朝はまた来る




 目を覚ますと、そこはいつも通りの見慣れない部屋の中だった。
 だが、いまいちその前の記憶がはっきりしなくて、八戒は起き抜けでまだ視界が定まりきらない翠の双眸を眩しげに細めた。
「――気分はど?」
 ふと耳に飛び込んできた男の声に、八戒は我に返るように、急速に意識を覚醒させた。
 声のしたほうへそろりと顔を廻らせると、途端全身を走る鋭い痛みに眉宇をよせつつ、それでもしっかりと声の主――悟浄を見る。
 どうやら二人部屋らしく、悟浄は、八戒が横たわる寝台と並びで置かれているもう一方の寝台を背に床の上に直接腰を下ろしていた。そして、どこか気だるげに怠惰な風情で紫煙を燻らせながら、上目遣いで八戒をじっと見ているようだった。
「……えっと、……ここ、は」
「宿に着いた途端ぶっ倒れたの覚えてねーの?」
 心なしか悟浄の声音が固い。八戒を見据えるように容赦なく冷えた視線を向けてくる彼に、八戒は思わず息を詰めた。そんな些細な動作にすら、全身に痛みが走る。
 その痛みで、ようやくおぼろげながら、今自分が置かれている状況が見えてきた。それに、八戒はそろりと嘆息する。
「……思い出しました。そういえば、三蔵に運転してもらってここまでたどり着いたところまでしか記憶にないです」
「その後の記憶もあったらスゲーよな」
「……悟浄」
 いちいち突っかかるような悟浄の口調に、八戒は訝しげに柳眉をひそめた。不貞腐れているとも、怒っているともとれる、彼の投げやりな言い方が妙に気に障った。
「……もしかして、怒ってます?」
 八戒のため息混じりの問い掛けは、だが、悟浄のきつい視線で返される。
 深紅の双眸に浮かぶ激しい感情の色に、八戒は目を瞠った。
「怒ってるに決まってンだろ」
 悟浄は吐き捨てるように言い切り、八戒から目をそらしながら煩わしげに前髪を梳き上げた。その表情に、つきりと、八戒の胸奥に痛みが走る。それは、今、体中を襲う痛みよりも、八戒にとっては何よりも痛く感じた。
 悟浄の怒りの原因は、八戒の自惚れでなければ、――先だっての「カミサマ」との最後の戦いにおける八戒の行動であることは容易に想像がついた。
 戦いの途中、自分の背後に立った三蔵がどうするかを瞬時に悟った八戒は、とっさの判断で彼の盾となり、カミサマの攻撃を正面から全身まともにくらった。その上、三蔵の放った銃弾が脇腹二ヶ所をかすめて。
 その衝撃に耐え切れずその場で前のめりに倒れ込んでしまった八戒を抱き起こしてくれたのが悟浄だった。その時、――それは八戒すら聞き取れるかどうかのかなり小さな呟きだったのだが――悟浄は喉奥からしぼり出すような声音で「馬鹿ヤロウ」と言ったのだ。
 その響きに込められた悟浄の想いに気づかないほど、八戒も馬鹿ではないつもりだ。それこそ自惚れでなければ、あの時の自分を目の当たりにして悟浄がどう思ったかなんて、八戒も判っているつもりだ。
 けれど。
 判っているからといって、それを相手が納得、もしくは理解してくれることとは、また別問題なのだ。だから。
「……悟浄がどうして怒っているかは判ります。けれど、あの時はああするのが一番いいと思った、そのことについては謝りません。ただ、こうして貴方に心配をかけてしまったことについては謝ります。すみませんでした」
「ホントに判ってんのお前?」
「――?」
 ふいに悟浄の顔が苦しげに歪められた。その真意が判らなくて、八戒も無言で見つめ返す。
「あんなトコ目の前で見せつけられて、俺がどういう気持ちだったか、ホントに判ってんのか?」
「ご、じょう?」
「判ってんなら、ナンで……ッ!」
 悟浄は深紅の前髪を己の掌でぐしゃりと掴むように掻きあげると、そのまま面を下に落とした。
 八戒は小さく息を呑むと、上半身だけでも起こすために、痛みで軋む体に顔をしかめながら、それでもゆっくりと体を起こそうとした。途端、体の節々に走る激痛と貧血からくる眩暈に、痩身が倒れかかる。それに気づいた悟浄が、あわてて腕をさしのべた。
 触れる彼の腕に、何故か一瞬泣きたくなるほどの安堵感を覚えて、八戒はゆるゆると息を吐き出した。そして、横に立つ悟浄を見上げると、――やはりそこには、苦悶の表情を浮かべた彼がいた。
「まったく……っ! ナンだってお前はこう自分には無頓着なんだよ」
