沙家階層的日常生活




□朝□



 瞼ごしに差し込む眩しい陽光に、悟浄の切れ長の眦がぴくりと震える。
 ぼんやりと霞む意識のなか、悟浄は心地好い惰眠を貪り続けていた。
 意識が覚醒する直前の、こんな浅いまどろみをのんびりと堪能するのが、悟浄のお気にいりのひとつで。
 これで腕の中にかのひとがいればもっとサイコー、などと、寝ていても腐れたことを思いながら悟浄はごろんと寝返りを打った。
 ――その、時。
「ぴっぴぴっぴぴぃ――――――っ!!」
「おわあぁぁぁ――――――ッ!!」
 突如悟浄の顔面に降って来たジープの重みと、両の羽をばたつかせてわざと叩きつけるその衝撃に、悟浄は絶叫しながら飛び起きた。
「ったく、こンのエセはちゅーるいがッ!」
「きゅー!」
 安眠を邪魔された怒りで、悟浄はものすごい形相で目の前を旋回する白竜の長細い首根っこを掴んだ。悟浄の乱暴なふるまいに、ジープは迷惑そうに小さな身を捩りながら羽をバタバタさせている。そんなジープの態度が、さらに悟浄の不機嫌さを増長させた。
 悟浄は忌々しげに大きく舌打ちした。そしてジープを掴みあげたまま、口許を引き結びものすごい勢いで自室のドアを開ける。その紅瞳は完全に据わっていた。
どすどすと苛立たしげに足音をたてながら、悟浄はまっすぐにジープのご主人様の元へと向かう。
「八戒ッ!」
「きゅきゅ――ッ!!」
 ジープのご主人様で、悟浄の同居人でもある男の名を怒鳴りつけ、悟浄はさらに大きな音をたてて居間と台所が一間続きになっている部屋の扉を開け放った。
 悟浄の予想通り、台所のほうにいた八戒はジープと悟浄に向かい、にっこりとおだやかな笑みを浮かべてみせた。
 だが。
「おはようございます。あ、ちょっとひどいじゃないですか悟浄! ジープが可哀想でしょう!」
 悟浄の乱暴な扱いを目の端に留めた途端、八戒は顔色を変え、あわてて悟浄の腕からジープを救出した。まったく悟浄のことを顧みない八戒に、悟浄の怒りはますます沸騰する。
「おいっ! 可哀想なのは俺のほうだろーがっ! だいたいナンで毎朝毎朝毎朝毎朝毎朝毎朝毎朝たのンでもねーのに邪魔しにくンだよこの爬虫類はッ!」
「可哀想って、誰がですか」
「誰がって、そんなの決まっ……!?」
 勢いにまかせて言いかけた悟浄は、ふと眼前の八戒のただならぬ雰囲気に圧されて口ごもった。彼の端整な面に浮かぶ凄絶な笑顔に気づいて、ぎょっと目を見開く。
 八戒は笑っていた。
 それはもう――悟浄が絶句するほど、静かにそして冷ややかに。
 なのに、その瞳は、これっぽっちも笑ってはいなかった。
「は、八戒……?」
「へえぇ。昨日さんざん誰かさんにやりたい放題されて、僕が辛そうにしているのを見かねて、せっかくジープが、そのいつまでも寝こけている誰かさんをわざわざ起こしにいってくれたのに、そのジープをこんな目に合わせるひとのどこが「可哀想」なのか、僕にも判るように説明していただきたいもんです」
 ジープを労わるように腕にかかえて、八戒は悟浄に向かい、にっこりと笑み崩れた。
 思い切り、意味深に口許をつり上げながら。
 まるで彼の背後に立ち込める暗雲がおそいかかってくるような雰囲気に呑まれ、悟浄はだらだらと背筋に冷や汗を流しながら、恐る恐る眼前のかのひとを見た。
(こ、これは、相当……)
 どう見ても、八戒の機嫌はよろしくなかった。しかもその原因が、どうやら昨日、昼間から嫌がる八戒を無理やりベッドに引っ張り込んだせいでもあるらしい。確かに、最初は嫌がっていたが、すぐにその気になって八戒のほうから強請るようなキスを仕掛けてきたから、てっきり合意の上だと思っていたけれど。
 うすら寒い笑顔を浮かべながら己を見つめ続ける八戒に耐え切れず、悟浄はごくりと唾を飲み込んだ。そして。
「か、可哀想なのは、八戒さん、かな……」
「なんだ。ちゃんと判ってるんですね。それならいいんですよそれなら」
 悟浄がしぶしぶ折れてみせると、目に見えて八戒の表情が白々しく変化した。それでも一番怖い事態は回避できたと、悟浄が肩をすくめたその時。
「あ、悟浄。すみませんが、貴方の御飯、あれだけしかないですから」
 そのまま流し台へと向かおうとした八戒の足がふと止まったかと思うと、ぜんぜんすまなさそうではない口調で食卓を指差した。その指に導かれるまま悟浄が目をやると、――食卓の上にあるのは、食パン一枚のみ。それも焼いてしばらくたって冷めているのがありありと判る状態のものが。
「アレだけかよっ!?」
 さすがにあれっぽっちで足りるわけがない悟浄は、思わず叫んだ。だが、八戒はさらににこにこと笑みを深めて、ゆっくりと悟浄を見据えた。
「ええ。だって、あんなに僕が呼んでも貴方起きてこなかったし。だから、ジープと先に食べちゃいました。だいたい昨日、食料がもうないから買い物に行きたいとあれだけ言ったのに、行かせてくれなかったのは悟浄でしょう? その責任はご自分で取って下さい」
 にこにこにこと、含み笑顔全開で微笑み続ける八戒がおそろしくて。
 結局はすべて自分がまいた種だということを悟り、悟浄はただ、黙って八戒の言うことをきくしかなかった……。





