『キスの温度』   十河蒼さま






「すき」



彼女はちいさくそうつぶやいて、羽根がふれるようなくちづけをくれた。

「……すき、よ」

そうしてはかなげにほほえむ愛しいひと。
手を、はなしたら。
きえてしまいそうで。
この腕につよく、つよくだきよせた。

「…花喃……愛して…る……」

こころからのことばをつむぐと、目の前の彼女はかなしげにわらった。

「ごのう………」

やさしい声が脳裏に響き、染みこんでいく。
くり返し、くり返し。
もっと、その名を呼んで?

「………の…う……」

雨音がうるさくて、きみの声が聞こえない。
仄昏いこの世界では、なにも聞こえない。なにも見えないんだ。だから。

―――――――――― キスを。

きみのぬくもりを感じて、きみとひとつになって、溶け合ってしまえたら。

そういえば、たしかにわらってくれたのに、きみにもう手がとどかない。

どんどんちいさくなっていく、その声とぬくもりを追い求めるように、
薄闇に無我夢中で手をのばす。
それなのに名をつむぐ声もくちびるのあまいあたたかさも、もうどこにもない。

ドコニモイナイ。

途端に恐怖にも似たモノが身体中を走りぬけた。
たったひとり、深淵の闇にとり残される恐怖。
喉の奥から誰かの名を絞りだそうとして、声にならない。

―――――― 誰の名前?

瞳は伏せたまま、正面の闇に手をのばす。
その指が、ふと温かさに触れた気が、した。

「    」

『それ』に何かを囁かれる。

「   …ぃ…」

ゆっくりと、かたちを為していく音。

「  …か…い…」

胸の奥の、いちばん深いところに響いてくるような声。

「  っ…かい…」

不思議な、聞きなれない異国の言葉のよう。
それでも、知っている。

「……八戒」

その瞬間、はっきりと音になった言葉。
ぼんやりと霞がかかったような意識の片隅で、それが名前なのだと知覚した。

……名前……誰………?

そこまで考えて、ようやくそれが今の自分の名であることを理解する。
『猪悟能』の名を捨て、『猪八戒』としての新しい生を。
それがこの罪人に与えられた、残酷で甘い罰。

「八戒……」

再びそっと名を紡ぐその声は、どこか懐かしい気さえした。
低く、ほんの少しかすれた、優しい声。
その声に導かれるようにゆっくりと瞳を開けば。
視界いっぱいに広がるのは、紅。
犯した罪と負うべき贖罪を暴くような戒めのイロ。

血の色。

彼女と、辺りと、そして醜い自分をも染め上げた色。

夢を見ているような心地でうっとりと微笑み、その色に手をのばせば、
眼前の、結晶のような紅い瞳がすぅっと眇められた。
顔に滑らせた指にさらりとした感触の髪を絡め、
ゆうるりとその顔を抱き寄せ、唇を近づける。

ぬくもりを得るために。



「……スキ」



冷たい唇に、口づけが落ちてくる。
羽根の触れるような。
キスが。

―――― けれど。
触れたのは、ぬくもりというよりも ――――――― ネツ。

羽根が触れるようなキス。
彼女と交わした戯れるような優しいそれと同じ行為。
そのはず、なのに。

感じるのは、狂おしいほどの、熱さ。

彼女とは、違う……。

それならば。

ココニイルノハダレ?

触れる熱。今の名を紡ぐ声。戒めの ――――――― 紅。

モノクロの世界が紅に染まる。
つぎつぎと浮かび上がる紅。
醜い両手を染めた紅とは比べものにならないほどの、それはそれは鮮烈な。





少しだけ深く重ねられた唇と、その熱で、
モノクロの世界を染め上げた鮮やかな紅が、
誰のイロかがわかった。

――――――――――――― 悟浄

心の中に唐突に浮かび、波紋を広げていくその名を、
けして唇にのせることなく、胸の内だけでそっと囁く。

悟浄……。

彼女とは違う、けれど失いたくない、失ってはいけない存在。
こんなにも両手を罪の色で汚したというのに。
あれほど何かを望むことを拒絶していたはずだったのに。

――――――― そうしてまた、罪を重ねていくのだ。
あさましいこの身は――――――――――― 。

触れていたネツがゆうるりと離れていく。
そのネツを追うようにのばした指先は、けれどやんわりと拒絶された。
この醜い身体を這う、すべてを絡め縛るような蔦から逃れるように。

唇からネツが奪われていく。
元の冷たいモノに戻っていく。

そのネツが唇から消えていく直前、小さく、声にならないほど小さく、呟いた。


―――――――― 許して、と。


戒めなどと言って、優しい貴方が拒めないのを知っていて、
それでも貴方の傍にいたい、
卑怯で狡い僕を許してください。
貴方が傷ついても、それでも。
貴方のそのネツが、この罪人を現在に繋ぎ止めているのです。



だから。 キス、を



手をのばせば、望むとおりに堕ちてくる、どこまでも優しい、ネツ。

それはとても甘く、残酷な鎖。








〜 fin 〜

蒼さんお得意の切なさいっぱい同居時代シリーズ(←成瀬が勝手に決定)第一弾です!こういう不安定な八戒の感情の揺れを表現するのが本当にお上手。くくぅーーーー! 切ないですよねぇーーーー! これを読んでいると、本当に二人が惹かれあったのは必然だと心から思えるのです。
というわけで。悟浄編『キスの手前』もあります。ぜひあわせてお楽しみ下さいね♪

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