沙家非日常的階層生活




 いつものように昼前に起き出し、遅すぎる朝食をとった後。
 そのまま食卓の椅子に腰掛け、何をするとはなしに、家事に勤しむ同居人の後姿をのんびりと眺めていた悟浄に向かい、八戒が突然振り返った。その、あまりの唐突さに、悟浄も思わず銜えていた煙草を落としそうになる。
「な、ナンだよ」
「そういえば悟浄」
「だからナニ」
「貴方、クリスマスのご予定は?」
 何の脈絡もなく、これまた唐突に訊かれた内容に、悟浄は怪訝そうに紅眼を細めた。
「……クリスマスゥ?」
 って、つまりは……アレ、か。
 八戒の問いかけの意味がすぐには判らなかった悟浄だが、ふいに脳裏をよぎる年末恒例のバカ騒ぎに、ようやく得心がいった、とばかりに表情を緩めた。
 悟浄にとって、クリスマス≠ニは、賭博仲間や馴染みのキレーなおねぇさん方と楽しく、パーティという名のバカ騒ぎをする日、という認識でしかない。それは12月下旬の恒例行事といえばそれまでで、だから八戒も、12月に入ったばかりの今、悟浄に尋ねたのだろうが。
「もしかして、クリスマスって知りませんか? 悟浄なら、いつも引く手あまたかと、勝手に思っていたんですけど」
 悟浄の訝しげな返事に、八戒は軽く肩をすくめながら困ったように微笑んだ。その笑みを見て、悟浄はあわてて否定すべく、首を激しく横に振った。
 勘違いされては困るのだ。そう、――今年からは。
「いーや。思い出した。今までは予定入れてたんだけどさ。今年は、……ほら、な」
「今年、は……?」
 悟浄の含みを持たせた物言いに、少しだけ八戒の頬が緩み、心なしか赤みをおびて見えるのは錯覚ではないはず。そんな八戒の反応に気を良くして、悟浄もまたにんまりと口の端を上げる。
「お前がいるだろ? だから、そーゆうのはナシナシ」
「悟浄……」
 ゆっくりと、八戒の白貌がやわらかくほころんでいく。うれしそうなその微笑に、悟浄は満足げに笑みを深めて、短くなった煙草を机上の灰皿に押し付ける。
 今年は、初めて過ごす、ひとりではない年の瀬。
 さらに、同居人たる彼――八戒と想いも重ね合わせた仲である以上、クリスマスは悟浄にとって、とても意味のある特別な日といえた。
 恋人と呼べるひとと過ごす、ふたりだけのクリスマス――イロイロと期待するな、というほうがおかしい。
 八戒とのめくるめく甘い時間を思い浮かべていた悟浄の思考を遮るように、ふと八戒の涼やかな声音が割って入った。
「ところで悟浄。貴方、クリスマスの語源、知ってます?」
「へ? 知らねぇ、けど?」
 突然の問いかけに、悟浄はぽかんと眼前に立つ八戒を見上げた。
 すると、八戒は実に愉しそうに口許を緩めて、ぼんやりと己を見つめる悟浄へと微笑み返す。
「ナニ、そーゆうお前は知ってンの?」
「僕、実は基督教系の孤児院で育てられたんですよ。クリスマスは毎年の恒例行事でしたし。イヤでも覚えちゃいました」
「へえぇ。で、実際のところ、ナンなの? クリスマス、ってのは」
 すると、一瞬、八戒の口許がわずかだが意味深に引き上げられた。それに気づいた悟浄が、びくり、と目を瞠る。
 そして。
「クリスマスの語源は『苦シミマス』と言って、」
「待て待て待て待てッ!」
 にこやかに微笑みながらとんでもないことを口にし始めた八戒を、悟浄はあわてて制した。
 まったく、何てことを言い始めるのかこの男は。
「悟浄、ひとの話の腰を折るのは失礼ですよ?」
「そんなコトはどーでもいいっ! ナンだよその苦しみます≠チつーのはッ!?」
「なんです……って、言葉の通りですけど」
「嘘つけ! ンなわけねーだろ!?」
「じゃあ、悟浄はクリスマスの本当の語源が何か、説明できるんですか?」
 八戒の畳み掛ける言い方に、悟浄はうっと言葉に詰まる。
 八戒の言うことは絶対におかしいと直感で判るものの、だが結局のところ思うだけで――その正しい根拠など、はっきり言って悟浄は持ち合わせてなどいないのだ。
 同居を始めて一年近くたつが、口で八戒に勝てたことなど一度もない悟浄に、勝ち目など無いに等しい。
「……判んねぇ、けど」
 悟浄は不本意だ、と云わんばかりに不貞腐れた声音でつぶやく。
「それなら、僕の言うことを頭ごなしに否定することはないじゃないですか。それとも悟浄……僕のこと、もうどうでもよくなったんですね……」
 ふっ、と、八戒が哀しげに眼をそらした。
 それに悟浄はあわてて八戒の腕を掴み、己のほうへと引き寄せ、その痩躯を抱き寄せる。
「どうでもいいワケ、ねェだろ……? こんなに八戒のコト、好きでたまんねーのに」
 己の胸に飛び込んできたいとしい男の耳元にそっとささやくと、目に見えて彼の身体が震えた。
「ごじょう」
 八戒もまた、悟浄の名を吐息まじりにつぶやいて、目元を朱に染めながら、くたりとその身を悟浄へとあずけてくる。ほどける姿態に気を良くして、悟浄のいたずらな手が八戒の腰元へとさしかかった、その時。
「じゃあ、今年のクルシミマス、いえクリスマスは楽しみにしてますね(はぁと)」
 がばり、と八戒の上半身が勢いづいて起き上がると同時に、彼の頭が悟浄の顎に激突した。あまりの痛みに、悟浄は大きく目を見開いて声にならない絶叫をあげる。
「――――ッ!!」
「いやぁ、悟浄とふたりっきりなんて、本当に楽しみだなぁ」
 激痛にうめく悟浄などまったく意に介さず、八戒は何事もなかったかのように悟浄から離れると、うきうきとした足取りのまま台所へと戻っていく。
 それまで居間のソファで寝ていたジープも、そんな悟浄の様子を気の毒そうに一瞥して、ご主人様の元へと飛んでいった。
 痛む顎をさすりつつ、ようやく起き上がった悟浄は、八戒とジープの後姿を見つめながら、深々と嘆息した。
 八戒はやけに「苦しみます」を強調していたが。
(俺、……いったいナニされるんだ……!?)
 既にフツーではないクリスマスとなる予感をひしひしと感じて、悟浄の背を一筋の冷たい汗が静かに流れ落ちていった。