 悟浄の腕に安堵したのもつかの間、先ほどから一方的に悟浄に責められてばかりいることに、さすがに八戒の表情も曇る。
 こんなふうに、自分の意見ばかりを押し付けてくる彼にカチンときた八戒は、無言でそっとそれまで自分の体を支えていた悟浄の腕を押し返すと、きつく悟浄を見据えた。
「じゃあ、言わせてもらいますけどね」
「ナンだよ」
「それは悟浄だって同じでしょう? あの時黙って一人で出て行った貴方を僕がどう思っていたかなんて、あの後判ってるとか言いましたけど、本当に貴方判ってますか?」
「――八戒、」
 これでは売り言葉に買い言葉だと、八戒は内心思いながらも、それでも一度口を開いたらもう止まらなかった。
「貴方がいない朝が来るたびに僕がどんな思いをしていたかなんて、本当は判らないでしょう? でも、結局、僕も貴方も勝手なんです。甘えてるんですよね、貴方なら判ってくれると」
「……判りたくもねェ。そーゆうのなら」
 悟浄の呟きに、八戒はさらに目を細めてうすく笑う。くくっという自嘲の笑みが、思わず喉をついて出た。
「それはこっちの台詞ですよ。僕だって、あの時のことなんて判りたくもないです。でも、判りたくもないのに判ってしまう自分が一番イヤで」
「――」
 八戒の言葉に、悟浄は短く瞠目して、どこか呆然とした表情で八戒を見た。それに、八戒はうすら笑いを深めることで返す。
 そう。
 あの時、判っていて彼を一人で行かせたのは、八戒自身。
 それを、こうして今さら引き合いに出すのは卑怯だと、自分でも思う。けれど、今、悟浄が八戒の行動に対して思うところがあると怒るのなら、それなら八戒も悟浄の行動に対して同じく怒る権利があると、そう思ったのだ。今まであえて口にしなかった、あの単独行動のことを。
 あの時の悟浄は、八戒なら判ってくれると、思っていた。
 そして、八戒もまた、あんな行動をとっても悟浄なら判ってくれると、思っていた。
 結局のところ、どちらも相手に甘えているのだ。だから、それを責め合うのはお門違いだと、そう言いたかったのに。
 八戒はふいに深々と嘆息して、上体を起こしているだけで痛む体をそっと寝台の頭部分に背中からもたれ掛けた。
「……すみません。気が緩んだせいかな。止まらなくて」
「……悪ィ」
 ぼそりと、悟浄の口から謝罪の言葉が漏れる。八戒が弾かれたように彼を見つめ返すと、悟浄はきつく唇を噛みしめながら、気だるげに隣の寝台に腰を下ろした。そして、自分への苛立ちをぶつけるように、くしゃりと深紅の前髪に手を掛ける。
「全部、テメェで蒔いた種だってのにな」
「悟浄」
「判ってんの。ホントは、結局、全部俺が悪ィんだよな。皆ボロボロなのも、八戒がこんなになってンのも全部」
「――悟浄」
「ホントは判りたくもねェ。でも、それでもお前、見てらんなくて。自分でもスッゲ勝手なこと抜かしてんなって判ってんだけど、……悪ィ、八戒」
 悟浄はずっと下を向きっぱなしで、八戒からその表情は窺えなかった。ただ、その掠れた声音から伝わる悟浄の思いに押しつぶされそうだと、八戒はぎゅっと手元の敷布を握りしめた。
 今、猛烈に、彼を ――悟浄をこの腕で抱きしめたいと、そう思うのに。
 酷い怪我のせいでまったく思うようにならない体に、八戒はきつく口許を引き結んだ。そして今、はじめて思い通りにならない体が辛いと思った。その結果がこれなら、あの時自分が取った行動をはじめて後悔した。
「悟浄、――どうか顔を上げて下さい」
「……今すげー情けねーツラしてるから、ヤ」
「お願いです。……でないと、伝わらないから」
 悟浄に触れたい。貴方を抱きしめたい。
 この腕は伸ばせないけれど、この思いを全身で伝えたいから。
 八戒のその気持ちが伝わったのか、悟浄はゆるゆると顔を上げた。どこかまだ苦渋を滲ませた表情を浮かべていた悟浄が、八戒の表情を見た途端、小さく声を呑む。  八戒は微笑(わら)っていた。どこか困ったような、それでいてやわらかな、あたたかい笑みを浮かべていた。先ほどまでとはうって変わったその表情に、悟浄は目を瞠る。
「はっかい?」
「本当に、どうしようもないですよね、僕たち」
 苦笑じみた笑みをその口許にはいて、八戒は悟浄を見つめる。
「こんなに傍にいても、絶対的に何もかもが足りないんですよね、貴方も僕も。いつもなら、このまま躯を重ねてごまかしてしまうんでしょうけど、生憎今は僕から手を伸ばしたくても伸ばせないし」
