよ?」
 口にものを頬張りながら悟空が訊ねる。
「ちょっと外」
 三人を振り返ることなく、悟浄は素気なく言い切り部屋を出る。
 扉を閉める瞬間、何か物言いたげな八戒の白貌が気になったが、それでも悟浄は振り返らなかった。



 宿の入り口から外に出て、悟浄は建物の裏側に周る。悟浄たちの部屋は入り口側ではなく、その反対側に位置していたからだ。
 裏手に行くと、大通りに面した入り口側よりもずっと細い路地になっていた。そこに、予想通りにある、ぽつんと灯る小さなオレンジ色の明かり。
 そして、その光源の元である小さな人影を認め、悟浄は大きくため息を洩らした。
「――オイ」
 悟浄の声掛けに、その人影がびくりと揺れる。
 神妙な足取りで、悟浄はその子供に近づいた。宿の建物の壁に凭れかかり、地べたへと座り込んでいたのは、悟浄が夕方遭遇したくだんの少年だった。
 その小さな手に、マッチの小さな明かりを灯して。
「こんなトコでナニやってんだ」
 咎めるような声音になってしまったのも仕方がないと言えた。
 確か、悟浄が家に帰るように言い、そして少年も承諾したのだとばかり思っていた。それなのに、何故、その少年がここにいるのか。しかも、雪の降る夜空の下である。こんなところに座り込んでいては間違いなく凍えてしまうだろう。
「……おにーさん」
 悟浄の姿を認めた途端、少年はひどく驚いた表情を浮かべた。
 しかし、驚いたのは悟浄も同じである。本来なら、こんなかたちで再会するばずのない邂逅に、悟浄は苦々しげに口許を歪めた。
「やっぱりサンタなの?」
「――は?」
「だって……こんなところでまた会えるなんて……」
 どこか呆然と少年がつぶやく。
 悟浄は軽く舌打ちした。
「俺がサンタなワケねーだろ。……ったく、そりゃこっちの台詞だっての。だからナンでここにいんだ? 帰れっつったはずだろーが」
 責めるような響きのそれに、少年は唇を噛み締めながらうつむいた。その手からマッチ棒が滑り、わずかな火を残したまま地面に落ちる。
「……オレ、いないほうがいいみたいだ」
「ん?」
 少年のかすかなつぶやきを聞き止めた悟浄は、彼の前に、ゆっくりと長身を屈めた。
「うちにはちゃんと帰ったんだ。……でも、窓ごしに母さんと兄さんだけで楽しそうにしてるのを見たら、やっぱりオレがいなくてもいいんだって思ったら……うちに入れなかったんだ……」
「お前んち、母親と兄貴だけなのか?」
「うん。……でも、血が繋がってないんだって。だから、母さんはいっつも怒ってる……せめて稼いで来いってそればっかりで」
「そっか」
 悟浄はぽつりとつぶやいた。
 少年のその説明だけで、彼が置かれている状況というのが手に取るように解る気がした。
 おそらく、元々裕福ではない家庭環境であるところに、自らの血が一片たりとも繋がらない子供を引き取らざるとえなくなり、母親は抱える焦燥のままに少年へ当たっているのだろうことは容易に想像がついた。少年の顔面に残る痣からしても、判りやすいかたちで虐待を与えているのか。その痛々しいまでの告白に、悟浄はただ相槌を打つしかできなかった。
 悟浄は短くなった煙草の先を地面に押し付けた。そして、再び、胸元から煙草を取り出す。
「で? ここで火遊びってか?」
「……」
 少年はますますこうべを垂れた。そんな少年の姿を見ながら、悟浄は深々と嘆息する。
「それでもお前の帰る場所はうちなんだろ? 今日みたいな日に外にいたら風邪ひくだけじゃすまねーぞ」
「いいんだ、もう」
「ナニが」
 その歳の子供とは思えぬ疲れきった声音に、悟浄は眉宇をしかめた。
