ビタースウィート




 目覚めともに感じた、鼻腔をくすぐる芳醇かつ香ばしい匂いに、悟浄の意識は急速に覚醒した。
 そのままの勢いで、一気に上体を起こす。
 どちらかと言うと寝汚い悟浄にしては、珍しいくらいの寝起きのよさだ。
 そのさまに、既に起きていた八戒が驚きの声をあげた。
「おはようございます、悟浄」
「……」
 にっこりと、いつもの如く表面上は判りやすく清々しい笑顔を向けられるが、悟浄の視線は彼の微笑みをとばしてその手元で止まる。
 八戒が手にしていたのは、茶色の液体が入ったガラス製のサーバーだった。それをじっと見つめる悟浄をいぶかしんでか、八戒の柳眉がわずかに寄せられる。
「悟浄の分もちゃんと淹れますよ? ……ブラックでいいですか?」
「……ああ」
 ここでようやく、八戒がコーヒーを淹れているのだということを認識した悟浄は、決まり悪げに寝癖のついた前髪を乱雑に掻きあげた。寝起き直後である分、どうにも悟浄の反応は鈍い。それでも、いったん目が覚めてしまえばそんなに寝起き自体が悪いわけではないので、ここにきて少しずつ状況が見え始める。
 確か、昨晩は久しぶりの二人部屋で、しかも八戒と同室だった。
 それなのに、互いに疲れが先立って結局ナニもしなかったんだよなあ、と妙にそこだけはしっかりと思い出して、悟浄は残念そうにため息を漏らした。この次に八戒と二人きりの同室になれる機会など、いつになるか知れたものではないというのに。
 そんな悟浄の胸中は、しっかりと顔にも出ていたらしい。気がつけば、嗅ぎ慣れた濃厚な香りとともに、マグカップが悟浄の視界に飛び込んできた。見れば、いまだベッド上に腰掛けたままの悟浄へと、八戒がマグカップを差し出している。
 それも呆れまじりの苦笑つきで。
「はい、コーヒー」
「……さんきゅ」
「貴方ねえ。朝っぱらからそんな露骨にやらしげな顔をするの、やめてくださいよ。見ているほうがいたたまれないですから」
 ベッド脇に立ったまま、自分用のマグカップに口をつけながら、八戒が深々と嘆息した。悟浄はちらりと上目遣いに彼を見て、コーヒーをごくりと一口飲む。
 悟浄の好みに合わせられた、濃い目のブラック。
 独特の苦味のある液体が咽喉を通り抜ければ、悟浄の意識はさらにはっきりとしてくる。
 かつて二人で暮していた頃は、当たり前だった光景。けれど、四人で西域へ向かう旅を始めてから、宿に到着してから夜にかけてコーヒーを淹れることはあれども、朝から八戒自らコーヒーを淹れることはそういえばなかった。だから、この――コーヒーの香りを朝から感じたことに、違和感を覚えたのだ。そして、ある種のなつかしさも。
 なんだか感傷じみていると、悟浄はほんの少しだけ眦を眇めた。
「仕方ねぇじゃん。せっかくの二人部屋だったってのに」
「……それこそ仕方ないでしょう。あんなに疲れていて、やろうって気にはなれませんよ」
「だから残念だなって」
「だからって、朝から締まりのない顔をするのはやめてくださいね。まったく」
 コーヒーを飲みつつも、八戒の口調は容赦ない。
 悟浄はくすりと口の端をあげながら、肩をすくめた。
「とか言って、お前こそ朝っぱらからコーヒー淹れてるし、ひとのコト言えねえだろ?」
「――はい?」
 いったい何を言い出すのだと、八戒は怪訝な目付きで悟浄を見る。悟浄はにやにやと口許を緩めたまま、空になったマグカップを手に、ようやくベッドから立ち上がった。そして、彼の横に立ち、マグカップを机上に置きつつ意味深に紅の双眸を細めてみせる。
「コーヒーってさ、つまりはそーゆう意味らしいし?」
「……だからなんですか」
 八戒の口調に判りやすく苛立ちがこもる。悟浄はさらに笑みを深めた。
「だからさ、セックス」
「――」