□午後□



「というわけで、悟浄、庭の草取りをお願いしますね」
 ひとりきりで、冷たく硬くなった食パンをかじり終え、悟浄がやれやれとため息をついた後。それを見計らったかのように八戒から声をかけられて、悟浄は怪訝そうに眉宇をよせた。
「はぁ? 草取りぃ?」
 なんで自分がそんなことをせねばならないのかと、思い切り不満を口に乗せれば、目に見えて八戒の笑みが深くなった。
 にこりと口の端を上げ、小首を傾げるその仕種に、普段なら素直にどきどきするところだが、今は別意味でどきどきさせられる。どう見ても嫌な類の笑みを浮かべている八戒に、悟浄はわずかに口許をひきつらせた。
「そうですよ。僕はこれから町へ買い物に出てきますから、その間悟浄は草取りをしておいて下さいね」
「なんで俺が草取りしなきゃなんねーんだよっ」
「なんで、ですか?」
 ゆらり、と、八戒の背後にまたも暗雲が立ち昇る気配が過ぎった。それに気づいた悟浄は、びくりと肩を震わせる。
「僕がこれから買い物に行かないといけないのも、本当は今日、草取りをする予定だったのに、誰かさんのせいで腰が痛くてそれすら出来ない状態になったのも、いったい誰のせいだか判ってます?」
 にこにこにこにこと、八戒の笑貌が容赦なく悟浄に迫ってくる。
(ひいぃぃぃ――!)
 どよどよとした空気とともに悟浄へ向けられる笑顔の恐怖に、悟浄は内心で声にならない悲鳴を上げた。こうなると、はっきりいって、悟浄に逆らう術など残されておらず。
「ジ、ジープの奴は!? どうせなら、アイツにも、」
 自分だけこの炎天下のなか草取りをさせられるのは堪ったもんじゃないと、せめて巻き添えをさせるべくジープを探してみたものの。
「あ、ジープは僕といっしょにお出掛けです。ジープはいないと困りますからね」
「じゃあ、俺もついていく、」
「悟浄はいいですから。貴方はここでしっかりと草取りをしていて下さい」
 悟浄の言葉尻を奪うように、きっぱりはっきり却下した八戒に向かい、悟浄は縋るように目を瞠った。
「俺もいないと困るだろ!? 荷物持ちとか、」
「全然困りません」
 ――即答かよ!
 まるでトドメを刺すようににこやかに即答した八戒を、悟浄はますます大きく目を見開いて凝視した。そんな悟浄の表情に、八戒は満足げに微笑むと、肩に降り立ったジープとともにくるりと踵を返す。
「じゃあ、僕たち行ってきますから。さぼっちゃ駄目ですよ、悟浄?」
 さらに悟浄ににっこり笑顔で釘を刺すことも忘れずに、八戒はそのまま出掛けて行った。
 その背を唖然と見送り、バタンと玄関の扉が閉まった途端、悟浄はがっくりと肩を落とした。そして、ちらりと窓越しに見える我が家の庭へと目を向ける。
 ここ数日のうちに、一気に気温が上がったせいで、庭の雑草たちもあっという間に伸びきっていた。確かにこれ以上ほうっておいたら、この後もっとすさまじいことになるのは目に見えている。
 しかし。
 今日は雲ひとつない晴天。しかも、外気温は、どう見繕っても35度くらいまで上がっている。
 出来れば、このまま草取りなどせずに逃げてしまいたい。だが、ここで悟浄がしなかったら、その後の八戒の報復のほうがもっとおそろしい。
 悟浄はしばらくの間、ぐるぐると心中で葛藤を続けていたが、ふいに深々と嘆息したかと思うと、観念して外へ出た。途端、容赦なく突き刺さる日光に「うへぇ、あっちぃ」と顔をしかめながら、それでも腰を下ろして草取りを始める。
(こーなりゃ、もうヤケだっつーの!)
 悟浄は鬼の首を取るかのような形相で、えいえいと草を引っこ抜き続けた。
 まるで、草に八つ当たりするかのような勢いで。そうでもしないとやってらんねー、と呟きながら。





