「翳り」


 彼の処遇を告げた瞬間の。
 あの、凍りついた表情が、嫌でも脳裏から、離れない―――。


 苛立ちもあらわに、三蔵が部屋の扉を開けると、一月ほどこの部屋の住人であった男は、寝台に腰掛けたまま、じっと己の手をただ見ていた。
 その姿を認めた途端、三蔵はこれ見よがしに深くため息を吐く。わざと、彼が気づくようにしたその行動は、正しく男に伝わったらしく、ようやく彼はそろりと顔を上げ、三蔵のほうへと視線を向けた。
「―――三蔵さん」
「今、いいか」
 三蔵は険しい表情を浮かべたまま、後ろ手で部屋の扉を閉めると、そのまま扉へと背中から凭れ掛かる。あいかわらず、この男は夜になっても明かりをつけない。だから、この部屋の光源は、鉄格子付の窓から差し込む月明かりだけだった。その月光を背にしているせいか、三蔵からだと男の表情自体がそれほどはっきり見えるわけではない。だが、目の前の彼がゆるりと、口元に小さく笑みを刷いたらしいのは、雰囲気で判った。
「猪八戒、………この名前、いったいどなたがつけたんですか?」
 ふと呟かれた彼の言葉に、三蔵はぴくりと片眉だけを器用に上げた。
 今日の昼間、ようやく眼前の彼―――猪悟能の処遇が正式決定したため、この男を三蔵の政務室まで呼びつけ、三蔵の口からその内容を直接伝えた。その時の、彼の表情がどうにも気になって、こなすべき仕事を終えた途端、三蔵は勢いのままこの部屋へと向かった。
 下手すると、自害でもしかねないような、―――そんな雰囲気すら漂わせていたから。
 俺の目の届くところで死なれちゃ、胸クソ悪ぃからな、と胸中で言い訳をしつつ、三蔵は彼を無視しきれない自分自身にすら苛立ちを覚えながらも、それでも足は勝手にここへ向かっていた。実際、部屋にたどり着いてみると、男から思いつめたような雰囲気は感じられたものの、死への予感めいたものは感じられず、三蔵は無意識のうちに心中で安堵していた。
 三蔵は袂から煙草を取り出すと、それを口に咥えた。そして、慣れた手つきで火を灯す。チン、と、ライターから発せられた澄んだ音色が、他に音のない室内に大きく響いた。
「さあ、俺じゃねぇことは確かだ」
「“八つの戒め”……僕を戒めている八つのものって、何なんでしょうね…」
「―――」
 猪八戒、と新しい名を与えられた男が、ひっそりと自嘲しながら問いかけてくる。三蔵は、す、と、眦を眇め、ため息と共に大きく紫煙を吐き出した。そして、その問いにはわざと答えず、じっと目の前の男を見据える。
「お前、この後、どうするつもりだ?」
「どうするといわれましても、…とりあえず寺院(ここ)を出てからのことは何も。特に、行くあてもないですし」
 八戒の返事に、三蔵は小さく瞠目して、彼を凝視した。
「―――ここを出るのか?」
 日中、彼に処遇の結果を告げた時、行くあてがないのならここにいればいいと、三蔵はそう彼に告げていた。だから、彼の、ここ―――寺院を、三蔵の元を去る、という返答に、三蔵は頭の芯が一瞬にして冷えたような奇妙な喪失感を感じた。そして、そんな感情を抱いた自分に対して、苛立ちは募る一方だった。
 だから、その焦燥感をぶつけるように、三蔵はきつく目の前の彼を睨みつける。
「ここにいればいいと、俺は言っただろうが」
「いられませんよ」
 きっぱりと、八戒は言い切った。そして、今度は三蔵の顔を見据えながら、再度口を開く。
「いられるわけ、ないじゃないですか。…ここに、なんて」
「―――それで、」
 奴―――悟浄のところになら行くのかと言いかけて、三蔵は止めた。それを口にするのは、三蔵の矜持にかけて、出来るはずがなかった。
 八戒は、めずらしく言葉を切った三蔵の様子を静かに見つめていた。そして、ふと口元をほころばせると、三蔵に向かい深々と頭を下げた。
「明日、ここを出ます。本当にお世話になりました」
 八戒のその姿に、三蔵の中で、何かがぷつりと切れる音がしたような気がした。
 どうして、この男は、三蔵の触れられたくはない心の深淵の琴線に、こうも易々と触れてしまうのだろう。なのに、彼は自分の元から去るという。三蔵をこうまで掻き回しておきながら、それでも、涼しい顔で。
 三蔵は咥えていた煙草をそのまま足元に落とすと、乱暴に足で踏みつけた。それから、瞬時に彼に近づき右肩を強く掴むと、そのまま寝台へ押し倒した。
 二人の視線が交錯する。
「抱かせろ」
「―――」
 一言そう告げた三蔵をじっと見つめた後、八戒はうっすらと微笑んだ。
「いいですよ」
 八戒の返事を合図に、堰を切ったかのように、三蔵は荒々しく眼前の男へ口づけた。そして、八戒の躯を寝台へ押し付けながら、深く強くむさぼるような接吻を仕掛ける。
 ―――手に入れたと、思った。
 だが、この男も、結局は三蔵の元からすり抜けてしまうと、そういうことなのか。
 寝台に投げ出され、淡い月光に照らされた彼の躯は、結局そのすべてを奪い尽くせない象徴のようで、余計に三蔵の苛立ちを煽った。
「………もしかしたら、」
 口づけの合間に、八戒がささやく。
「戒めの一つは、三蔵さん、貴方かもしれませんね」
 八戒の言葉に、ふと動きを止めて、三蔵は上から見下ろす形で彼を凝視した。

 三蔵が、八戒の“死”への戒めというのなら。

 今、三蔵に出来ることは、―――この男が“生きている”ことを、その身に判らせることだ。
 三蔵はくつくつと喉を震わせて嗤うと、八戒の薄い唇をそろりと舐め上げた。そして、にやりと口の端を上げ、彼の首元をゆっくりと撫でる。
「それなら、しっかり戒めといてやるよ」
 その言葉に、八戒は苦しそうに、―――それでもふうわりと笑みを零した。
「………ありがとう、ございます…」
 口ではそう言いつつも、まだ、八戒のなかでは完全に割り切れていないのだろう。それは、今の彼の表情からはっきりと伝わってくる。ならば、今、三蔵のすべきことは、ひとつ。
 だから、その行為を続けるために、三蔵は再び八戒に接吻けた。一番、強引なやり方で。“生きている”と、はっきり彼に判らせるために。


 せめて、今だけでも。


FIN  


成瀬様の御本『月蝕』の表紙として描かせて頂いたイラストです。時間がなくて結局本はモノクロでしたが、
私がイメージしていたのはこんな雰囲気だったの〜!!と成瀬様に添付メールを送りつけたら成瀬様も
色付けた方が断然いい!!と言って下さり、人のいい成瀬様をそそのかしてSSを強奪vvv
モノクロは八戒さんがきつい雰囲気を出してましたが、色を付けると柔らかいしっとりした感じになったかな?
ちょっと色鉛筆ちっくな八戒さんの髪がお気に入りですv
成瀬様vステキなさんぱちありがとうございました〜!!
やっぱりやっぱりやっぱり!私は貴女の書かれるさんぱちが好きですvvv
この異様な執着心v三蔵様素敵ですわ♪手に入れたと思ったのに手に入らない。
そんな三蔵の気持ちを手玉に取っちゃう八戒さんが素敵〜vvv

本当に、素敵なさんぱちありがとうございました!ぜひぜひまた次も宜しくお願いします〜v


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