「このままいなくなったほうが、きっと……」
 すべてを諦めきった、消え入りそうな悲愴な声。
 ふいに悟浄は立ち上がった。そして、小さな身体を見下ろしながらはっきりと言う。
「いいワケねーだろうが」
「おにー、さん?」
 少年は虚を衝かれた表情で悟浄を見あげた。
 幼い瞳と目と合うと、切れ長の双眸を細めて笑みを象る。
「生きてりゃいつかはイイこともあるからさ。だから、そんなコト、言うなよ」
 そう、悟浄がはっきりと告げれば、少年は目を見開いた。そして、どこか呆けたような口調で問い返す。
「……おにーさんは」
「ん?」
「そういうおにーさんは、どうなの?」
 少年の疑問に答えるべく、悟浄は口の端をあげて笑ってみせた。
 その笑みを見て、少年はますます目を瞠る。
「……ま、俺もお前くらいのころは似たよーなモンだったけどさ」
 悟浄は、少年の手にあるマッチ箱を指さし、その火が欲しいと仕種で伝える。少年は慣れた手付きでマッチの火をおこすと、明々と火のついたマッチ棒を悟浄へと差し出した。その火に煙草の先端を近づける。
「サンキュ。……でも、生きてりゃ、変わるモンだってあるからさ。そしたら人生、捨てたモンじゃねーなって思えるときが来ると思うしな」
「じゃあ……おにーさんにはいいこと、あったの?」
 煙草の煙を吐き出しながら、悟浄はふと間近にひとの気配を感じた。そして、くすりと、愉しげに笑う。
「ああ……こーんな美人サンとお近づきになれたし?」
「何を言ってんですか」
 今までいなかったはずの第三者の声の出現に、少年が飛び上がる。
「――え?」
「まったく……ふたりとも、こんなところでいつまでも話し込んでたら風邪をひきますよ?」
 まるで計ったかのような八戒の登場に、悟浄も苦笑するしかなかった。くつくつと、微苦笑を続ける悟浄を、八戒は呆れまじりに軽く睨む。
「悟浄」
「悪ぃ。……なあ八戒、まだ飯、少しは残ってんだろ?」
「ええ、まあ。……って、つまり」
 敏い八戒のことだ。悟浄の言いたいことなど、すぐに解ったのだろう。何か言いたげにかすかに瞠目した彼を笑顔で制して、悟浄は少年にその場から立ち上がるよう促した。
「事情は後で説明するからさ……こいつにもお前の美味い料理、食わせてやって?」
 それでもどこか逡巡するように翠瞳を揺らした八戒だったが、ここで何を言っても無駄と思ったのか、軽く息をつくと少年へと向き直った。
「……判りました。少なくとも、こんなところに長居するよりはマシですしね。行きましょうか」
「え、え? ……いいの、おにーさん?」
 予想もしていなかった展開に、少年はひどく狼狽していた。無理もない。突然、見ず知らぬの人間から食事を、と言われても、はいそうですかといかないのが道理だろう。
 少年の困惑が手に取るように伝わってきて、悟浄は仕方がないとばかりに苦笑った。そして、とまどう少年の肩をぽん、と軽く叩く。
「いいから。……サンタからのプレゼントってコトにしとけ」
「……ありがとう」
 少年が、ぎゅっと、悟浄のジャケットの袖を掴む。
 我ながらクサイ台詞だと内心で面映く思っていたところに、少年からのその仕種がよけいに気恥ずかしさを増長させた。悟浄はそれをごまかすように、ふいと顔をあげる。
 途端、肩を震わせて笑いながら背後をうかがっていた八戒と目が合う。
 くすくすと笑いをこらえている八戒の態度が、ますますいたたまれない心地にさせる。悟浄はひそかに紅潮させた顔を見られないよう、その視線から逃れるように顔をそむける。
 つくづく慣れないことはするもんじゃないと、胸中で焦りつつもひとりごちた。