 ***




 そして、クリスマス・イブ当日。
「悟浄は何かいいワインを見繕ってきて下さい。その間、僕が腕によりをかけてディナーを作りますから」と、起き抜け早々に八戒に家を追い出された。それでも悟浄はうきうきと弾む気分のまま、街で仕入れたシャンパン一瓶を抱えて家路を急いでいた。
 今日は待ちに待った、ふたりだけの特別な日。
 こんなふうに、恋人といっしょにクリスマスを過ごすことは、悟浄にとって初めてのことだった。だから、自然に気持ちは逸(はや)る。そんな自分をらしくない、と思うものの、それでもこんなに浮き足立った想いに捕らわれた己も悪くはない、とも思うのだから、まったくをもってどうしようもない。  悟浄は愉しげに口許に笑みを浮かべて、家で待つ八戒のことを想う。
 いつも美味しい食事を作ってくれる彼が、今日という日のために腕によりをかけるというのだ。それはすばらしい料理の数々がテーブルに並ぶに違いない。それも悟浄を想って作られたものばかりが。
 そう思うと、ますます悟浄の足取りも軽やかになる。
 夕方は八戒とともに彼のお手製の豪華ディナーで舌鼓をうち、夜は八戒自身に舌鼓をうつ、と。
 これからの特別なときに思いを馳せながら、悟浄はくつくつと色悪に喉を鳴らした。
 そうこうしているうちに、あっという間に我が家へとたどり着いてしまったらしい。鍵など持ち歩いていない悟浄は、開いたままの玄関のドアを勢いよく開け放った。
「ただいま、八戒っ!」
「ああ、おかえりなさい悟浄。ちょうどよかったです。たった今、食事もすべて出来上がりました」
 悟浄の帰宅をにこやかな笑みとともに出迎えてくれた八戒に向かい、悟浄はこれまたいつものようにただいまのキスを強請ろうと彼の元まで歩を進めた、その途中。
 ふと視界の端に飛び込んできた食卓上のものに、悟浄の紅瞳は釘付けになってしまった。


