八戒の買出しにつきあい、大荷物を抱えながら宿へ向かう途中、ふと視界の端をよぎった不可思議な光景に、悟浄は思わずその方向へと顔を向けた。
そんな悟浄の様子に気づいて、八戒が疑問符を飛ばしながら悟浄を見やる。
「どうかしましたか、悟浄」
「なぁ、八戒」
両手が塞がっているため、悟浄は顎を軽くしゃくりながら、気になるほうへと指し示す。悟浄の動きにあわせて、八戒の視線がゆっくりとその方向へと向けられた。そして、ある一点のところで、ぴたりと止まる。
「アレ、何してンの?」
二人のいる場所から少し離れたとある店先で、子供が数人集まり、ストローを吹いて何やら巨大な泡を飛ばしていた。初めて目にする不思議な光景に、悟浄はいぶかしげに目を細める。
すると、八戒が得心がいった、というふうに表情をゆるめて「あぁ」と相槌を打った。
「しゃぼん玉を作ってるんですね。……って、悟浄、知りません?」
ふわふわとたちのぼるまあるい泡をぼんやりと眺めながら、悟浄は軽く肩をすくめた。
「知らねぇ。初めて見た」
「まぁ、貴方が子供の頃、ああいう遊びをしていたところ、想像つきませんしね」
くすり、と、八戒が苦笑ぎみにつぶやく。そして、ふと隣りを並び歩く悟浄のほうへと顔だけを向けたきた。
「なんだったら、悟浄もしゃぼん玉、作ってみます?」
八戒からの意外な提案に、悟浄は小さく瞠目して彼を見た。
その“しゃぼん玉”なるものを作るにあたり、子供たちが手にしているコップみたいなものにストローの先をつけ、それを吹いて作られているらしいのは、遠目で見ている悟浄にも判った。ということは、あのコップの中身に何らかのからくりがあるのだろうと思っていたけれど。八戒があっさりと作ることを提案してくるということは、その中身も案外簡単なものなのだろうか。
悟浄は、ちら、と横に立つ八戒を流し見た。目が合った途端、にこり、とやわらかく微笑む八戒の笑顔に、悟浄は内心どきりとする。
その笑みは、今見たしゃぼん玉のようにどこかふわふわとしていて、そしてキレイで。
「そんなに簡単に作れるモンなワケ?」
「宿に帰れば、簡単に作れますよ」
せっかくだし作りましょうかと、八戒はどこかうれしげに言う。
何故か機嫌良さげな八戒と、そして何故か妙に気になるしゃぼん玉に気を取られつつも。
「……なら、作って」
悟浄は照れ隠しのようにぶっきら棒に告げた。途端、ますます八戒の笑みが深まる。
「判りました。楽しみにしてて下さい」
大のオトナが、しゃぼん玉を楽しみにするのもどうだろうと思いながらも、悟浄は好奇心と八戒の笑顔にはかなわないとばかりに苦笑した。
ともあれ。
八戒といっしょだからきっと楽しみなんだろう、とあいかわらずベタなことを思いつつ。
「これです」
宿部屋に帰りつき、荷物の整理をした後。
ちょっと待ってて下さいと、八戒は洗面所に消えてから数分後、備え付けのコップに何やら謎の液体を携えて戻ってきた。それを興味深そうに、悟浄はその手元をまじまじと見つめる。
「ナニ、それがしゃぼん玉のもと?」
「そうです。……なんだと思います?」
あいかわらず八戒はどこか楽しそうだった。くすくすと笑み零れる彼の表情をちらりと見やり、悟浄は八戒に近づいてコップの中身を覗き込む。
「判んねぇから訊いてンだけど」
八戒はくすりと笑み深めて、無言のままそのコップを手に窓際まで歩を進めた。両開きの窓を開け放ち、徐にストローを取り出すと、流れるような仕種でその先をコップ内の液体につけ、それからストローの反対側の先を咥えてそっと息を吹き込んだ。
「――」
ストローの先から生み出されるいくつものしゃぼん玉の群れに、悟浄は思わず瞠目した。八戒が作り出したしゃぼん玉が、ふわりふわりと宙を舞う。それはゆっくりと上に向かってたちのぼり、やがてはじけて消えた。
「――へぇ……」
なんとも、はかなくもささやかできれいなものなのか。
「どうです?」
「んー、もう一度やって」
悟浄のおねだりに八戒は無言で小さく微笑むと、もう一度先ほどと同じ動作でしゃぼん玉を生み出した。今回は、何度も何度も。
八戒が作るしゃぼん玉を、悟浄はただぼんやりと眺めていた。紫煙とともに上がるしゃぼん玉は、作っては消え、作っては消えをくり返す。初めて目の当たりにする、きらきらしたまあるいしゃぼん玉から何故か目が離せなくて、悟浄はその泡が舞い上がる様をただ見つめていた。