 ※  ※  ※



 くだんの少年を家まで送り届けてから悟浄が宿に帰ると、夕食の後片付けまでも終えた八戒が、悟浄と同室の部屋のほうで本を読みながらくつろいでいるところだった。
「おかえりなさい」
「……タダイマ」
 今ではすんなり口にできるこの言葉も、すべては彼との出会いからだ。
 それを思えば、先ほど少年に話したことも、うまく彼に伝わり――そして、例の少年にもそんな未来がくればいいと思わずにはいられなかった。
 しかし、いまだ感傷を抱えたままの悟浄を現実に引き戻したのは、八戒の容赦ない一言だった。
「悟浄サンタさん、お疲れ様でしたね」
「うっわー、いきなり先制パンチ?」
「相変わらず人がいいんですから。悟浄サンタさんは」
 アイタタタ、と恥ずかしさからわざと大袈裟に顔をしかめる悟浄に対し、だが、八戒は本当に手加減なしである。 
「確かに、貴方らしい、事の顛末でしたけどね……いっそ呆れるくらいに」
 八戒にはすでにくだんの少年との経緯について話してある。八戒には早々に話したほうがいいと思ったから、少年が食べている隙を見て状況をかいつまんで説明だけはしておいたのだ。
 遅くならないうちに家に帰らせたほうがよいこともあり、説明をした後で八戒と顔を突きあわせたのは今が最初になるのだが。当の八戒は、意味深な笑みを隠しもしないで、じっと悟浄を凝視している。
 その視線がいたたまれなくて、悟浄は、外気ですっかり冷えた長い前髪を掻きあげた。
「呆れられんの目に見えてたから、最初は黙ってたンじゃん…」
 八戒の双眸から逃れるように目を合わせないまま、悟浄は八戒が座る反対側のベッドへと腰をおろした。そして、おもむろに煙草を一本、口に咥える。
 すると、ふいに眼前にマッチ箱が差し出された。
 それを目に留め、悟浄はゆっくりと顔をあげる。そこには小さなマッチ箱を手にした八戒が、静かに佇んでいた。
「――どうぞ」
「……どーも」
 どうにも居心地がよくない。
 八戒の含み笑いがどうにも気になって、悟浄は視線を泳がせつつ、それでもそのマッチ箱を手に取った。箱から一本マッチ棒を取り出し、箱の側面を擦って火を熾す。
「マッチなんて、久しぶりに見ました」
 そう言いつつ、八戒は悟浄の横に並んで腰をおろした。きし、とふたり分の重みを受け止めたベッドが小さく軋む。
「俺も。普段はライターでこと足りるし」
「そうですよねえ」
 八戒は、ふふ、と穏やかに笑った。
 少しだけ彼がまとう雰囲気が柔らかくなったことに、悟浄はわずかに片目だけを器用に眇めてみせる。
「だから、最初、貴方がマッチを手にしたとき、かなり驚いてしまいましたよ」
「ああ、」
 確かに、あの時の八戒は、ひどく驚いた貌をしていた。
「そんなに意外?」
「まあ……そうですね」
 八戒の口調はどこか歯切れが悪い。
 悟浄は、ちら、とさりげなく隣りをうがかいつつ、紫煙を吐き出した。
「なあ」
「はい?」
「ナンで、ああいうコトしよーと思ったんだ?」
「ああいうコト、とは?」
 珍しく察しが悪い八戒に内心で軽く舌打ちをしながらも、悟浄は根気よく言葉を続ける。
「だから……クリスマスっぽいコト?」
 出会ってからこのかた、旅に出るまで共に過ごした三年間でさえも、それらしい振る舞いをしたことなど一度もなかった。もちろん、悟浄ひとりで、日頃のつきあいの延長で町にくりだしたことはあれど、クリスマスだからといって、八戒と特別に何かをしたことはない。  むしろ、悟浄の気のせいかもしれないが、八戒にとって、クリスマスというのはどこかタブーである雰囲気が否めなかった。彼が基督教の孤児院出身であり、かつ学院での専攻が神学だという話しを八戒から直接聞いて、その思いはますます強くなった。
 だから、正直、クリスマス・イブである今日――八戒の口から「簡単だけど、クリスマス風の料理でパーティっぽく」との言葉が飛び出したときには、悟浄は内心でひどく驚いたのだ。
 クリスマス自体を避けていた態の八戒が、何故今年は、と。
「――貴方は何でもお見通しなんですよねえ」
 苦笑じみたつぶやきが、ふと八戒の口から零れる。
「なんだか口惜しいですよ」
「そんなコトねーだろ。今のだって、判んねえから訊いてんだし」
「……そういうところが口惜しいんですよねぇ」
 八戒はそうひとりごちながらも、くすくすと微笑んでいた。
 彼の言いたいことは悟浄には判らなかったが、ここで口を挟むことなく、その続きを待つ。
「なんとなく、ですかね」
「はあ?」
 どうにも間の抜けた悟浄の声に追い討ちをかけるように、八戒の小さな笑声が重なる。
「まあ、……僕もそれなりに吹っ切れてきたってことでしょうか。貴方たちと四六時中いっしょにいたら、色々と感化されることも多くて」
「……それで?」
「つまりは、そーゆうコト、です」
 ――にっこり、と。
 笑顔で結論をしめくくられても、悟浄には八戒の云わんとすることの真意がさっぱり判らなかった。