「!?」


 この……食卓の上に並べられた謎の物体はいったい……。
 八戒を抱き寄せようと腕を伸ばした姿勢で、けれど目線は完全に食卓上に釘付けの悟浄の様子に、八戒は不思議そうに悟浄の顔を覗き込んできた。
「どうしたんですかー、悟浄ー?」
「………………八戒、これ、ナニ……?」
 悟浄はおそるおそる、といった声音で、八戒にそっと伺うように尋ねた。悟浄の見間違いでなければ、これらはどう見ても――。
「だから、食事ですけど?」
「――――ッ!?」
 さらりと普通に言い返され、悟浄は驚愕のあまり目をむいた。
 そう、どう見ても!
 なんだかわけのわからない、触覚と鉤爪の尻尾がある子豚ほどの大きさの生き物の、真っ黒に炭化した丸焼きとか! しかも、この生き物、ナンかの本で見た悪魔とかゆーのにシルエットが似てるし!
 スープ皿の中身からは、毒のようなものすごい色をした液体がぐつぐつと沸騰しながら怪しいガスとかも発生していたりとか!
 奇妙なかたちや毒毒しい色をした果物……みたいな植物の盛り合わせとか!
 何が入っているか、訊くのも怖いグラタン……のような、もうもうと火を吹いている謎の焼き物とか!
 きわめつけは、毒素たっぷり含んでいそうな蛍光色の生クリームがべっとりとかかったクリスマスケーキらしきものとか! イチゴの代わりに真っ赤な謎の物体までデコレイトされているし!
 どう見ても、食卓の上には、何ひとつまともな食べ物が見当たらないのは、悟浄の気のせいでは断じてないはずだ!
 それなのに。
「どうしたんですか、悟浄? 変な顔して」
 これらを準備したらしい当の八戒本人は、まったく悪びれることなく、いつも通りの態度を崩さない。ここでようやく、悟浄は今まですっかり忘れていた、月初めに八戒と交わした会話をまざまざと思い出していた。


『クリスマスは、苦シミマス≠ニ言って、……』


 つまり。
 これが、八戒の言うところの「苦しみます」というヤツなのかッ!?
 眼下のオドロオドロシイ物体たちを凝視しながら、悟浄は愕然とした。
「ご、じょ、お?」
 返事をしない悟浄に焦れたのか、八戒がぐい、と悟浄の両頬を掴んで自分のほうへと無理やり向けた。ここでようやく悟浄は我に返る。
「な、ナニ?」
「ナニ、じゃありませんよ。さぁ、席について食べましょうね」
 にこやかに言い切られて、悟浄は半ば魂を飛ばしたまま、口許を引きつらせたまま八戒をじっと見つめる。そんな悟浄の態度に、八戒はあいかわらずにこにこと笑みを絶やさないまま、少しだけ小首を傾げつつ、ゆっくりと自分の指定席へと座った。そして、悟浄にも座るようにと、無敵の笑顔で促してくる。
 にっこりと容赦のない笑みを向けてくる八戒にそら寒いものを感じて、悟浄はごくり、と唾を飲み込みながら観念して席に着いた。
「それじゃあ、いただきましょうか」
 八戒は、いつも通りに食前の挨拶をすると、そのままスプーンを手に取り、これまたいつも通りの作法で手元に盛り付けられたスープ――あいかわらずものすごい勢いでぐつぐつと煮立った土留め色の液体である――を一口飲んだ。
(八戒のヤツ――普通に食べてるッ!?)
 あまりに自然に八戒の口のなかへと消えた液体を、悟浄は信じられないものを見る目付きで凝視した。己の手元にも、八戒が飲んだのと同じものがしゅうしゅうと怪しげなガスを発生させながら鎮座している。どう見ても、ひとが食べる物には見えない。見えないが、――八戒が口にして、今なおケロリ、としているということは、別段害はないどころか。
 見た目が酷いだけで、味はものすごく美味しいとか!
 そうだよな、八戒が作る料理だもんな、と悟浄はようやく気を取り直して、ほっと息を吐いた。しかし、いつもならすぐに料理に手を出す悟浄がまったく箸をつけないことに、八戒のほうが怪訝に思ったらしい。
「どうしたんです悟浄? 僕が作った料理、どこかおかしいですか……?」
 困惑気味に柳眉をひそめながら、探るような視線を向けてくる八戒に、悟浄はあわてて左手を横に振った。
「いやいや! これから食うから!」
「そうですか。しっかり食べて下さいね」
「ああ! ちゃんと食う! いただきまーす!」
 そして、あわてて箸を手に取り、目の前の謎のグラタンもどきに箸を伸ばして、勢いのままそれを口の中に放り込んだ。
 途端。
「――――――――!!!」




















 暗転。










《悟浄の安否不明のため強制終了》

「TECHNO-HOUSE」様の『家庭内カースト2』へ寄稿。

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