アイノウタ




「――それ」
 ふいに耳に飛びこんできたメロディに反応して、八戒は洗濯物をかかえたまま立ち止まった。
 そのまま己の横を通りすぎると思っていたらしい悟浄が、食卓の前に座って新聞を読んでいた動きをぴたりと止める。
「ナニ?」
 八戒を見上げるかっこうで、悟浄がうろんげな声をあげた。あきらかに悟浄が原因でふいに動きを止めたことをいぶかしむ響きに、八戒は彼に向き直り、苦笑でかえす。
「いえね、悟浄、時々そのメロディを口ずさんでますよね? だから、お気にいりなんだな、と」
 悟浄と同居を始めて早一年近くが経過した頃、八戒がたまたま気づいた彼のくせ――ともいうべきそれ。
 たいていがくつろいでいるとき限定だと思われるが、悟浄が決まって口ずさむ旋律があった。おそらく悟浄も無意識なのだろう。思わずこぼれでた、といった風に自然に洩れ聞こえてくるそのメロディは、八戒には聴き覚えがないものだった。
 もっとも八戒自身、さして歌謡の種類を知っているわけではない。むしろ、その生い立ちから賛美歌と相当有名なクラシックぐらいしかまともに知らない。それでも、悟浄が口にするその曲は、普段の彼のイメージとはかけ離れた、美しく、どこか哀愁をおびた旋律で、八戒はその音を聴くたびになぜか心がさざめく心地がしていた。
 そのメロディを口ずさむ彼の姿は、どこか夢心地にも見えて。
 八戒は気になりつつも、いつもあえて声をかけられずにいた。
 だから、いま、ふいうちで聴こえてきた音にうっかり反応して声まであげてしまったことに、八戒は内心で決まり悪げに舌打ちする。
 だが、そんな八戒の焦りをよそに、悟浄は含みのある表情をうかべた。ふ、と一瞬だけ八戒から視線をはずした後、自嘲ぎみに口の端を軽くあげてみせる。
「……もしかして八戒、この曲がなんてーのか知ってたりする?」
「はい?」
 ここで悟浄から質問されるとは思わなかった。八戒は軽く目をみはると、取りこんだばかりの洗濯物を両腕いっぱいにかかえたまま苦笑を深める。
「……いえ、残念ながらまったく。もしかして貴方も知らないんですか?」
「ああ、全然知らねえな。知ってるんならむしろ教えてほしいくれぇ」
 両の肩をすくめながら意味深な笑みを深めるのを、八戒はなんとも複雑な心境のまま見つめる。
 知らないわりに、なぜあんなにもことあるごとに口ずさんでいるのか、とか。
 知らないのだとしたら、いったいいつどこで、誰から聴かされたのか、とか。
 知らないくせに、その旋律を口ずさむときの、あの心ここにあらずといった雰囲気はいったいなんなのか、とか。
 決して悟浄には知られたくない感情のうねりが八戒の胸中にうずまく。胸奥にこごる想いを散らすように、八戒はたまらずこっそりと嘆息した。
「――ナニ気にしてんのか知らねーけど」
 表情には出していないつもりが、そこはかとなく雰囲気は伝わっていたらしい。悟浄はふいに、くつくつと肩をふるわせて笑い始めた。
「コレ、実はあのひとがよく歌ってたんだよな」
「――え?」
 悟浄の言う『あのひと』とは、間違いなく継母のことだ。彼はいつも八戒たちの前では決して母という呼びかたをしなかった。
 悟浄はおもむろに椅子から立ち上がると、大量の洗濯物を抱きしめたまま固まっている八戒から、洗濯物を約半分引き取ってかかえる。
「あ、ありがとうございます……悟、」
「もしかして妬いた?」
 にやにやと人の悪い笑みを刷きながら、己をうかがうように紅瞳を細める悟浄に、八戒も負けじと口許をゆるめた。ただし、思いきり冷ややかな微笑をうかべて。
「まったくいつものことながら都合よく解釈できますねぇ」
「そーゆうコトにしといてやるよ。で、どこに運べばいいのコレ」
「いったん僕の部屋のベッドの上に置いてください。――悟浄」
「あ?」
 八戒の指示通りに洗濯物を運ぼうとした彼を呼び止めれば、紅の双眸が己のほうに向けられる。八戒はその姿を目の端にとめ、いとおしげに見つめた。
「僕、そのメロディ好きですよ」
「……あ、そう」
「気がむいたときにでもまた聞かせてください」
「…………気がむいたら、な」
 ふいに八戒から目を逸らした悟浄の表情が、ほんの少し照れたように見えたのは気のせいだろうか。洗濯物にむかってぼそぼそとつぶやきつつ、悟浄はまっすぐに八戒の部屋へと向かった。その背中を見て思わず八戒も頬をかすかに染めて笑ってしまったのは、悟浄には内緒だった。



********



「――これ」
 ふいに耳に飛びこんできた歌声に反応して、八戒は思わず買い物中の足を止めた。
 いつも通っている店がたまたま閉まっていたために立ち寄った代わりの店内からその旋律が聴こえてきたのは、偶然以外のなにものでもなかった。
 違えるはずがない。あまりにも聞き覚えのあるメロディの一部。どうやら悟浄がいつも口ずさんでいたのはいわゆるサビの部分のようだ。立ち止まった姿勢のまま、八戒の意識はその歌へと向けられる。そして歌詞つきの状態で初めて聴いてわかったのは、タイトルまではわからずともこの歌がせつない――それでいて甘い愛の歌ということだった。
 そう認識したとたん、八戒はたまらずその場に立ち尽くしたまま赤面した後で、すぐさまなんともいいがたい表情をうかべる。
 悟浄があの旋律を口ずさむのは決まって八戒の目の前である。
 本人は何の歌かは知らない、と言っていたけれど、それが本当なのかまでは八戒にはわからない。
 そして、何より、その歌をかの女性が子供たちの前でよく口ずさんでいたとしたら、それはそれで意味深なことにはかわりはなくて。
 八戒はわずかに目を伏せた。
 ――この歌を今度は八戒が口にしたら、悟浄はどんな顔をするだろうか。
 そのときはもちろん歌詞つきで歌ってみせたら、彼はなんと――
 八戒は小さく微笑むと、店の奥にいるであろう店主へとおもむろに声をかけた。この歌のタイトルを確かめるために。








FIN

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