『ソライロモヨウ』   十河蒼さま






 ――――――――― 雨が、降っている。

 夕方、日が沈む前に降り出した雨は、夜半過ぎには本格的な降りになっていた。
 その少し前から空気が湿ってきていることにはきづいていたから、雨がいずれ降り出すだろうことは簡単に予測できた。
 けれども、わかるからといって何ができるというわけでもない。有無を言わさず起こる自然現象に、如何にして逆らうことができるだろう。
 …否、できることならば、逆らってしまいたいけれども。

 雨の夜は、苦手だ。
 自分のすべてを奪ってしまったものを思い出すから。

  窓を打つ雨音から逃れるように、外界を覆う深淵の闇に背を向けていた八戒だったが、ふと、何かに呼ばれたように顔を上げて、ふらりと窓の傍に歩み寄った。
 眼前に広がるのは、先の見えない闇とそこから降り注ぐ無数の水の矢。

 ―――――――― 悟浄は濡れていないだろうか。

 ふと、そんな埒もないことが頭に浮かぶ。
 数ヶ月前から再び同居(以前は居候と言った方が正しいのかもしれないが)を始めた彼とは、殆どと言っていいほど生活時間帯が一致しない。共に時間をすごすのは、悟浄が昼もかなり過ぎた頃に起きだしてきてから、夕方になって賭場や酒場に出かけるまでの時間だから、はっきり言って数時間だ。それすらすれ違ってしまうことだってあるし、悟浄は賭場に足を向けたついでにそのまま外泊することも珍しくはなかったので、八戒はひとりで過ごすことの方が断然多かった。
 お互いに全くの他人とこれほど長く共に暮らしたことなどなかったから全てが手探りで―――――――― しかし余分な干渉をしない、またはされない今の関係は八戒にとって心地いい。たぶん、悟浄が見た目よりもずっと気を使ってくれているのだろうと八戒は思う。
 悟浄は、優しい。
 それはいまだたった数ヶ月の付き合いしかしていない八戒にも充分にわかることで。
 それが少しだけ、八戒には辛い。

 ここにいてもいいのだ、と、錯覚してしまいそうになる――――――――――――― 。

 しばらく呆然とした風情で窓の外を見やっていた八戒だったが、不意に窓から離れると、そのまま何かに引きずられるように外へと足を運んだ。玄関先でつけていたモノクルを無意識にはずし、ゆっくりと扉を開く。
 途端に全身を些かひんやりとした湿り気を帯びた空気と真暗な闇が包み込む。
 上を見上げれば、ひっきりなしに空から水滴が降り注いでくる。
 それらに誘われるように八戒はふらりと前に身体を進めた。
 そうすれば必然として全身は瞬く間に濡れそぼっていく。しかし八戒は全くそんなことは意に介さないかのように天を見つめたまま立ち尽くしていた。
「…か…なん……」
 不意に、愛しい女の名が吐息のように唇から零れ落ちた。
 途端に力が一切入らなくなってしまったかのように、八戒はふらふらと後退して家の壁に背を預けた。そしてずるずるとそのままその場に崩れ落ちる。
 冷たい雨が、八戒の身体を絶え間なく打ち続ける。
「…花喃……」
 もう一度、大切だったその名を唇にのせて、八戒は瞳を伏せた。

 何よりも大切だった。自分の全てだった。
 彼女がいたから、自分が存在しているはずだった。
 世界でいちばん愛しい女。
 それなのに―――――――― 彼女がいないのに、自分はこうしてここにいる。
 ……どうして?

「かな…ん……花喃…」
 彼女が好きだといってくれた、綺麗だと褒めてくれたこの手を伸ばしても、それは虚空を掴むだけ。
 それにこの手はもう―――――――――――――― 血に塗れてしまっているのに。

『悟能』
 やさしくやわらかい声が響く。
 ずっと聞いていたいと思った声。
『…ねえ、悟能。空って人の心みたいだと思わない?』
 あぁ、そういえば君はそんなことを言っていたね。
 ようやく手にしたぬくもりが嬉しくて、しあわせで、ふたりでいられれば他にはなにもいらないと思った。
『だっていろいろな表情や感情を見せてくれるでしょう?見る人によって感じ方だって違うと思うし……』
 それならきっと、僕の空は君なんだ。
 だって君がいなければ、僕の世界はこんなにも意味がない。
 僕にうれしいという感情やしあわせというかたちを教えてくれたのは君だから。
 君が僕の世界のすべてだよ、花喃。
 だからずっと――――――――― 一緒にいよう。

 ……そう思って、いたのに。

「―――――― 花喃……。泣いて、いるの…?」
 呟いた言葉は、闇の中に溶けて消えた。
 人の心のようだと彼女が言った空から絶え間なく降り注ぐ雨。それがまるで彼女の心を代弁している気がして。
 浮かぶのは、最期に見た彼女の涙に濡れた表情。
 それとも責めているのだろうか。約束を守れなかった自分を。
 「…泣かないで……花喃…。僕が……… ―――――――――― 」
 続きを言葉にしようとして、けれどもできずに八戒は虚空に向かって伸ばしていた手をぱたりと落とした。
 できるわけがない。
 そんな資格は自分にはない。抱きしめることももうできない。
 贖いきれないほどの罪と、血に塗れてしまったこの両手では。
 彼女の最期の笑顔が何度も何度も伏せた瞳の奥で再生される。
 『さよなら、悟能』
 最期の言葉はそれでもやわらかくやさしかった。