いつの間にか、八戒もストローから口を放し、最後に作ったしゃぼん玉がふわりとたちのぼる様を静かに見上げていた。ふと、彼をとりまく雰囲気がかわったことに気づいて、悟浄は軽く眦を眇めながら横に並び立つ八戒を流し見る。
その表情は、どこかせつなくて。
まるで、ここにはない何かを見ているような、ひどく遠い目をしていた。
なんとなくしゃぼん玉に「何」を重ねているのか想像がついた悟浄は、彼に気づかれないよう短くため息をつく。
今でも時折浮かべる、はかなげな、それでいてどこか泣き出しそうな笑顔。仕方がない、とは判っていても、悟浄を通り越して別の誰か――たとえそれが既にこの世にいない、かつての彼の最愛の女性であったとしても――を見ていることに、ひどく心がざわめいた。割り切っているつもりでも、こうして時々現実をつきつけられると、結構きつい。
その気持ちを吹っ切るように、悟浄はわざと自嘲気味に笑った。皮肉げに口許をゆがめて、八戒のほうへと向き直る。
「結局、その中身はナニよ?」
悟浄の問い掛けに、八戒も我に返ったようだった。ぴくりと小さく肩を震わせて、少しばつが悪そうな貌を悟浄に向けてくる。
「まだ判りません?」
「だから、判んねぇっつってンじゃん」
なかなか種明かしをしてくれない八戒に焦れて、悟浄が拗ねた口調で言い返すと、八戒は仕方ないですねぇ、と先ほどと同じような、どことなく愉快げな笑みを浮かべた。
「これ、石鹸液なんですよ。だから“しゃぼん”玉、って言うんですけど」
「あー、なーる……」
では、あの泡みたいな球状のものは正真正銘の泡、というわけか。
納得、と悟浄か相槌を打つと、八戒は再びストローを咥え、しゃぼん玉を作って飛ばした。ストローを咥える彼のその口許がわずかに濡れて。その光景がつ、と目に留まり、悟浄は思わず見惚れた。
けれど。その八戒は、あいかわらずどこか遠い目をしながら、自分が作ったしゃぼん玉を見ている。
「なぁ」
その思考を遮るように、悟浄はわざとらしく問い掛けた。
「……なんです?」
「ナニ、考えてンのかな、と思って」
悟浄の問い掛けに、八戒はふと動きを止めた。だが、特に悟浄のほうを向くこともないまま、同じ手付きでしゃぼん玉を作り続ける。
「――さぁ、なんでしょうねぇ……」
曖昧に笑いながら、ごまかすように答える八戒に、悟浄は胸中で深く嘆息する。悟浄の想像通りなら、どのみち口にすることはないとは思っていたが。それでも。
悟浄は己のやるせない想いを吐き出すように、今度は目に見えて大きく息を吐いた。
「俺からすると、お前のほうがしゃぼん玉みてぇ」
「そんなに簡単に消え入りそうですか、僕」
「イヤ。でも、――そんな時も、ある、か…」
何かその先を言いかけて言葉を飲み込んだ悟浄を、八戒は横目でちらりといぶかしげに見た。
確かに。この、しゃぼん玉に彼を重ねたのは事実。
でも、自分は八戒のそういったはかなげな風情や、それでいて決して手折られることのないつよさ――それを彼はよく“エゴ”といっているけれど――に惹かれているから。
しゃぼん玉のようにキレイではかなく、けれどしゃぼん玉のように簡単に消えてしまいそうでは、ない。
「悟浄?」
怪訝そうな八戒の声音に、今度は悟浄が我に返る番だった。
困ったように微笑みながら悟浄を見つめる彼が、ただ――いとおしくて。
悟浄はふいに胸裏にわきあがる想いごと、そろりと横にある痩躯へ腕を伸ばした。そして、あっという間に彼を己の腕(かいな)に抱きしめる。
八戒が、しゃぼん玉を見て何を重ねていたのか、想像はつくけれど。
けれど。
「俺は消えねぇから」
「――……っ」
懐に抱き込んだ八戒が、息を呑む気配が伝わってくる。
まるで誓いのような悟浄の言葉を、八戒はどう受け止めたのかは判らない。だが、それは今の悟浄の偽りない本心だった。だから、少しでも信じてほしくて、悟浄は抱きしめる腕に力を込める。
確かに、彼らの想いは、まるでしゃぼん玉にも似たものだったのかもしれない。
でも、悟浄は、彼女とは違う。
だから。
(お前を置いては、――いかねぇ、から)
そう、胸中でささやきながら、悟浄はきつくその細躯を胸懐に閉じ込める。
それまで腕を下ろしたままだった八戒が、そろりと悟浄の背にしなやかな腕をまわしてくる。縋りつくように、同じだけのつよさで抱きしめ返してくる八戒を、悟浄はただ抱きしめた。
――その時、最後のしゃぼん玉が、こわれて消えた。
まるで、二人の姿を見届けるように。
FIN
2003年8月大阪イベントの無配。続きの「お風呂で泡泡編」はひみつべやにて公開中。