『キスの手前』  十河蒼さま






「好、き」




今までそれこそ数え切れないくらい、キスという行為を重ねてきたけれど。
こんな気持ちになったことなんて、一度も、なかった。

「スキ」

唇を重ねあう直前にそう囁いてくる女もいた。
けどそんなのはいわば挨拶みたいなモノで。
ソレの意味とか理由なんて、考えたコトなかったし、考える必要なんてなかった。

こんな感情は、知らない。

「……八戒」

目の前にいるのに、『ここ』にはいない男の名をぽつりと口にしてみる。
瞳は伏せたままで、まるで暗闇を進む時のように、手探りの指が伸ばされる。
細く長い、キレイな指先。
その指が求め続けるのは、
今も、きっと。

そう、思えば、先刻と似た不可解な感情がせり上がってきて。
思わず、その白い指先を捕らえていた。

「…は…っかい……」

きっと届かないと、知っている。
けど、その名を口にすれば、
先刻の苦い気持ちが少しは薄れるような気がして。

「……はっ…か…い……八戒………」

何度も何度も。
馬鹿みたいに繰り返し、彼の名を口にする。
そして抱き寄せて。
視界を紅でいっぱいにする。
八戒が、戒めだといった、この紅で。

―――――――――埋めつくしてしまえたら、いいのに。

それはきっとかなわない。
ついぞその口から名を聞くことができなかった『この男』に対しては。

届くことは、ない。

アイシテル、なんて今はもういない女の名を繰り返し呟いて、
その姿を捜し求めるこの男には、
俺が呼びかけている名さえ、必要ない。
今コイツに必要なのは、
愛しい女の名前だけ。

「八戒……」

それでも再度呼びかければ、ゆうるりとその瞳を開く。
雨の中、真っすぐにこの紅いイロを捕らえた碧。
その碧が再びこの罪にまみれたイロを捕らえて。
夢の続きを見ているような風情で、
うっとりと微笑んだ。


………なのにその瞳は俺を見ていない。


それでも、求めるように伸ばされる腕。
カタチのいい指先が頬をすべり、縋るように紅い髪に絡められる。
顔がそっと引き寄せられて、ふわりと八戒の髪の香りが鼻腔を擽った。

また、先刻の不可解な感情が甦ってくる。

きっと、『ここ』にいない八戒は、幸せ、なんだろう。
――――――と、そう思うたびに。

決してわからない、そんな気持ち。
だって、そんなモノ知らない。わからないから。
わからないのに。

わからない、けど――――――――――――。

唐突に、知りたいと、思った。
この気持ちが何なのか。
だから。



「…好、き」



と。そう。
呟いてみて。
そっ…と、触れるだけのキスを落とす。

触れる直前、胸がツキリとかすかに痛んで。
わきあがってくる感情を、持て余しそうになる。

クルシイ

八戒は誰とキスを交わしている?
こんなに幸せそうな哀しい笑みを浮かべさせているのは……誰だ?

そう思えばますます苦しくなって、
触れるだけだった口づけを、ほんの少しだけ、深くした。

冷たい唇。
『彼女』以外を拒絶するかのような。
虚無に包まれた行為。
それが苦しい。

何故そう思うのかを考えて、
それから、
苦く自嘲の笑みをうっすらと浮かべた。

他人など必要ないと、すべてを拒絶して生きてきたはずなのに。
自分を必要とされることで、救われていたい、なんて。
滑稽にもほどがある。


あぁでも、それでも俺は。


冷たくイロを失った唇に、熱を移すように唇を重ねれば。
しばらくして、ぴくりと八戒の長い睫が震える様が、うっすらと開いていた視界に入ってきた。

――――――八戒が、名も知らなかった男から八戒へと戻ってくる。

その瞬間。
それまでの苦い気持ちが消える。
代わりに訪れるのは、嵐の後の凪いだ海のような、狂おしい想い。
知らない想い。

その想いが胸を焦がすのを感じながら、八戒からゆっくりと身を離す。
追うように伸ばされた指先は、するりとかわした。
自分も知らない荒れ狂う感情が、八戒をも犯してしまいそうで。
共有の熱が消えれば、ソレも消えるような気がして。

唇に触れていた、分け合っていた熱が薄れていく。
その時。


――――――――許して…、と。


八戒が、言葉を綴った。
声にはならなかったけど、わかってしまった。

ユルシテ

それは最愛の彼女を、守るべき大切なモノを、
その手から離し、ひとり生き延びてしまったことへの贖罪の言葉なのか?

わからない。
何度でも甦る、この不可解な感情。
その度にこの胸の内には嵐が訪れるけれど。
それでも。
この血色が八戒をココに―――――――俺の傍に繋ぎとめているのなら。
たとえ傷だらけになって、この罪深い血で辺り一面を染めてしまっても。
八戒にとって紅がただの戒めでしかなくても。

八戒に、触れていたいと、俺はそう―――――――――。

そのためなら、きっと、なんでもできる。
どんなに苦しくても、八戒が八戒であるためになら。
八戒が求めるままに、
俺はこの苦しささえ望むだろう。
だから。



キスを



伸ばされた指が縋るように触れるのは、不完全な感情に支配された、現実という『紅』。

それはきっと、罪深く、残酷な足枷。








〜fin〜

蒼さんお得意の切なさいっぱい同居時代シリーズ(←成瀬が勝手に決定)第一弾です!はっきり言いましょう。悟浄、めちゃめちゃケナゲですねーーー(涙)! 彼のあまりの八戒に対する想いの切なさに、胸が締め付けられる思いです。早く、本当に早く、こんな二人が手を取り合える日が来ますように。
というわけで。八戒編『キスの温度』もあります。ぜひあわせてお楽しみ下さいね♪

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