 あぁ、どうして。
 <猪八戒>は、ここにいるのだろう。
 もうこの世に………<猪悟能>はいないのに。

「―――――――――――――― おい、コラ」
 不意に沈みかけた思考を引き戻されて、八戒はぼんやりとした思考のままゆっくりと顔を上げた。
 目の前には久方ぶりに顔をあわせる同居人が立っている。
 見ればやはり傘を持っていなかったのか、全身ずぶ濡れである。
 それらをことさらゆっくりと知覚してから、八戒は徐ににこりと笑った。と、その笑顔を向けられた悟浄はぴくりと顔を歪める。
「…おかえりなさい。ずぶ濡れですね、悟浄」
 傘を持っていかないから…などと、八戒は今の自分の状態は棚に上げて呟く。
 言われた悟浄の方は、相変わらず顔を顰めたまま、中途半端な伸びかけの髪をかきあげた。水気を含んで些か重く色彩を変えた髪から、雫が零れ落ちる。その様を何気なく八戒は見ていた。
「……で?お前はまたナニやってンの?」
「なにって…………」
 ぼんやりと呟き、八戒は再び空を見上げる。
 相変わらず雨は降り続いているが、先程よりはその雨足を弱めたようだった。
「…別に、何も。雨だなぁ…って」
 何故そんなことを聞かれるのか、不思議そうに八戒が返せば、悟浄が大きく溜息をついた。
「八戒サン、それ二度目。二番煎じはウケないのよ」
 溜息混じりに呟きつつ、悟浄は座り込んでいる八戒に手を伸ばしてきた。立つように促されたのであろうその手を、しかし八戒は取らなかった。

 血に塗れた手で、触れるなんて。

 そんなことはしたくない、と八戒は思った。そんなことをすれば、悟浄までもが穢れてしまう。優しい、目の前の男が。
 困ったように八戒は微笑む。それを見て悟浄が眉を顰めた。
「あの……僕、もう少しここにいますから……。悟浄は先に中に入っててください。風邪ひいちゃうといけませんから」
 あと、少しだけ、この冷たい雨に打たれていたかった。
 何をするというのでもない。何ができるというわけでもないのだけれど。
 それは贖罪、なのだろうか。
「 …………………………… 」
 悟浄は何も言わなかった。
 視線を八戒から外し、八戒と同じように空を見上げ、それから再び大きな溜息をひとつついた。
 そしてまた水の滴る髪をかきあげつつ、どっかりと八戒の傍らに腰を下ろす。
 突然の悟浄の行動に八戒が二の句を告げないでいると、グイと頭を引き寄せられた。
「…悟…浄………?」
 ここにこのままいたい、というのは八戒の意思で、悟浄がここにいるべき理由はない、はず。
 訝しげに八戒が名を呼ぶのに、悟浄は八戒と視線を合わせないためか、引き寄せた八戒の頭を自分の肩口に乗せ、その大きな手で八戒の目元を覆った。
「……お前はココにいたいんだろ?」
 呟かれた言葉に、ゆっくりと八戒は頷く。
「俺もココにいたいなぁ、って思ったワケよ。だから、少し場所譲れって」
 狭いンだから、とぶっきらぼうに付け足される。
 けれども八戒には悟浄が取った行動の意味がなんとなくわかって――――――――――――――― やはり少しだけ、胸を痛めた。
 悟浄は優しい、本当に――――――――――― 。
 手で目元を覆われて視界が遮られる中、悟浄がチッと舌打ちしたのがわかった。先程なにやら懐を探っていたようだったから、手持ち無沙汰にいつもの癖でタバコを取り出したのだろう。けれども降り続く雨をさえぎるものもない今の状況では吸えないことに思い当たって、それで。
 見えないのに、状況が手に取るようにわかる気がして八戒は苦笑した。
 その身動ぎが伝わったのか、悟浄がこちらに視線を向けたのを八戒は感じた。感覚の一部が遮断されるとそれ以外の部分の間隔が敏感になるというのは本当かもしれない、などと八戒は人事のように思っていた。
 悟浄の手に少しだけ力が籠もる。
 伝わってくるぬくもりに、八戒は自分の手をぎゅっと握り締めた。


 ムネガイタイ――――――――――――――― 。


 悟浄の優しさに触れて、それを嬉しいと感じてしまう、自分のその罪深さ。
 だからそれを許してはならない。

「… 悟浄 ……… 」
 小さく、小さく八戒が名を呟けば、それをきちんと聞き拾った悟浄が、
「……… 大丈夫だから …な?」
 やはり小さく、答えともつかぬ言葉を返してきた。
 何が、とは言わない。
 その中にも悟浄の優しさが感じられる気がして、八戒はかすかな疼きを訴える胸裏とともに、悟浄の暖かく大きな手のひらに覆われた瞳をそっと伏せた。
 ―――――――― きっとこの痛みは、この先自分の胸中から消えることはない。
 そんな予感めいたものに包まれながら、それでも麻薬のようなこの冷たい雨と悟浄の暖かいぬくもりに身を任せるように。








〜 fin 〜

うわーん、切なくて綺麗な壊れかけ八戒のお話、ありがとうございます!蒼さんの書く、まだまだ雨と過去に囚われまくりの八戒さんの儚さが大好きなのですが、この話ではまさに全開で、こう、胸がしめつけられるような思いです(泣)。でも、悟浄がいるから、この痛みも抱えたまま、いつか笑える日が来ることを信じています。素敵なお話、本当にありがとうございました、蒼様。

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