 悟浄は、したり顔で微笑む八戒を思わず見つめた。ぽかん、と疑問符ばかりが脳裏をよぎる。
 どこまでも食えない男だと、頭を抱えたくなった。
「…って、お前……」
「なのに、悟浄はなかなか帰ってこないし、帰ってきたと思ったら全然目を合わせてくれないし、ちょっと色々と考えてしまいましたよ。あげくに、マッチなんて持ってるし」
「八戒」
「結局、全部僕がひとりではしゃいでいただけなんだってことに気づいてへこんでたんです。馬鹿みたいに」
「おい」
 たまらず、悟浄は隣りに座っている八戒の腕を掴んだ。触れたところから、八戒が息を飲む気配が伝わってくる。
「……その、」
「これは全部ひとりごとなんで聞き流してくださいよ」
 悟浄と目を合わさないまま、八戒はひっそりとつぶやいた。  これには返す言葉もなくて、それでも何か言葉にしたくて口を動かそうとした悟浄だったが、どうにもうまく言葉にできない。
「でも、これも全部僕が勝手に思い込んでいただけだったことが判って、余計にへこんでたんです。……呆れていたというより、貴方に八つ当たりしていただけです。すみません」
「……」
 ここでようやく八戒の本音がでてきて、悟浄は知らず瞠目した。
 そして、八戒の心情を思えば、思わずその痩躯を引き寄せ、抱き締めていた。
「――悟、浄」
「悪ぃ」
「なんで貴方が謝るんですか」
「ん、……や、なんとなく」
「なんとなくで謝らないでくださいよ」
 ぎゅっと抱き締め返されながら悪態をつかれても効果はない。むしろ、悟浄をつけあがらせるだけだった。
 つまりは、八戒は悟浄と――もちろん、三蔵や悟空も一緒ではあるのだが――今日という日をほんの少しだけ特別に過ごしたかったのだ。今までなんらかの蟠りがあった日だからこそ、今日くらいは、そう思った彼のささやかな行動。
 それなのに、悟浄はそれをいぶかしく思いはしたものの、その裏にある八戒の真意までは気づけなかった。だが、気づいていたとしても、もしもやはりあの少年と出会っていたなら、きっと自分は同じ行動を取ったに違いない。
 そんなおのれの性分を思えば、自然と謝罪の言葉が洩れる。悟浄はこっそりと微苦笑を洩らして、そっと八戒の耳許に唇を寄せた。
「ホント、お前判りにくいって」
「……すみませんねぇ」
「目が笑ってねえっつーの」
 おー怖、とわざとらしく口許をつりあげながら、悟浄は一旦、自ら抱擁を解いた。そして、正面からしっかりと八戒を見つめる。
「そしたらさ、そんな八戒サンに、悟浄サンタからプレゼントなんてど?」
 にやにやと口の端をあげ、不埒に笑ってみせる。
 八戒は一拍の間、わずかに翠瞳を瞠った。だが、すぐさま、その口許にあでやかな笑みを刷く。
「いったいどんなプレゼントをくれるつもりなんですかねえ。この即席サンタさんは」
「そりゃ、もう決まってるっしょ? 悟浄サンタ特製スペシャルディナータイム。もちろん大人二名様限定で。場所もココ」
「ディナーならさっき食べましたけど?」
 悟浄の云わんとすることは判っているだろうに、わざとはぐらかす八戒を、悟浄は再びおのれの双腕でもって強く引き寄せた。そして、その額にそっと口づける。
「言っただろ、大人二名限定って……しかもベッドで戴くっつったらコレしかないだろ?」
 コレ、と言いつつ、悟浄の唇が八戒のそれに軽く触れた。八戒の微笑がさらに深まる。そのかたちよい唇に、悟浄は軽やかなキスを何度も施した。
「……じゃあ、クリスマスらしく、間接照明でいきましょうか」
 くすり、と八戒はひそやかに微笑みながら、悟浄のそばに投げ出されていたマッチ箱を手に取る。
 八戒の細腰をしっかりと抱いたまま、悟浄はふと精悍な面(おもて)をあげた。
「間接照明?」
「ええ――こうして」
 八戒は慣れた手付きで、数本のマッチを一度に擦り、火が灯ったそれをベッド脇に置かれた小さな棚のうえにある灰皿へと置いた。その手で部屋全体の電源のスイッチを落とせば、即座に、室内の光源はマッチのかすかな灯りだけになる。
「……どうです?」
 わずかな明かりでうっすらとけぶる中、八戒の笑みが闇に蕩ける。
 すっかり雰囲気を艶っぽく変えた想いびとを、悟浄は満足気に見つめ返した。そして、両手をあげ、捧げ持つように彼の両の頬を包み込む。
「ジョーデキ」
 紅の双眸をそっと細めながら、胸奥から湧き上がるいとしい想いと同じくらいの熱情でもって、眼前の彼に、口づけを捧げる。
 触れ合った途端、八戒の腕が悟浄の頭を抱き込むように回された。そして、その強さの分だけ、口づけも深まっていく。



 求め合うままにキスを続けるふたりの姿を、マッチの灯火だけがいつまでも映し出していた。







FIN

BGM:『fantasia〜魂の歌〜』

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