「……お前、」
 八戒の言葉に、悟浄は絶句したようだった。驚いた面を隠しもしないで、八戒をただ見つめ返してくる。
「だから、今はちゃんと言葉にしたい。言っても無駄だと判っていても」
「それはお互い様ってヤツ……?」
 悟浄はそっと八戒の寝台へと腰を下ろし、そろりと、八戒へと腕を伸ばしてきた。寝台の上に投げ出されていた八戒の左手に、するりと悟浄の右手が絡む。ぎゅっと握り締めた悟浄の掌から自分より高い体温を感じて、八戒はほぅと、短く吐息を漏らした。
 ようやく触れることの出来た心地よさに、自然と体の痛みも和らぐような気さえする。
「そう、お互い様なんです。たとえ、僕がもう置いていかないで下さいと言っても、多分またきっと同じ事態になったら、貴方はやっぱり僕を置いていくんだろうし。そして、僕もきっと同じことをくり返す。――ひとはそう簡単に変われはしないから」
「……そーだ、な」
「でも、だからこそ、もう二度と置いていかないで下さい ――悟浄」
 自らの想いを吐露しながら、今度は八戒のほうから繋いだ手をぎゅっと握り返す。
「もう、ひとりで朝を迎えるのはたくさんです……」
 互いの肩と肩が触れ合うほど傍にいながら、実際に触れているのは互いの片方の手だけ。なのに、そのわずかに触れ合う部分から伝わる、互いの体温、そして互いの想い。言葉だけでは伝えきれないものもそこから伝わるようにと、八戒はさらにきつく指を絡める。
 その動きにあわせて、悟浄のそれもまた、ゆっくりとそのかたちをなぞるように、きつく絡んでくる。どこか情を孕んだその動きに煽られるように、八戒はゆるく吐息を零した。
「俺も、言わせてもらうけど」
「……どうぞ」
「もぉ、頼むから、俺の目の前であんなコトすンな」
 ぎゅうと、悟浄の手が強く八戒のそれに絡んだ。その動きに、びくりと八戒の肩が揺れる。
「悟浄」
「言っても無駄だって判ってるけど、でも、お前がああやって傷つくのは見てらんねーよ……。こんな旅してンだから、ホント言うだけ無駄なんだろうけど」
「そうです、ね」
 くすりと、ひそやかに八戒は微笑む。
「それは貴方も同じでしょう? だから、どうしようもないんですよ僕たちは」
「まったく、な」
 口許に呆れ混じりの笑みを刻んで、悟浄は空いているほうの手でそろりと八戒の頬に触れた。
「ったく、……ホントどーしようもねェの」
 悟浄も、そして八戒も、互いの懇願にはあえて返事をしなかった。その辺りからして、既にどうしようもないのだと、二人ともが判っていた。
 それこそ、こんなことは判りたくはないと、八戒は思う。だが、そんなところが、どこまでも自分たちらしいとも思うのだ。
 だから。
 八戒はふわりと笑みを深めて、眼前の彼を見つめた。空いているほうの腕を上げてたくても、今は怪我のせいでそれもかなわない。その分、触れ合う手に想いを込めて、悟浄に向かいにこりと微笑む。
「だから、こんなふうにたまには思ってることを口にするのも大事なんじゃないかと。僕たち、かなり言葉が足りませんからね」
「ま、そりゃ、そーだけど。いつもは躯で語り合うほうが多いし?」
 にやりと色悪に口許を歪めた悟浄を、八戒は呆れ混じりに見やった。
「……今は無理でしょう、それ」
「まーな。……でも、」
 八戒の頬に手を添えたまま、悟浄の顔が近づいてきた。あと少しで唇同士が触れ合う、その寸前で悟浄の動きが止まる。吐息すら如実に感じる至近距離で、悟浄から眼がそらせない。
「キスなら、ダイジョーブ、だろ……?」
「ごじょ、う?」
 八戒の呟きは、だがすぐに重ねられた悟浄の唇の中に消えた。
 くちゅりと音を立てながら、ゆっくりと、でも確実に唇同士を触れ合うことで互いの熱を高めていく。深まる口づけにあわせて、重ねられた手もまた、明確な欲を感じさせるような愛撫へと変わる。唇と、そして手だけの重ね合いなのに、徐々に身の内に深まる情愛の熱。
 八戒の体に気遣ってか、悟浄もゆるやかに求めるのみで、その動きにいつものような激しさはない。だが、だからこそ、余計に八戒の熱もおだやかにかきたてられていくようで。
 言葉だけでは足りない、言葉だけでは伝えきれないものを、互いに伝え合うために。
 二人は飽くまで、ただ、キスをくり返す。
 触れ合う唇と、重ね合う指先から、想いを――感じて。