□夕方□



 結局、八戒が町から戻ってくるまで一心不乱に草取りをし続けた悟浄は、思いのほか日に焼けた己の身体をぐったりとソファに投げ出しながら、夕食までの時間をぼんやりと過ごした。その後、本日初めてのまともな食事をして、ようやく満たされた腹に満足げに喉を鳴らした悟浄は、ふと流しに立つ八戒の後姿を見つめた。
 すらりとした姿態と、流れるような腰のラインに、いやらしげに見惚れながら、悟浄はにんまりと微笑む。そして、くつくつと猥雑に笑いながら、悟浄はそろりと彼に近づいた。背後からやんわりと抱き込む。
「八戒、……シよ?」
 ふっと、敏感な八戒の耳奥に湿った息を吹きかけながら、低く情欲にかすれた声音で誘いをかける。びくり、と彼の痩躯が跳ね上がった。それに気をよくして、さらに腰を密着させようと、悟浄が手を伸ばした、刹那。
「駄目ですよっ! 稼ぎに行ってこないとッ!」
 ぐい、と、激しく身を捩りながら、八戒は己に覆い被さってくる男の身体を力いっぱい引き離した。露骨な拒絶に、悟浄はいぶかしげに眉間に皺を寄せ、不快感をあらわにする。
「――はぁっ!?」
 ナニいってんだお前、と悟浄が言い募ると、八戒はどこからともなく家計簿を取り出し、勢いよく悟浄の顔前至近距離に突き出した。
「見てくださいよ! このところ負けがこんでいてうちの財政は火の車なんですっ」
 見てください、と言われても近すぎて見えない、などと言ったら、その場で八戒にぶっ飛ばされそうである。悟浄はしぶしぶ彼の手から家計簿を取り上げ、それを見るふりだけをした。
「ってお前、そのわりに昼に買い物に出てたよな?」
「生きるためには食べ物は必要ですからね。僕とジープの無敵スマイルでしっかり勉強してもらってきました。悟浄にそんなことができますかっ!?」
「い、いや……」
 八戒のひとタラシぶりには、確かに誰もかなわないだろうし、悟浄にも真似は出来ない。だが、それとこれとは話が別だろうと内心思いつつも、八戒の妙な勢いに圧されて、ろくに反論が出来ない悟浄はつい口ごもってしまう。
 すると、八戒は、にこにこにこにこにこと、彼の言うところの「無敵スマイル」を全開にした。あ、と悟浄が嫌な予感に息を呑む。
 そして。
「それならしっかり稼いできて下さいね(はぁと)」
 と、いきなり悟浄の胸倉を掴み上げ、そのままずるずると悟浄の身体を引き摺り、玄関からほうり投げた。
 悟浄が返す言葉もないうちに、非情にも玄関の扉が閉められる。それを呆然と見送りながら、悟浄は眼前で閉められた玄関をただ凝視した。あまりの仕打ちに、唖然とするしかない。
 けれど、八戒をあそこまで怒らせた原因は己の諸行で。
 しかも、ああなった八戒に逆らうだけの術は、悟浄にはまったくなくて。
 悟浄のこういう甘さが、結局のところ八戒をつけ上がらせているのだが。そこは惚れた弱みか、悟浄は仕方がないと肩をすくめて、とりあえず稼ぎに行くべく夜の町へと足を向けた。
 こうなりゃ、帰ってからぜってー啼かす、と胸中で懲りない決意を固めながら。