 あからさまな単語に、八戒はかすかに瞠目すると、信じられないものを見るような眼を悟浄へと向けた。そんな彼へと見せ付けるように、片側だけ唇端をつり上げる。
「つまりぃ、旅を始めてから全然淹れなかったのに、今日に限って朝、しかも濃いぃブラックなヤツを淹れたってコトは、八戒も朝から濃厚なのをシたいのかなーって」
「…………呆れてモノも言えないとはこの事ですかねえ……」
 八戒はこれ見よがしに、深々とため息を漏らした。ふう、とわざとらしく大仰に息を吐き出す彼の肩を掴んで、己のほうへと痩躯を向けさせる。
「お前、俺がテキトーなコトを言ってるとか思ってんだろ?」
「もちろん思ってますよ」
 当たり前じゃないですか。と、八戒は寒々しい笑顔で一蹴した。
 即答かよ、と内心で突っ込みを入れつつ、悟浄は口許を微妙に引き攣らせながらも正面から八戒を見据えた。
「残念ながらこりゃ立派な心理テストだっつーの。だからお前も口ではナンだかんだ言っても、」
「言っても、なんですか?」
 ふと八戒の顔を見れば、それは判りやすく怒りを表面に出していた。さすがに悟浄の言葉尻が小さくなる。
「……内心ではまんざらじゃ、」
「なーんて言うのはどの口ですかねぇ?」
 すると、不意打ちで、八戒が手にしていたマグカップが悟浄の額に当てられた。まだ熱い液体が入ったままそれはひどく熱くて、悟浄は飛び上がらんばかりに目を剥いた。
「あっちぃ!」
「ロクでもない事ばかり言うからですよ」
「それにしたって、いきなり俺に押し付けるかっての! ……火傷するだろがっ!」
 赤くなった額を手で押さえながら涙目で訴えると、八戒はようやく満足げに唇をつり上げた。くすくすと、どこか愉しげに微笑んでいる。
「心配しなくても、火傷するほどは熱くはないですよ。それでもまあ、……仕方ないですし」
 八戒は自分が持っていたマグカップを、その横にある机に置いた。そして、両手でぐいと悟浄の頭を左右双方から掴むと、いきなり自分のほうへとその頭を引き寄せた。突然の八戒の力技に、悟浄が瞳を丸くしているうちに、ふと額に柔らかな感触が落ちる。
 ……これは、もしかして。
 不自然に頭だけを八戒のほうへと屈めた姿勢で、頭は彼の両手でしっかりと固定されたまま。そんな体勢で、あきらかに少々ひりひりする額のある部分で感じる、ふわりとした、それでいて柔らかであたたかな感触。
 どう考えても、八戒が、悟浄の額にキスをしている。
 なんだか急に気恥ずかしくなって、悟浄はかっと顔に血をのぼらせた。下手にセクシャルな行為をしているよりも、ずっと恥ずかしいと思った。もちろん、八戒とはこんな可愛らしい触れ合いよりもずっと、大人な触れ合いもいたしているというのに。
 不意打ちでこんなのは――困る。
 悟浄のとまどいをよそに、両側から頭を拘束していた力が緩んだかと思うと、そのまま八戒の唇も離れていく。それでも手はいまだ悟浄の頭に触れたまま、八戒と正面、それも至近距離から見つめ合うかたちとなった。
 赤くなった悟浄の顔を見て、一瞬目を瞠ったものの、八戒は柔らかく微笑んだ。どこか笑みを噛み殺したふうにも見える。悟浄はばつが悪げに、拗ねたように唇を尖らせた。
 顔面から熱が引かない。それが気恥ずかしさを増長させる。
「……ナンだよ」
「いえ、――痛いのはおさまりましたか?」
「……は?」
「だから、火傷したらしいところを舐めるのはさすがに憚られたので、ちょっとキスしてみたんですけど」
「――」
 それこそ照れたように言い募る男を、悟浄は一瞬、惚けたように見つめた。
 ぽかんと穴があくのではないかと思うほど見つめて、そしてふいに眼前の細腰へと腕を回した。その勢いのまま痩身を引き寄せて、いきなりその唇を己のそれで深々と塞いだ。
「――っ!」
 突然の口づけに、腕中の彼が大きく震えたのが伝わってきた。それでもかまわず、噛み付くようなキスを仕掛ける。