「…………ふ、っ」
 長い長い口づけをゆっくり解く。すると、それだけで息が上がってしまったらしい八戒の躯が、くたりと悟浄のほうへと凭れかかった。ゆっくりと上下する胸を宥めるように、八戒はなんとか呼吸を整えようと、目を閉じたまま深く息を吐き出す。
 悟浄の肩に額を乗せていた八戒の耳元に、ふわりと軽いキスが落ちてきた。八戒がその感触にぞくりと肌を泡立てると、途端悟浄のため息混じりの呟きも落ちてきた。
「……あー、もう、今、めっちゃお前抱きてー……」
 切実なまでの悟浄の想いに、八戒も苦笑を禁じえない。
 それは、――八戒とて、同じことなのだ。だから。
「します?」
 八戒はそろりと顔を上げると、悟浄に向かい微苦笑を浮かべながら尋ねる。
 その言葉に、悟浄は一瞬、大きく目を見開いて八戒を凝視した。だが、すぐにこれ見よがしに深くため息をついてみせる。
「こーゆう時のお前って、ホント悪魔に見える……」
「あ、ヒドイなあ。僕だってしたいなぁ、と思ったからそう言ったのに」
「さっき、無理だっつったのはどこのどいつだよ、ったく……」
 悟浄はがっくりと肩を落としながら、それでもゆっくりと八戒から躯を離した。
「あれ、しないんですか、悟浄」
「出来るワケねーだろ、そんなんでっ! いくらなんでもそこまでバカじゃねーぞ俺は。だから、とにかくお前は寝る! で、早く怪我治して、そしたらお前がイヤーつってもぜってー離さねぇから」
 今度は、八戒のほうが、大きく目を見開いて悟浄を凝視する番だった。
 こんな時だけ、どこまでもどこまでも、八戒に甘い悟浄。
 こんな時、本当に大事にされていると実感する。――痛い、くらいに。
 八戒は泣き笑いにも見える表情でふわりと微笑んだ。
「判りました。でも、ひとつだけ、僕の我儘を聞いてくれますか?」
「したい、は却下だからな」
「違いますよ。……ただ抱きしめてくれませんか?」
「――八戒」
 八戒の願いに、悟浄は紅眼を瞠った。それに、八戒はさらに笑み深める。
「貴方といっしょに朝を ――迎えたいんです」
 今、貴方がここにいると、そう ――実感したいから。
 今までの離れていた分も、すべて、埋めて欲しいから。
 八戒の想いは正しく伝わったのか、悟浄は一瞬呆けた、なんともいえない表情を浮かべていたが、ふいに口の端を上げて笑みを刻んだ。
「……リョーカイ。ずっと抱きしめててやる」
 そろりと、悟浄の手が八戒の身体にかかり、そのままゆっくりと寝台に倒された。傷にさわらないよう細心の注意をもって触れてくる悟浄の手に、八戒の胸奥にまた、あたたかくて切ない痛みをともなう想いが流れ込んでくる。その心地よさに身をゆだねているうちに、そっと悟浄も八戒の横に滑り込むように同じ寝台に横になった。それから、比較的傷のない背中からゆっくりと抱き込んでくる。服越しではあるが、久しぶりに全身で感じる悟浄の体温(ぬくもり)に、八戒は安堵の息を漏らした。
 もう、今は、ひとりではないと。
 こうして、――悟浄が、いてくれる。
「……痛く、ねぇ?」
「大丈夫ですよ」
「朝までちゃんと抱いててやるから。もう、寝ろ」
 傷にさわらないようにゆるく、それでいて確実に抱きしめてくれる。
 悟浄のやさしさに触れて、八戒はほんの少しだけしあわせそうに微笑った。


 たとえ、この先、また置いていかれることがあっても。
 たとえ、この先、また同じように八戒が身を呈して傷つき倒れても。
 貴方がいてもいなくても、自分ひとりでも、そして自分がいなくても。
 それでも朝は来るから。
 けれども。


 今は、貴方がいるから。
 今は、ひとりではないから。


「はい、……おやすみなさい」
 八戒はひっそりと呟いて、悟浄のぬくもりに身をまかせながら、うっとりと目を閉じた。
 ――そう。





 せめて今は、――貴方といっしょに、また来る朝を迎えたいから。
 このまま、二人で。








FIN

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