□深夜□



 夜の帳のなか、寝台の軋みと、湿った音、そしてせわしい息遣いが狭い室内にこもっていた。
「あぁ、ん、もう、……ダメ……ッ」
「くッ、……俺、もっ」
 互いを貪り合うように、唇を絡めて、腰も絡めて。肌と肌とを密着させながら、快楽の極みを目指してともに激しく腰を揺らめかせる。
 堪え切れない嬌声をあげ、必死に悟浄の背へ爪を立てながら縋りついてくる八戒の媚態に煽られるように、悟浄はひときわ大きく腰を引いて、その奥底へと己の欲望を突き立てた。途端、八戒の躯がびくりと跳ね上がったかと思うと、声にならない悲鳴を上げて悦を極めた。その衝撃に、悟浄もまた、彼の身のうちに快楽の証を叩きつける。
「あぁぁ―――……ッ」
「はっかい、……っ!」
 互いに喜悦に彩られた呻き声を漏らして、一気に頂点へと昇りつめる。すると、悟浄の躯の下に抱き込んでいた八戒の身体からくたりと力が抜けた。見れば、八戒は荒い息を吐きながら、意識を彼方へととばしてしまっていた。さすがに、昨日の今日で抜かず三発はきつかったか、と、悟浄は苦笑しながら彼の額の生え際あたりに指をのばす。
 汗で張り付いた少し長めの前髪をはらいながら、どこかあどけないふうの八戒の寝顔を見つめた。昼間の彼の態度は本当にかわいくないし、どうあってもかなわないしで、悟浄としてもいろいろと思うところはあるのだが。しかし、こうして悟浄の腕の中で安心しきったように眠る八戒を見ていると、この胸裡が不思議な感情で満たされていく。
 そう。
 同性の、しかも同い年の男の寝顔を見て、かわいいとか、ほほえましいとか、いとおしいとか思う時が来ようとは、人生何があるか判んねーよな、と微苦笑を深め、悟浄はふと真顔に戻った。
よくよく考えると、――もしかして。
(俺がコイツにかなう時って、えっちの時だけとか!?)
 よくよく考えなくてもその通りなのだが。今さらながらその事実に気がついて、悟浄は瞠目したまま、そろりと眼下の想いびとを見つめた。
 だが、気がついたからといって、その現状がこれから特に変わるわけでもなく。
(ま、――イイんだけど、さ)
 八戒がここにいてくれるだけで、――十分。
 たとえ日中はこうして尻に敷かれ続けようとも。悟浄が判っていて、その立場に甘んじているのだから。そして、夜はこうして悟浄が主導権を握って愛し合う。それで十分だと思う。
 だから。
 悟浄は小さく肩をすくめると、そんな感情を抱かせてくれた大切なひとに、そっと口づけた。


 彼へのいとしい気持ちごと。







 次の日の朝、八戒のさらなる怒りを買い、もっと悲惨な目に合うことになろうとは、今は知る由もなく。








《エンドレスエンド》

「TECHNO-HOUSE」様の『家庭内カースト』へ寄稿。

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