 何度も何度も角度を変えて。いとしい男の唇を貪るようにキスを続ける。
 自然と、悟浄の口づけにこたえるように、彼の舌が絡んできた。それをきつく吸い上げて、互いに求め合うように絡ませ合って。
「……ふ、……ん」
 呼吸の合間に零れる、あまやかな吐息。
 鼻から抜ける甘ったるい息声に、悟浄の熱もまた高まる一方だ。それをもっと引き出したくて、夢中で口腔内を貪り続けた。
 二人きりだったというのに、昨晩肌を触れ合わせることがなかったせいか、深まるキスに煽られて、体内の熱が容赦なくあがっていく。次第に昂ぶる身体を摺り寄せるよう、悟浄はわざと己の下肢を八戒へと押し付けた。途端に震える八戒の下肢をなだめるよう、ますます口づけを深める。互いの唇から零れる淫靡な水音が室内に低く響いた。
 びくりと、八戒の腰が大きく揺れる。
 たまらずといった風情で悟浄へと縋りつく細腰を支えながら、悟浄はことさらゆっくりと口づけを解いた。
 二人の間に、細い銀糸がかかり、朝日を浴びてきらりと煌く。それは朝の時間に似合わぬほど、ひどく淫靡な光景だった。
 目許を朱に染めて、八戒は悟浄を見ることなくそのまま翠瞳を伏せた。ほぅと、あがった息を逃がすように、ゆるゆるとため息を零す。
「……貴方とのキスはいつも苦いけど、今日のはいつもよりずっと苦いですね……」
 煙草とコーヒーが混ざり合っていることを言いたいのだろう。なんとも可愛らしいことを口にする彼にすっかり気をよくして、悟浄はさらにいやらしい笑みを深めた。
「オトナな味だろ?」
「確かに」
 八戒はかすかに笑うと、ゆっくりと白い面をあげた。ほのかに紅色に染まる眦に、悟浄は軽くキスを贈った。くすぐったげに身を捩る痩身を逃がさぬよう、腰を支える腕に力を込める。
 くつくつと愉しげに咽喉を鳴らせば、腕の中の彼が胡乱げな視線で流し見た。
「……なんですか」
「コーヒーひとつで煽られちゃうなんて、俺らも若いねえ」
「――まったくですね」
 ふいに、八戒の右腕が悟浄の後頭部へ伸ばされたかと思うと、そのまま顔を寄せ、彼のほうから口づけてきた。いきなり噛み付くようなキスを施されて、悟浄が驚きに目を見開いている間にも、八戒の口づけは強さを増していく。
 強引に唇を重ね合わせて。その隙間から、濡れた熱いぬめりが遠慮なく差し込まれる。
 口腔を蹂躙するほどに、きつくて――熱い接吻。
 最初は八戒の好きなようにさせていた悟浄も、さらに自分のほうへ引き寄せるべくうすい背中を抱き寄せたと同時に、深々と唇を触れ合わせる。そして、貪欲に己を求める彼の舌に自らのそれを絡めて、きつく吸い上げた。
「……んんっ」
 飲み込みきれない透明な雫が、八戒の唇から零れ落ちる。
 苦しげに眉宇を寄せつつ、八戒は艶めいた吐息を漏らした。八戒の秀麗な貌に浮かぶ悩ましげな表情に、どくりと悟浄の胸が高鳴った。その熱情は下肢へと集約され、判りやすくかたちを成していく。
 たまらず、悟浄は眼前で震える白い首筋に、荒々しく唇を寄せた。
 途端、悟浄の腕の中からするりと存在感が消えた。驚いてその存在の軌跡を追うと、八戒は涼しい顔をして再び机に向かい、空になったコーヒーサーバーを片付けている。
「でも、――時間がないので、この続きは次の宿で」
「はあ?」
 悟浄には見向きもしないで手を動かす八戒を、悟浄は唖然と見つめた。
「元々、今日は朝早くに出発だから目を覚まさないと……と思って、コーヒーを淹れたんですよ。ここで貴方とシたら本末転倒ですから」
「あんなキスかましといてかよ!?」
「キスだけじゃご不満ですか?」
「不満に決まってんだろ!」
 これがついほんの一瞬前まで、己の腕の中で熱くなっていた恋人と同一人物なのだろうか。
 あまりにも切り替えの早い八戒を、悟浄は信じられないと云わんばかりの目付きで凝視した。いや、元々猪八戒とはそういう男なのだが。そう、判ってはいても、すっかりその気になっていた悟浄にしてみれば、それとこれとは話が別で。
 そんな悟浄の思いは、やはり顔にあらわれていたのだろう。八戒は悟浄の表情を目の当たりにして、困ったように微笑んだ。そして、八戒が口つけていたマグカップ――ほとんど中身が減っていないそれを、悟浄へと差し出す。
「まあ……今はこれで我慢してください」
 続きの意思表示ということで、と、八戒がつぶやく。
 悟浄は思わず、差し出されたマグカップをまじまじと見つめた。彼らしいのかそうでないのか、なんとも判りかねる物言いに、悟浄もどうしていいものか思案する。
 言葉通りに取れば、非常に悟浄の都合のいいように聞こえるのだが。
「……これって、そーゆう意味で受け取ったらいいのか?」
「お好きにどうぞ?」
 くすくすと、八戒が口許に愉しげな笑みを零す。その微笑みに一瞬、軽く目を瞠ったものの、悟浄もまたくすりと肉厚の唇に笑みを刻む。
 素直なようで素直ではない、八戒らしい意思表示。
 それならば、悟浄のほうもしっかり都合よく受け取らせてもらうまでだ。
 そう思いつつ、手にしたマグカップを口に運んで――、そして口に含んだ途端、思い切り眉宇をしかめた。
「……甘っ!」
 ブラックでしか飲めない悟浄にしてみれば、ある意味拷問に近い甘ったるさを知らずに飲む羽目になり、悟浄は即吐き捨てるように言った。八戒はというと、判っていたのだろう。ますます笑みを深くして、そんな悟浄の様子を見つめている。
「言うの忘れてましたけど、それ、ミルクと砂糖たっぷりですから」
「八戒……判ってて渡しただろ……」
「確認しない貴方もどうかと思いますけど」
「……うっ」
 返す言葉もない。
 悟浄が憔悴しているところへ八戒は手を伸ばし、その手にあったマグカップを再び自分の元に戻した。そうして再びその中身を飲み干し、空になったマグカップを机の上に戻す。
「でも、コーヒーがセックスやその趣向を意味するのなら、このコーヒーから導き出される僕の好みでも考えてみたらどうです?」
 とんでもない爆弾発言をさらりと口にしつつ。にこりと、とどめと云わんばかりの笑顔を悟浄に向ける。
 ――続きは後でと言いながら、それこそ、どこまで悟浄を煽れば気がすむのだろう。
 悟浄は、己を煽り立てることにかけては天下一品の想いびとをまじまじと見つめ返した。心底、まいったと思う。くくっと思わず咽喉奥から笑みが零れ出た。
 どこまでも苦くて、そして、どこまで甘い。
 それこそ、八戒自身がまるでコーヒーそのもののようだ。
 悟浄はさらに肩を揺らしながら笑った。そうして、眼前の彼の唇を、吸い付くようなキスで塞ぐ。
 そのキスは、苦くて――ほのかに甘かった。
 もう少し深く、彼とのキスを堪能していたいけれど、あえて唇だけのキスにとどめて。わざと濡れた音を立てて何度かキスをすると、八戒が苦笑ぎみに口許を緩める。
「なんですか、もう」
「ん。そりゃあ、……お約束のキスってヤツ?」
 続きはお前好みでたっぷりと、とささやけば、目に見えて八戒の苦笑が深まった。そっと悟浄の左頬に手を添えて、ふうわりと微笑む。
「それなら、僕も頂こうかな」
「何を」
「貴方のキス」
 コーヒーよりもこちらがいいです。そうささやいて、再び悟浄へと口づけた。
 八戒からのキスに、悟浄もまたこたえるべく、彼の動きに合わせて深々と唇を重ね合わせる。
 ほんのわずかではあるけれど、二人だけの時間を過ごすために。そう――まるで悟浄に淹れたコーヒーよりもずっと濃密でストレートな熱い口づけを、二人で堪能するために。




 ビタースウィートなキスを、交わして。







FIN

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